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第三章 虫男じゃなくて蟲男

 喫茶店「ルデーヨ」をやめてエプロンをぬいで、タクミは店を出た。今まで冷房の中にいたので外の熱風がじっとりとタクミの冷えた肌をおそう。しだいに汗がじわっとふき出して服をぬらした。髪の毛の先からもぽつりぽつりと汗がしたたり落ちる。

「エグーロの部屋に帰ろうかな」

そうつぶやくと、タクミは歩き出した。エグーロの部屋は「ルデーヨ」から歩いて十分くらいのところにある。

夏の日中なので通りを行きかう人は少ない。だから人々の心の声も春や秋にくらべて夏は少なくなる。だからといってあんまり調子に乗って出歩いていると暑さにやられて水分を失って、へとへとに疲れてしまう。だから歩きすぎに気をつけなければならない。

 夏の街を五分くらい歩くと心の声はまったく聞こえなくなってしまった。日陰ではないのに暑さも全く感じない。あたりを見回しても誰も人の姿は見えなかった。

 また五分くらい歩いてもなかなかエグーロの部屋のらせん階段入り口にはたどりつかなかった。

「おかしいなあ」

タクミはさっきから異変を感じていた。暑さも感じないし、人々の心の声も聞こえなくなったので、タクミは世界から取り残されて一人ぼっちになったように感じていたからだ。こんなに日差しをあびているのに、ぜんぜん暑くないなんておかしいや。それに、こんなに歩いているのに誰とも出会わないなんて。

 それでもタクミは歩いた。また五分歩いても目の前にあったのは、なんと喫茶店「ルデーヨ」だった。道を間違えたのだろうか。通りに面したガラス窓から「ルデーヨ」の中を見ても、店内には誰もいなかった。店長もお客のすがたも見えない。そして「ルデーヨ」の前の通りにも誰もいない。誰も歩いていない。

無人の世界、心の声の無い世界。タクミは心の声なんてうるさいものくらいにしか思っていなかったけれど、さすがに何も聞こえなくなるとさびしいものだな、と思った。

しかし今はそんなことを思っている場合ではない。これは異常であり、緊急事態であり、何らかの魔法が使われているかもしれないのだ。もし魔法を使っているのがエグーロの味方だったらいいけれど、もしエグーロの敵だったら、下手をすればタクミはこの世界からその存在を消されてしまうことだろう。

タクミはこの無人の空間から逃げ出そうと思いっきり走った。走って走って走りまくった。心臓がバクバクと鼓動をうち、息苦しくなっても走った。不思議と汗はでてこない。それでもまだ、誰とも会っていない。

そのうちに辺りが暗くなった。上を見上げると赤色の不吉な雲が空をおおっている。まずます事態は深刻だ。

走っているその道の先に、一人の男性が立っている。タクミは走るのをやめた。息が苦しい。男はふりかえった。タクミはぎょっとした。

その男は背広を着ていた。そこまではいい。問題は首から上だ。その男の頭はカナブンでできていた。男の頭は金属のような光沢をもち、油でテカテカに七色に光っていた。なにしろカナブンだもの。そして普通の人間のこめかみにあたる部分からは六本の、昆虫特有の節を持った六本の脚が生えていた。そのカナブンの頭をした男は息をととのえている最中のタクミに言った。

「やあ、タクミ君。こんにちは」

金属と金属とがこすれあうような声だった。タクミは息をととのえたけれど、のどがからからにかわいているので何も言うことができない。そしてその男の心の声は聞こえずに、ただ黒いものがちらちらと見えただけだった。それはどこかで見たことのある心の形だった。そう今日、つい数時間前、喫茶店「ルデーヨ」で。ハッとタクミはカナブンの頭をした男を見た。どことなく、ものすごく陰気な男に似ていないこともなかった。そういえば、「ルデーヨ」でその陰気な男の顔を見たときに、なんか昆虫じみた顔だな、と思ったのだっけ。

