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殺してやる

作者: ttt(v´-3-)v

「殺してやる。僕はそう決意して包丁を握りしめた。震えているのが自分でもわかった。本気だ。

 朝日がまだ昇る前。夜更けとも早朝とも言いがたい時間。新聞屋であろうバイクがけたたましい音を鳴らして家のすぐ脇を通り過ぎた。バイクの音すらもあの糞野郎共と同じに、僕を責め立ててくるみたいだ。

僕の丸三丸三作戦は、今日も猟奇的不愉快に決行中だ。誰の邪魔もさせやしない。僕は僕の意志で僕自身のためにこれを行うのだ。

黒縁の全身鏡には醜い豚が立っている。豚だ。あの、ぶひぶひと鳴く豚だ。厚切りにして燻製器に放り込んだらさぞ美味かろう。さあ、誰か今すぐ燻製器をここに持ってこい!僕がこの醜い豚を切り刻んでやる!

包丁を、肩が外れる勢いをイメージしながら振りかぶる。同時に息を思いっきり吸った。目は見開き、鼻の穴を大きくして、醜い豚は真っ赤な顔で僕を見る。

見るな。そんな顔で僕を見たってこの決意は固い。もうお前を殺すと決めたんだ。死ね。死んでしまえ、醜い豚よ。お前はこの世に存在するべきじゃなかったんだ。せいぜい金持ちの工場に送られ、質の良い燻製器に入れてもらえることを願うんだな!

僕の手に握られた包丁は想像以上に遅いスピードで僕の前を落ちていき、僕はゆっくりとそれに倣って寄り目にした。豆電球の明かりで鈍いオレンジ色に輝く刃先が、鏡に擦れた。少しだけ鏡に傷がつく。醜い豚の頭部だ、頭部に傷がついた。そのまま、そのまま進め、僕の刃よ――」

ティッシュの箱か何か、物が壁に当たる音がした。隣からだった。僕は不覚にもその音に反応し、最大の武器を手放した後に足元に落とした。

「あぶねっ」

 咄嗟に数歩下がり、ゴミ箱を蹴った。よろめいて、後ろのベッドに座り込む。

 ちくしょう、今日のところはここまでか……。気がつけば鏡にいた筈の醜い豚は消えていた。今日は頭部を傷つけることが出来た。良しとしよう。

包丁を机に置き、携帯のアラームを確認する。丸七丸丸、セットオッケー。あたたかな布団に体を潜り込ませ、羽毛の枕に頭を埋めた。瞼を閉じるとすぐに睡魔はやって来て、僕を夢の中へ誘った。


丸三丸三、デジタル時計を指差し確認した。今日も作戦開始だ。等身大の鏡には見事に哀れな豚が、昨日僕が頭部につけた傷跡を残して立っている。

「僕は学習する、完璧な男だ。だから今日はカッターを使うことにした。包丁は落とした時に、重みで自分を傷つけかねない。軽いカッターなら、落ちてもかすり傷程度で済むだろう。まあ、今回はこの固い意志であんな不覚を取ることもなく、この哀れな豚を殺すことが出来るのだから心配する必要もない。

 僕はもう一度時計を見た。丸三丸四……美しい形が完全に崩れている――

 けれど、これは仕方のないことだ。時は止まらずに進んでいくし、そもそもデジタル時計では初めから美しい形など保たれてはいないのだ。僕の理想とするものは柔らかな手書きのアラビア数字だ。

 今日はこの哀れな豚の足を切ることにしよう。豚足だ。そうすればもう逃げることもあるまい。どうせならじわじわと苦しめてやろう。

 寒空の広がる住宅街に、演歌が流れている。バイクの排気音が重なるように過ぎ去っていった。もしかしたら僕が新聞屋だと思っていたのは、違ったのかもしれない。乾燥した空気に僕の心の炎が充満していく。

 いつだったかに買った百均のカッターナイフ。かちかちと刃の頭を出し、息を吐いた。目を瞑り、深呼吸する。一間置いて、僕は目を開けた。嵐の前の静けさ……雑音の混じった演歌は僕に心の静けさを与えてくれる。

 カッターを構えた。左手は握りしめて、右手を勢い良く豚の足、基、手に向ける。ナイフの先が鏡に当たった。薄暗い部屋の中を折れた金属の破片が飛び、鏡にはパッと見ではわからないくらいの浅い傷がついた。

