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第一章 魔法使いエグーロ

(ああ眠たいな)(早く帰りたい)(死にたい)(あれ、食べたい)(あいつ遅いな)(あーあむしゃくしゃする)(消えろ)(死ね)(うざい)(超かっこいい)(あの子かわいい)(ああ、暑いなあ)(いやだな、家に帰りたくないな)

「あー、うるさい」

通りの真ん中、行きかう人々の中で、青い線が入った白いセーラー服を着た少年が、いたそうに片目をつむってつぶやいた。夏の太陽がまばゆく純白のセーラー服と少年の白い肌に反射していく。男の子にしては、少年は色白すぎる。

(うるさい)(ここにいる奴、みんな死んじゃえ)(おなかすいた)(ママ、どこ、ママ、どこ)(アニメ録画し忘れた)(あの子のパンツ見たい)(学校いやだな)(返信遅いし)(好きです、好きです)(もう受かりそうにない)(やりてー)

「ああ、もう頭がパンクしそう」

少年は走り出した。耳をおさえてもその心の声は聞こえてくる。人々の心のふるえが津波のような波動となって少年の心におそいかかる。心といってもふるえるのは少年の脳。少年の脳みそがピリピリふるえている。走る、走る、少年は走る。男の子にしては細い髪を風になびかせ少年は走る。耳をおさえても心の中に入ってくる他の人々の心の声に圧倒されて、足もとがふらつきそうになりながら。細いけれどしなやかな足。そして少年は通りのわきにある、地下へと続く階段をかけ足で降りていく。ぐるぐる周って下へと降りて行くらせん階段。そのらせん階段を降りきったところにある紫色の扉をあけるともう安心。そこの中ではもう心の声は聞こえてこない。

 なぜならその紫色の扉の向こうにある部屋は魔法使いエグーロの館だから。エグーロはそんじゃそこらの魔法使いじゃない。世界を切ってはりつける魔法使いエグーロである。この間は南アメリカ大陸をアフリカ大陸から切りはなして北アメリカ大陸にはりつけた。オーストラリア大陸やインド亜大陸もエグーロの作品だ。この間といってもそれはずいぶんと前の話だけれど。そんな大魔法使いエグーロは少年がエグーロに入門したその日に心の声をさえぎるように、部屋の壁に魔法をかけたのだ。だから少年が紫色の扉を入り、それを背中でしめると、脳みそのピリピリとした黄色いふるえはやんだのだった。

 しかし安心はできなかった。今日のエグーロの部屋はおかしかった。なぜなら壁も床も天井も一面まっ黒だったからだ。そりゃここは地下室だからもともと暗いのだけれど、今日は特に暗いし、しかも黒い。そしてすっぱいにおいがたちこめている。

「エグーロ、ただいま帰りました。どうしてこんなに暗いんですかー」

返事が無い。上を見あげると、天井からコード一本でぶらさがった電球がふりこのようにゆれながら、かすかに光を放っている。その光はついたり消えたり、今にも光を失ってしまいそうだ。少年がその電球のふりこ運動に気をとられていると

「おかえり、タクミ」

どこからか小さな声が聞こえてきた。これはエグーロの声ではない。そして、この部屋でエグーロ以外の声が聞こえるとしたらそれはエグーロの使い魔フォルミコしかありえない。

「フォルミコ。どこにいるんだ?先生はおでかけか?」

タクミと呼ばれた少年はその声の主に問うた。

「おいらはタクミの右の耳たぶにいるよ。ご主人さまはこの部屋にいらっしゃる。でもおいらの親戚たちと話しているからたぶんタクミの声は聞こえていないんだ」

確かにその小さな声は右の耳から聞こえてくる。それにしても意外なことがあるものだ。フォルミコに親戚がいるなんて、そんなこと今まで一度も聞いたことはない。

待てよ。タクミは頭に血をめぐらせた。ということは今、エグーロの部屋をこんなに黒く暗くしている原因はフォルミコの親戚たちだ、ということになる。つまりこの部屋に大量の蟻がいる、ということだ。どうりですっぱいにおいがするわけだ。

タクミの背中をぞくっと冷たいものが走った。もさもさと壁や床をうごめく蟻の大群をタクミは想像してしまったからだ。暗くてよく見えないのがせめてもの救い。だって想像してごらんよ。自分の布団の中や机の上を、蟻の大群がはいずり回っていたら、君はいい気持ちがするだろうか?

