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第六十六話 「リア充が爆発した話」

「リア充が爆発しました」

「は?」

 事務所を訪れてきた警視庁刑事部捜査一課第三係主任の新庄勉警部補からいきなり物凄く真面目な顔でそんな事を言われて、私立探偵・榊原恵一は思わずそんな彼らしからぬ声を上げた。一方、その発言を隣で聞いていた自称助手の女子高生・深町瑞穂も、目を白黒させながらこう聞き返していた。

「あの、失恋でもしたんですか? だったらその……」

「違います! というか、私にはもう妻がいるんですが!」

「あ、そうでしたね。じゃあ、茜さんと夫婦喧嘩でも?」

「……彼女と夫婦喧嘩なんかしたら、今ここでこんなに呑気にしていませんよ」

「それは……そうですね。茜さん、お元気ですか?」

「おかげさまで。今日は友人と一緒に北海道旅行に行っています」

 瑞穂も新庄とその妻・茜の特殊な事情は以前聞いているので、それ以上突っ込むような事はしなかった。新庄は珍しく深いため息をついた後、一瞬恨めしそうな視線を瑞穂に向けた後で、改めて事情を説明し始めた。

「三日ほど前、京都市内の焼き肉店で、若い大学生のカップルが座っていた座席が突然爆発したんです。席に座っていたカップルは二人とも即死。その他に店の客ら五人が負傷しましたが、そちらは命に別状はありません」

「……あぁ、確かにそんな事件が京都であったな」

 榊原は納得したように頷き、瑞穂は少し気の毒そうな顔をする。

「つまり、比喩じゃなくて本当にリア充が爆発してしまったという事ですか?」

「不謹慎ではありますが、簡単に言えばそういう事になります。遺体の状況については……正直、ここではあまり話したくありませんね。かなりひどかったので」

「予想はつきますけど、そこまでですか」

「えぇ。それこそしばらく焼き肉が食べられなくなるくらいのひどさです」

「……大体、理解しました」

 瑞穂は少し青い顔でそうコメントする。一方、榊原は少し何かを考えていたが、やがて首をひねりながらこう問いかけた。

「しかしその事件、殺人事件だったという話は聞いていないが、その辺りはどうなんだ?」

 そもそもそれが殺人事件だったすれば無差別爆弾テロ事件の可能性も出てくるわけであって、事件はもっと派手に報道されていてもおかしくないはずである。榊原が不思議そうに尋ねると、新庄は深いため息をつきながら種明かしをした。

「その通りです。事件直後、一般人を狙ったテロ事件かと府警本部も本腰を入れて捜査をしたんですが……結論から言えば、爆発の原因は焼き肉に使われていたプレートのガス管が破損し、そこからガスが漏れていた事によるものでした」

「つまり、原因自体は単純なガス爆発事故だったと?」

「そうなりますね。ガス管破損についての専門的な説明はここでは省きますが、事件ではなく偶発的な事故なのは間違いなさそうです。現在、そっちはそっちで業務上過失致死傷容疑で店側に対する捜査が行われています。詳しい事は、今後状況が固まり次第府警からマスコミに公開されるでしょう」

 だが、そうなると妙な話だった。

「では、なぜ君が私の所に来た? 事故だという事がはっきりしているのなら私の出る幕はないし、何よりこれは東京ではなく京都の事件だ。にもかかわらず、どうして警視庁が動いている?」

 榊原が当然とも言える疑問を尋ねると、新庄は渋い顔で言葉を紡ぎ出した。

「そうですね。亡くなったのは恋町岳哉こいまちたけや愛木好美あいきこのみという名前の男女で、二人とも都内にある百島大学ももしまだいがく経済学部の四年生でした。ゼミで出会って付き合い始め、現在は同じ部屋で同棲中。すでに二人とも就職も決まっていて、卒業後に結婚予定という、絵にかいたようなリア充です。今回も、大学の休み中の京都旅行で事故に遭遇したようですね」

「新庄警部補も『リア充』なんて言葉を使うんですねぇ」

 瑞穂が興味深そうにそんな言葉を挟むが、新庄は咳払いをして話を続ける。

「都内の大学生という身分からもわかるように、二人の住所は東京都内でしてね。当初はテロかどうかもわかっていなかった事もあって京都府警から警視庁に協力要請があって、被害者二人が同居していた台東区内のアパートを確認する事になったんです。まぁ、あくまで念のための確認に過ぎなかったんですが……そしたら、部屋の中からこんなものが出てきましてね」

 そう前置きして、新庄は一枚の写真をテーブルの上に示した。榊原と瑞穂が覗き込むと、そこに写っていたのは……

「これ、ナイフですよね」

「あぁ。それも、血まみれのね」

 写真の中には、刃の部分が血にまみれた一本のナイフがはっきりと写っていた。新庄が説明を加える。

「小振りの果物ナイフのようです。鑑識が鑑定をした結果、付着していた血液は人間のものだという事がはっきりしています、血液型は一応A型で、そう古いものではないそうです」

「これが部屋の中に?」

「えぇ。部屋の食器棚の奥の方にレジ袋に入れて隠してありました。どう思います?」

 新庄の問いかけに、榊原は極めて常識的な答えを返した。

「……普通に考えれば、部屋の住人である恋町か愛木のいずれかが誰かを殺傷して、その凶器を部屋の中に隠しておいたと考えられるな」

「我々も同感です。とはいえ、これだけでは事件として扱うには弱い。何しろあるのは血まみれの凶器だけで、被害者が誰なのかもわかっていないのですからね。なので、現時点では少人数で内偵捜査を進めているところです」