「どうやら私のことを覚えていてくれたようですね、タクミさん」

金属と金属とがきしむ。耳ざわりな声だ。タクミの息が整った。つばでのどのかわきもおさえられた。

「あなたは喫茶店のお客さんですね」

そうタクミが言うと、カナブンの頭をした男が笑った、ように見えた。タクミはカナブンの笑い方なんて知らない。

「そうです。それにしてもタクミさん。あなたは魔法使いとしては出来損ないもいいところ、からっきしダメの落第点のようですね。こんな罠からもぬけ出せないなんて」

「余計なお世話です」

本当に余計なお世話だ。

「はい、私は余計なお世話が好きなんですよ」

と言うとまたその男は笑った、かのように見えた。

「あなたは僕になんの用なんですか?」

するとその男は笑いを止めた。

「そうでした。まだ自己紹介がまだのようでした。普通、魔法使い同士ではそんなことはしないんですけれど。あなたはどうやら自己紹介をしなければならないようですね」

「余計なお世話です。それに話をはぐらかさないでください」

それでもカナブンの頭をした男は自分で勝手に話を進めていった。

「はい。私の名前は蟲男です。ちなみに虫男じゃ、ありません」

本当に蟲男だった。最初に「ムシ」と男が言ったところでは少なくとも三つの「ムシ」が同時に聞こえたけれど、二番目の「ムシ」では一つの「ムシ」しか聞こえてこなかったからだ。いったい蟲男はどんな舌をしているのだろうか。そもそも舌なんてあるのだろうか。

「どうも、蟲男さん。僕の名前は知っているようですね」

「そうですよ、タクミさん。あなたは魔法使いエグーロとその使い魔フォルミコ、そして出来損ないの弟子タクミの三点セットとしてけっこう魔法界では知られているんですよ。そのことをもう少し自覚したらいい。もっともいくら有名でも就職はできませんけどね」

と言うとまた蟲男は少し笑った。タクミは少しイライラしてきた。

「それで、蟲男さんは何の用なんですか?僕に嫌味を言うためにわざわざ僕を罠にかけたんですか?」

「いやいや違います」

カナブンが横に振れた、脚がばらばらに動いた。それはなかなかに気持ち悪い光景だった。

「タクミさんに渡したいものがあるんです」

「僕に?」

「そうです。タクミさんの誕生日は明日でしたよね。だから誕生日プレゼントです。ほいっ」

蟲男が「ほいっ」と言ったところでタクミの目の前に黒いコートが現れた。

「それがタクミさんへの私からのプレゼントです。お誕生日おめでとうございます」

タクミは拾ってみた。どこからどう見ても何の変哲も無い普通の黒いコートだった。

「こんな暑い夏にコートのプレゼントですか?」

「あらら、お気に召しませんでしたかな?人間に服を送るときは季節を先取りするものだと聞いていたのですけれど。でも、それはきっとタクミさんのお役に立つと思いますよ」

そういうと男はタクミに背を向けて歩き出した。

「ねえ、待って」

と言うか言わないかタクミが考えているうちに、立ちくらみの時のように頭に血がのぼった。視界が溶けて暗くなった。

 気づくとタクミは通りの真ん中で寝転がっていた。上半身を起こすと見学者や通行人がタクミのまわりに立って何やら心配している。

(あの子大丈夫かしら)「生きているのかな?」(熱中症?)「日射病かしら」「それとも熱射病か?」(男の子にしてはかわいい子だなあ)「おーい、君、大丈夫か?」

 脳がピリピリふるえる。

あわててタクミは起き上がった。そしてすぐそばに置いてあったコートに気づくと、一瞬間だけ迷って、それを持って走り出した。周りの人は驚いた顔をしていたけれど気にすることはない。すぐにタクミはエグーロの部屋の入り口について、らせん階段を降りると紫色の扉を開けた。


部屋ではエグーロがあぐらをかいて待っていた。やっぱりか、みたいな顔をしていた。

「ふしゅー。ふしゅー」

(今、タクミがここにいるということは、ルデーヨはダメだったか)

タクミはうなずいた。

「ダメでした」

ふむふむと、エグーロはうなずく。そして思いついたかのように言った。

「ふしゅー、ふしゅー。ふしゅー」

(なら旅支度をしろ。旅費は私がやる。明日の朝に出発して星の谷をめざせ。そこにタクミの仕事があるはずじゃ)

エグーロの話はいつだって突然すぎる。星の谷といきなり言われて、人はそう簡単に、「ああ、あれですね。わかりました」と答えられるのだろうか?少なくともタクミはだめだった。

「明日の朝に?星の谷ですか?仕事って何ですか?それに星の谷って、どこにあるんですか?」

それらの質問を聞いて、またふむふむとエグーロは何度もうなずいた。

「ふしゅー、ふしゅー、ふしゅー」

(星の谷がどこにあるかは私も知らないのじゃ。自分で探すのもまた修行である。とにかく星の谷を目指せ。これはタクミの仕事を見つける旅でもある。だからタクミ自身がその場所を探さなければならない)