 恐ろしさをふりきるように、タクミはフォルミコに問いかけた。

「親戚って、フォルミコにも親戚がいたんだ?」

小さな声はその声に見合うくらいに小さく笑った。

「そうさ、当然だろ。なんだって由緒正しき蟻の家系だもの。親戚なんて三億と四千万匹くらいはいるよ。そして今日、おいらの主人であるエグーロ様に会いに来たのはそのほんの一部さ。ちょっと紹介しようか」

と言うと小さな声はしばらくとまってから、また始まった。

「タクミ、左手の人差し指を見てごらん」

タクミが左手の人差し指を見ると、指先で何やら動いているものが見え、何かが動いている感触がある。それはこそばゆい感触だった。

「それがおいらのお兄さんのフォルミケーゴ」

確かに少し大きなアリがいる。

「今度は左手の中指を見てごらん。それがおいらの弟フォルミケート」

確かに少し小さなアリがいる。それからフォルミコの家族紹介が始まった。大事な妹フォルミキーノ、いとこのフォルミキンド、一族の恥さらしフォルミカーチョ、孫のフォルミキードに高貴なフォルミケスコ。ここに紹介したのは、この時紹介された彼の一族のほんの一部だけ。もっとたくさんの家族を紹介されたタクミはくたくたに疲れてしまった。それに部屋が暗いのでどれも彼もみんな同じ蟻にしか見えない。ただし部屋が明るくても見分けられたかどうかはわからない。

しかもタクミは今立っている位置からこれっぽっちも動くことはできない。足を一歩でもふみ出してフォルミコの親戚の一匹でも間違ってふみ殺してしまったら、この場でタクミは無数のアリの大群にうらまれて、かみ殺されているところだろう。そう思うとタクミの体中を冷たい、嫌な汗がおおった。その時である、

「ああ、もう親戚たちが巣に帰ろうとしている。晩飯の準備にとりかかるのだろな」

とタクミの右耳でフォルミコがつぶやいた。もともと小さい声でつぶやいたものだからほとんど何を言っているのかタクミには聞きとれなかった。

しばらくすると、さー、と潮が引くように黒いものが床の一点に集まっていってその反対側からだんだんと明るくなっていった。壁のクリーム色があらわれたのだ。そしてしまいにはその床の一点に最後の蟻が入りこむのが見えて、エグーロの部屋は昨日タクミが出て行ったときのようにすっかりもとに戻った。けれど、まだ蟻のすっぱいにおいが部屋中にたちこめている。そして部屋の真ん中にタクミの先生にしてフォルミコの主人、世界を切ってはりつける魔法使いエグーロがあぐらをかいていた。

「ふしゅー、ふしゅー、ふしゅー」

ちなみにエグーロはほとんどまともな言葉が話せない。魔法の副作用か、それとも呪いなのか、あるいは単に歯がぬけたからなのか、舌が回らなくなっているだけなのかはわからないけれど、タクミがエグーロに入門してから先生のまともな言葉を聞いたことがない。

しかし他人の心の声を聞くことができるタクミには先生が何を言いたいのかを心の声で聞くことができる。

(おかえり、タクミ。さっきまで蟻の族長フォルミケストロと蟻世界の天文学について話していたからあいさつができなかったようだな)

とエグーロは言いたかったのだ。

「ただいま、エグーロ。そのようですね。ところで蟻世界の天文学は人間の天文学とは違うのですか?」

タクミは話題をもちかけた。

「ふしゅー、ふしゅー、ふしゅー。ふしゅー、ふしゅー、ふしゅー。」

(蟻は体が小さいからの。蟻は人間よりも星がずっと大きく見えるそうなんじゃ。そして人間みたいに地動説じゃなくて天動説をとっているそうなんじゃ。やっぱり大地に巣を作っているから物の見方も変わるんじゃ)

「なるほど。おもしろいですね。ところで今日は何か僕がする用事はありますか」

魔法使いの弟子の日課は先生の用事をすることから始まる。

「ふしゅー、ふしゅー、ふしゅー」

(今日は、特に用事はない。ところで、どうじゃ。おまえの就職先は決まったかの?)