 豚の手には傷一つついていない。だってこいつ、僕が動くと一緒に動くから」

 本か何か、昨日より重たい物が壁に当たる音がした。隣からだった。僕はナイフをしまい、筆記用具の入っている箱に放り投げた。


 紺のマフラーを巻いて、コートを着た。学校指定のコートだ。ポケットの中に手を突っ込んで、冷たい鍵の感触を楽しむ。腕時計の小さな円盤の中で、三つの針がそれぞれマイペースに進んでいる。時刻は丸三三四――今日の作戦はまだ続いている。

 僕が見苦しい豚と出会ったのは随分前のことだった。どうしてもこいつとは分かり合えなくて、けれどどうすることも出来ないでいた。

そんな日々と別れを告げる時が来たのは一昨日のことだ。机に突っ伏して社会という現実の紙と衝突していた。ふと時計を見ると丸三丸三時だったのだ。僕はなんとなく丸三丸三とアラビア数字で書いてみた。するとどうだ。豚の足が突然現れて、また僕を責め立ててくるじゃないか。だから慌てて黒で塗り潰したんだ。豚は闇に隠れていなくなった。そこで気がついたんだ。丸三丸三時に豚を殺せばいいのだと。きっと奴が最も僕に近づく時だから。

一昨日決行した時には、僕はこてんぱんに殴ってやろうと、丸三丸三になると同時に拳を鏡にぶつけた。しかし傷ひとつつかずに失敗に終わった。

今日は三日目だ。仏の顔も三度まで。ここで引き返すわけにはいかない。僕は歩く。まだまだ明るくなりはしない空、朝日が昇るまでに豚のいない日常を――

この街の地形に全くの無関心だった僕が目的地に着いたのは、家を出て一時間後だった。若干息が乱れている。

僕のイメージの中では、窓に映った豚は僕を嘲笑って、あっという間に僕の前を走って行く。そして次の機会が来た時に、僕は一回目で確認した豚に向かって石を投げるんだ。石が駄目だったらその時は僕自身が突撃してやる。

赤いランプが点滅し、カンカンカンカンと甲高い警告音が耳に響く。黒と黄色の棒が踏切に行かせまいと頼りなく下がっていく。数秒待つと、静かな街に轟音を立てて列車が通過する。前髪の下に潜む両目、不気味に片方だけ上げた口角。一度目で僕は怖気づく。怖じ気づくと共に、確かに豚がそこにいることを実感する。次に電車が来ると僕は側の石を拾って豚に向かって投げる。駄目だ、これでは効かない。それならば……僕は突進した。見事に僕は窓に映る奴をぶち抜いた。勝利だ!僕の大勝利だ!

繰り返し、繰り返し、頭の中でイメージ映像が流れる。それは回数が増すごとに鮮明になり、まるでもうそれが起きた事実であるかのように感じられた。

やがて現実は刻々と近づいた。踏切は下がり、ショーの始まりの合図は出された。走馬灯のように、今まで流れていた映像が瞳の中のスクリーンで上映された。

全身が冬の寒さで冷えきり、脳みその中まで冷静になったみたいだった。踵を返して帰路に着いた。背中を始発電車の寝ぼけた走行音が押した。


鍵を開けて、暖かい家に入ると涙が溢れた。それを拭くこともせずに引き出しの中から紐を取り出した。階段を一段飛ばしで駆け上がって部屋に入る。ドラマで見た程度の知識を使って、ドアノブに紐を括りつけた。首にぐるぐると巻きつける。どうすれば死ねるかなんてわからない。

別に死にたいわけじゃない。僕は僕が嫌いなだけなんだ。そういう自分を消したいだけなんだ。どうすればいいかわからないだけなんだ。こんな僕はまだ幼くて、いつか大きくなったら馬鹿だったと笑えるのだろうか。例えば生まれ変わったら、僕は僕を好きになれるだろうか。

力任せに窓に向かって走った。喉に紐が縛られて嗚咽が漏れた。

まだだ、まだ僕は――

ドアが開いて、僕はそのまま窓に突っ込む形で転がった。でんぐり返しをしたのは小学生ぶりだ。紐が全身に絡まった。又の間から見る夜空は少し明けていて、あと三十分もすれば朝日が顔を出すだろう。僕は起き上がって、ベランダに出た。冬の空気はやっぱり澄んでいて気持ちがいい。