そういうとエグーロはパチンと指をならした。するとタクミの足元に濃い緑色の大きなバックパックと茶色い紙袋とが現れた。タクミが茶色い紙袋を取ってあけると一千ステーロ札が四十枚も入っていた。

「四万ステーロも!こんなにたくさんくれるんですか?」

「ふしゅー、ふしゅー」

(一日早い誕生日プレゼントじゃ。旅費にするが良い)

と言うとエグーロはにっこり笑った。タクミはもう何がなんだかわからなくなっていたけど、うれしくて泣き出しそうになった。

「ありがとうございます。でも星の谷って本当にどこにあるんですか?だいたいどこら辺にあるかくらいでも教えてくださいませんか」

するとエグーロは首を横にふった。

「ふしゅー、ふしゅー」

(本当に私は何も知らないんじゃ。でもそのわきに抱えたコートはちゃんと持っていたほうがいいことは確かじゃ)

タクミは「コート」について言われたのでびっくりした。

「このコート、いや蟲男のことを知っているんですか?」

そう聞くとエグーロは少し悲しそうにほほえんだ。

「ふしゅー、ふしゅー」

(私はおまえの師じゃ。なんでも知っておる)

そしてエグーロはそれ以上コートについて口を開くことはなかった。もちろん星の谷についても。

というわけで、またエグーロ老人のきまぐれで、タクミは明日の朝から星の谷をめざす旅に出ることになってしまった。

 その日、エグーロの部屋を出る時、タクミは六年間も父親代わりになって世話してくれたエグーロにお礼とお別れを言った。

「今まで育ててくれてありがとうございます。仕事が決まったら手紙を必ず書きます。」

それを聞いてもエグーロは動かなかった、何もしゃべらなかった。心の声も聞こえてこない。もしかしたら泣いているのかもしれない。なにしろエグーロは涙せんが壊れているので涙は流せないのだ。

タクミはフォルミコにも最後のお別れを言った。その時にフォルミコはタクミに蟻を一匹紹介した。いとこのフォルミキンドだという。

「おいらからの誕生日プレゼント。こいつはキンドと呼でやって下さい。足は五本しかありませんけれど、使える奴です。タクミがこいつを必要としている間はずっとこいつがそばにいます」

フォルミコの隣にいる蟻は確かに足が五本しかなかった。タクミは

「やあ、キンド、よろしく」

と言ってタクミは蟻の頭に右手の小指のツメで星の形を刻みつけた。これが使い魔の印である。同じ印がタクミの右手の小指のはらにも青く浮かび上がった。印つけが終わると五本足のフォルミキンドは話しだした。

「やあ、半人前の魔法使い君、よろしく。おひさしぶり、だったかな。旅の間はよろしく。そうだね、耳は耳あかがたまってくさいだろうから、僕は君のおへそにいることにするよ」

「よ、よろしく。」

ずいぶんと偉そうな使い魔だった。キンドはタクミの左の靴から足を登り、腰をつたってタクミのおへそに入った。おへそがこそばゆい。

そしてタクミは六年間通いなれた紫色の扉をあけて、エグーロの部屋を後にしたのである。そしてアゾト家の屋根裏部屋に戻ると、エグーロからもらった濃い緑色のバックパックに荷物を詰めていった。

 まずは一週間分の着替えである。半そでのシャツに、長ズボン。下着に靴下にハンカチも入れておく。それから奥の方に蟲男からもらったコートをつめておいた。歯ブラシにちびた石けん、タオルを二枚、輪ゴムを五本に磁石が一個、そして昔エグーロにもらっただいだい色の宝石と非常食用のチョコレートを五枚も入れておいた。最後に、外国で言葉が通じなくて困らないように国際語の小さな辞書をいれておいた。

 それらを全てつめ終わった時にシャツをはだけておへそを見ると新しい使い魔キンドはもう眠っていた。

「ご主人様より早く寝る使い魔なんて聞いたことがない」

と思いながらもタクミももう眠たくなったのでベッドにぐったり倒れこんで寝てしまった。まだ午後の六時だけどなにしろ明日から旅に出るのだ。早く寝ておかないと。


 タクミが深く眠るその前にエグーロの姿がぼうっと目に浮んできた。そしてエグーロはタクミにこう言ったのだった。

「おまえの力を封印しておくぞ。そしてお別れだ」

はじめて聞く、空気を震わせて届いたエグーロの声だった。

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