第九話 「榊原の弱点」
「先生って、弱点ないんですかねぇ?」
ある日、榊原探偵事務所で立山高校ミステリー研究会部長の深町瑞穂が、榊原探偵事務所の秘書をしている宮下亜由美にそんな問いを発した。ちなみに亜由美もアルバイトで、本業は真木川女子大学文学部の学生である。温厚なお姉さんといった感じで、瑞穂の良き相談相手でもあった。
「どうしたの? 急にそんな事言って」
「だって、先生って全然隙がないじゃないですか。小説だと探偵役ってどこか弱点とかある事が多いですよね。ホームズは天文学が苦手だったし、先生にもそういうのはないかなって思って」
なお、当の榊原は人探しの依頼で事務所にいない。珍しく二人だけで事務所で留守番しているのである。亜由美は資料整理の作業の手を止めて、ソファで退屈そうにしている瑞穂の方を見ながら微笑んだ。
「そうねぇ、瑞穂ちゃんはどういう弱点が思いつくの?」
「……例えば、料理が苦手とかどうでしょうか?」
瑞穂が思いついたままに言う。が、亜由美は少し考えると首を振った。
「でも、榊原さんって一応一人暮らししているわよね。だったら、上手かどうかは別にして人が食べられる程度のものは作れるんじゃないかしら」
「私、先生が自分で料理しているところなんか見た覚えがないんですけど。いつもコンビニか何かで買ってきたお惣菜ばかりで……」
「それでも、昔はちゃんと料理していたんじゃないかと思うけど。まさか大学の下宿時代からあんなふうだったとも思えないし」
「……じゃあ、実は運動音痴とか?」
「それはないわね。仮にも捜査一課の元刑事よ。少なくとも剣道、柔道、逮捕術あたりは必修だったはずだし、あと大学時代にスキー場でアルバイトをしていたという話を聞いた事があるかな」
「うーん、じゃあ方向音痴……って、探偵が方向音痴じゃ話にならないか。頭の回転がいいって事は身に染みて知っているし……意外に難しいですね」
「絵が苦手、とか?」
亜由美がアイディアを出すが、今度は瑞穂が首を振った。
「前に事件の捜査で似顔絵を描いていたことがありますけど、相当うまかったです。あれも必須スキルなんでしょうね」
「……こうしてみると、刑事って意外と万能よね」
「苦手というか、芸能関係の知識に疎いって話は前にしていました。実際にああいう世界の話で知らない事も多いみたいですけど、芸能関係の事件が起きた際はちゃんとそういう知識を一から組み立てていましたから、これは興味がないだけですかね……」
「お手上げね……」
そう言ってから、亜由美がふと思いつく。
「そういえば、恋愛沙汰に関しては鈍感だって言っていなかった?」
「まぁ、確かに女性に関する恋愛感情はないみたいですからね。でも、その割に実際に恋愛絡みの事件が起こったらあっさり解決しちゃうんだからわけがわかりません」
「恋愛は知識だけは詳しいって事かしら」
「どうでしょう……あぁ、何ていうか、もっとはっきりした弱点はないんですか!」
そう瑞穂が叫んだ時だった。書類整理していた亜由美の手が止まった。
「あれ、これって……」
そこには古びた紙が挟まっていた。表には「横浜市立浜川高校通信簿」と書かれていて、その下には「榊原恵一」の名前も見える。
「これって……先生の高校時代の通信簿ですか?」
「古い資料に紛れ込んでいたみたいね。で、見る?」
「もちろんです!」
二人は榊原の通信簿をゆっくり開けた。どうやら十段階評価のようだが、そこには榊原の高校時代の成績が克明に記されていた。その詳細はというと、
・英語……6
基本的な会話はできますが、応用までには至っていません。会話、読解ともに標準レベルと思われます。
・数学……10
文句の付けどころがありません。すべてのテストで九十点を超えています。特に確率や図形、順列など日常的に使われるようなものや発想の転換が問題になるようなものが得意なようです。
・現代文……8
特に論理的文章に強く、論説文ではほとんどミスがありません。小説に関しても内容をしっかり理解できています。ただし、詩や短歌などについて苦手意識があるようです。
・古典……4
内容理解はできているようなのですが、文法が壊滅的でまったく解けていません。どうも文が読めなくとも内容を推測しているようですが、テストでは点につながっていないようです。
・生物……8
遺伝、人体の仕組みなど幅広い知識において高い理解力が認められます。特に人体の内部に関する事象に興味があるようです。
・化学……10
文句の付けどころがありません。自分で理論を組み上げて教師も想定していなかった実験を成功させた事があります。
・物理……10
文句の付けどころがありません。論理的思考が得意なようで、テストにおいても非の打ちどころが全くありません。
・地学……7
基本的な部分は非常によく理解できています。応用的な問題も解けるようではありますが、総じて一般レベルです。ただ、気象分野に関してはなぜか異常によくできています。
・地理……10
世界すべての独立国の名前と首都を言う事ができ、日本地理に関しても非の打ちどころがありません。
・世界史……8
かなり細かい知識まで知っている様子ですが、一部応用的な知識が不足している部分も見られました。が、それも一度失敗した後は調べ直して吸収しているようです。
・日本史……10
恐ろしく細かい部分まで理解していて、教師以上の知識を持っている事もありました。テストもほぼ九十点を超えています。
・政経……10
三年連続ダントツの学年トップです。テストも九十八点を下回ったことがありません。そちら方面の知識にかなり興味があるようです。
・体育……6
できるものはできるができないものはできないと。かなり極端です。野球では打撃が学年トップクラスなのに守備は全くできません。テニスやバスケットボールは全くできませんが、陸上競技や卓球はそこそこで、武道系はかなりの好成績です。
・音楽……6
歌は凡庸。楽器に関してはピアノが初心者程度弾けますが、それ以外の楽器はあまり得意ではないようです。
・技術……4
技術的な工具の扱いはあまり得意ではないようで、木造細工の制作では失敗ばかりしていました。電子機器の扱いはまだましのようでしたが、技術的技能はあまり得意ではないようです。
・家庭……5
裁縫が壊滅的ですが、料理については人並みにはできるようです。
・美術……6
よく言えば平凡、悪く言えば独創性がありません。人並みのものは作れるのですが、それ以上のものは作れない様子です。
瑞穂と亜由美は互いを見つめ合った。
「ずいぶんはっきりと書く担任だったみたいですね」
「突っ込むところはそこなの?」
「ま、それはともかく……先生はこの頃から先生だったって事ですね」
「まとめると、先生の弱点は古典読解、裁縫、技術工作、テニスやバスケットボール、って事になるのかしら」
「さすがに理数とか社会系は凄まじい数字になっていますね。はぁ、うらやましいなぁ」
「何がうらやましいんだね?」
その声に、二人は咄嗟に後ろを振り向いた。そこには当の榊原が無表情に立っていた。
「あ、あれぇ……先生、依頼は?」
「さっさと終わらせてきた。で、ずいぶん面白そうなものを見ているみたいだね」
「え、えーっと」
「少し、話そうか……具体的にはこの成績表に関して、だが」
真っ青になる二人に、榊原は無表情のまま告げた。
その一時間後、事務所から出てきた瑞穂はすっかり憔悴した表情をしており、この件に関して二度と語る事はなかったという。