「お兄ちゃん、うるさいよ!」

 隣人がついに苦情を持ち込んできた。仏の顔も三度まで、だ。正確には四度目かもしれない。

「なに?死にたいの?それとも構って欲しいの?」

「僕が死んだらお前、悲しむ?」

「さあね。死んでみて貰わなきゃわかんないよ、そんなこと」

「ベランダから飛び降りたら死ぬかな」

 僕は手すりに足を掛け、不安定な足場に立った。淡いオレンジ色が空の半分を占めている。闇が追いやられていく。

 肺の中、目一杯に新しい空気を満たす。少しは気が晴れそうだ。後ろにいる妹を見ようと首を傾げた。その瞬間、僕は細い何かに背中を押され、宙に浮いた。半回転するみたいに振り返ると、妹の右人差し指が僕を指していた。無表情な妹の顔だけが僕の視界いっぱいに広がった。そして、落下した。

「痛い痛い痛い痛い!」

 全身に絡まった紐が肉体に食い込む。妹の顔だけだった視界が一転して、芝生となった。

「生きてる?」

 妹はベランダの手すりからひょっこり顔を覗かせ、僕を見下ろした。

「苦しい……早く、おろして……」

「しょうがないなあ」

 少し待つと、ストンと僕は芝生に落ちた。

 妹は玄関から庭にやって来て、絡まった紐を解いてくれた。

「容赦なさ過ぎだろ」

「三日連続で夜中に独り言聞かされる身にもなって。試験近いの」

 妹に聞こえるか聞こえないかくらいの大きさで言ったつもりだったけれど、彼女の耳にはしっかり届いていたようだった。

「そもそもお兄ちゃんが死なないことくらい知っていたし、ただの構ってちゃんは超迷惑」

「ごめんなさい……」

 大袈裟に頭を垂れて、僕はあからさまに落ち込んでみせた。それでも妹は心配の一つすらしそうにない。まるで冷酷な世間の代表みたいじゃないか。

「あーあ、お兄ちゃんのせいで今日は寝不足だよ。……いや、今日も、だね」

「悪かったって……」

「謝ることなんて誰にでも出来るの。猿も反省するでしょ?形だけは」

「はい」

 こんな時にも僕の両親は呑気にイビキをかいている。部屋が隣接する妹と違って、両親の部屋は向かい側にあるからだ。

「こんなところ、ご近所さんに見られていたら恥ずかしいよ」

「誰が――」

 落としたんだ。

そう言おうとして、妹のキツい睨みが僕を凍りつけた。

「みっともない兄ちゃんだよな」

「本当にね」

 妹はくるりと後ろを向いて、玄関に戻っていく。裸足のまま、茶色い芝生の上を堂々と歩いている。僕の後ろ姿はきっとあんなじゃない。もっと猫背で、自信なさ気なのだろうなと想像する。靴を履いていない今は、それを気にしてつま先立ちで家に上がるのだろう。表面だけ取り繕って気にする僕は、いつまでも偽りの自信しか持つことが出来ないんだ。兄妹なのにこうも違うと、本当は血が繋がっていないのではないかとすら思う。

「お兄ちゃん」

 すっかり闇は上空の彼方へと追いやられ、眩しい光に包まれていた。車の交通も激しくなり、自転車の走る音、散歩をする犬の楽しそうな鳴き声が街の平和を証明する。

「いい加減、自分のこと悪く言うのやめなよ。それこそ何より、醜いし見苦しいしみっともない」

 心臓の内側、心の奥のところに何か鈍いものが刺さった。

 錆びた日本刀で刺されたみたいな、そんな気分だった。

「私だって自分に自信なんてあるわけじゃないけど、それでも、口に出して嘆いている奴なんかよりよっぽど、私らしくいられると思う」

 朝日を全身に浴びた妹が僕を見る。

「ガリガリだってからかわれて、豚に憧れるのはおかしいと思うんだけど」

 ――別に憧れていたわけじゃない。

 殆ど皮だけの僕の体に、くっきりと赤い紐の擦れた跡が残っていた。

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