それは今、タクミがエグーロにもっとも聞かれたくないことだった。

「いえ、それが、まだ、なんです」

とタクミは力なく答えた。本当に言いにくそうだった。

そうだ。タクミはもう十六歳になる。十六歳というのは魔法使いとしては一人前で独り立ちしないといけない年齢だ。だから今のタクミは魔法使いとしての就職先を必死で探しているのだ。

しかし大魔法使いエグーロの弟子としてはまことに恥ずかしいことにタクミは魔法使いとしては半人前どころかまったくの出来損ない。持っている能力は他人の心の声を聞けることだけ。他にできることはエグーロのお手伝いだけ。そのためにタクミは魔法協会や錬金術学会はもちろん、それらの地方支部にも就職できなかった。まさに魔法界の落ちこぼれである。

普通の十五歳だったら高校にでも通って高校生活を楽しむところだけれど、タクミは中学校にも通っていない小学校中退だから入試なんてとてもじゃないけど受けられない。しかも心の声が聞こえるというタクミの能力は学校のような集団生活に向くわけはない。おそらく入学式から一週間もしないうちに神経衰弱にかかってしまうだろう。タクミが小学校を中退してエグーロに弟子入りしたのも、この心の声が原因である。

弟子が就職先に困っていると聞いて、うーむと、エグーロはなにやら考えこんでしまった。その間に右の耳にいるフォルミコが何やら言っている。

「情けないぞ、タクミ。それでも偉大なるエグーロの弟子か?」

そんな蟻の言葉にタクミはめげながらも答える。

「しゅ、しゅ。生まれ落ちた時から仕事が決まっている働き蟻に、就職が決まらない僕の気持ちがわかるっていうの?」

「ふうん。わかるもんか」

蟻なんて、いいかげんな生き物だ。

エグーロはまだ何やら考えこんでいる。そしてふーむ、とため息をつくと、タクミに向かってこう言ったのだった。

「ふしゅー、ふしゅー、ふしゅー」

(そうか。ならば私に就職先のコネがないとも限らない。それを紹介してやっても良いぞ)

それを聞いてタクミはやった、と喜んだ。さすが世界にその名をとどろかす大魔法使いだけはある。良い就職先のコネくらい一つや二つはあるに違いない、とふんでいたらまさにその通りになったのだ。しかし、そのような先生のコネがないと就職できないというのも情けないけれど、今はそんなことは言っていられない。なにしろ独立してからの自分の生活がかかっているのだ。

「本当ですか、ありがとうございます。で、それはどんなところですか?」

それに対してエグーロは答えた。

「ふしゅー、ふしゅー、ふしゅー」

その就職先を聞いてタクミは口をぽかーんと開けて、固まってしまった。フォルミコもびっくりして、主人に聞き返す。

「ご主人、タクミにそれは無理なんじゃないでしょうか?」

「ふしゅー、ふしゅー」

(まあ、大丈夫じゃろう。心の声が役に立つ)


 そんな。大丈夫なわけがないじゃないか。それになんで世界を切ってはりつける魔法使いの就職先のコネが、そんな俗っぽいところなのだ。もっと他に何かなかったのだろうか。文句の言いようはたくさんある。しかしいくら文句を言ったとしても、先生が落ちこぼれの弟子に就職先を紹介してくれた以上、そこに行くより他にタクミに手は残されていないのだ。


 さて、タクミの新しい就職先はこうして半ばエグーロ老人のきまぐれのようなもので強引に決まってしまったのである。それは近所にあるエグーロ行きつけの喫茶店「ルデーヨ」のアルバイトであった。

ちなみに「ルデーヨ」の意味は「遊び場」というのだそうだ。

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