「だが、あまりにも情報が乏しすぎて捜査が行き詰っている……そんなところか」

「面目次第もありません。そこで、こうして榊原さんの意見を伺えないかと思った次第ですが」

「ふむ、なるほどね」

 榊原は早速何かを考え始めるが、瑞穂はこんな感想を述べた。

「でも、どっちが犯人だったとしても、人を傷つけた後でわざわざ京都でイチャイチャとデートするだけの神経があった事の方が驚きです。こう言ったら何ですけど、ずぶといというかサイコパスというか……」

「それについては同感ですね。もっとも、事件発覚を恐れて京都に逃亡した、という可能性もなくはないわけですが」

 と、ここで榊原が何かを考えつつも言葉を発する。

「話を戻すが、当然、恋町と愛木の周辺は調べたはずだな?」

「もちろんです。それで彼らの周囲に不自然に死んだ人間や失踪した人間でもいれば話は簡単だったんですが……」

「そんな人間はいなかった、と?」

「そういう事です。少なくとも二人の血縁者や友人知人に該当する人間の中には誰もいませんでした。死亡もしくは失踪した人間はもちろん、怪我をした人間もです」

「彼らの遺族に話は?」

「いえ、何も。表向きには事故死した被害者の関係者ですので、明確に何か事件を起こしたという証拠がない限り、事故に関係しない事を突っ込んで聞く事は無理だというのがこちらの判断です」

「まぁ、それはそうか」

 榊原はそう言って考え込む仕草を見せる。その間に、代わって瑞穂が新庄に質問した。

「じゃあ、被害者になりそうな人は皆目見当もつかない状況って事なんですか?」

「……いえ、限りなく細い線ではありますが、可能性がないわけではありません」

「どういう事ですか?」

「二人が通っていた百島大学はかなり規模が大きな大学です。そこで、二人の知人かどうかにかかわらず、ここ一ヶ月以内に死亡もしくは音信不通になった人間がいないかどうかを大学側に確認してもらいました。結果、条件に当てはまる人間が三名いたんです」

「え、でも……ちょっと条件がアバウト過ぎませんか? 死亡はともかく、音信不通になる大学生って、こう言ったら何ですけどあまり珍しくありませんよね」

「そこまで広げないと関係者が出てこないんです。我々としても苦肉の策ですよ」

 そう前置きして、新庄は三枚の顔写真をテーブルの上に広げる。

「順番に一松敦樹いちまつあつき二澤希子にさわきこ三倉元康みくらもとやすです。一松と二澤は音信不通、三倉は死亡した学生になります。ただし、現時点ではこの三名と恋町・愛木のカップルの間に繋がりらしいものは一切確認されていません。あくまで共通点は『同じ大学に通っていた』というこの一点だけです」

「えっと、それぞれの人の情報はどうなっているんですか?」

 瑞穂のさらなる質問に、新庄は予想していたかのようにすぐさま答えた。

「先ほど言ったように、全員が百島大学の学生です。一松敦樹は社会学部の三年で、一週間ほど前から音信不通。二澤希子は文学部二年で、こちらは二週間前から行方不明。最後の三倉元康は法学部の三年で、十日前に自宅アパートの一室で自殺をしています。ただし、三倉の死因は首吊りであって刃物を使ったものではなく、また遺書も見つかっていないため自殺の動機もよくわかっていません」

「最後の自殺したって人、間違いなく自殺なんですか? 自殺に見せかけた殺人だった可能性は?」

「事件を担当した所轄署の判断は自殺ですし、我々が捜査報告書を読んだ限りでも殺人を疑わせるような不審な点はないように見えました。ただし、あくまで報告書を読んだ限りの判断ではありますが」

「自殺という判断がすでに出ている以上、よほど明確な殺人の証拠がない限り再捜査は不可能か」

 榊原は横から口を挟み、新庄も黙って頷く。すぐに瑞穂が複雑そうな声でこう続けた。

「なんだかやりきれませんねぇ。それより、この三人の血液型はどうなんですか? 問題のナイフに血液が付着していたんだったら、それを調べたら被害者の特定ができそうな気もするんですけど」

「さすがに大学も学生の血液型までは把握していませんでしたが、こちらで調べた所、三人ともA型だった事がわかっています。もっとも、それ以上の検査は表立って事件化していない現状ではできない状況ですし、特に死亡してすでに荼毘に付されている三倉に至ってはDNAサンプルの回収そのものがかなり難しくなっています」

「うーん、上手くいきませんねぇ」

 と、ここで今まで黙って瑞穂と新庄の会話を聞きながら何かを考えていた榊原が、本格的に質問を始めた。

「もういくつか聞きたい事があるんだがね」

「何でしょうか?」

「まず、問題の爆発事故は、二人が旅行に行ってから何日後に起こった?」

「えっと、旅行二日目の夜ですね。そもそもこの旅行は三泊四日の予定だったようですが」

「事故発生から君たちが二人の部屋を家宅捜索するまで、どの程度の時間差がある?」

「何しろ遺体がひどい状況だったので、府警側も身元確認に手間取りましてね。身元が判明したのが爆発からちょうど一日後で、そこからすぐにうちに協力要請が来ました」

「要請が来てから令状を取って捜索、だな?」

「えぇ。とはいえ、事件が事件だったので裁判所もすぐに令状を出して、要請から一時間程度で部屋に踏み込んでいます。しかし、それが何か?」

「……いや、少し気になってな」

 榊原は意味深にそんな事を言うと、さらにこう質問を続けた。

「その家宅捜索の際に何かトラブルのようなものはなかったか?」

「トラブル、ですか?」

「何でもいいんだが」

「そうですね……あぁ、そう言えばマンションの近くに怪しい男がいたので、職務質問をした覚えがあります」

「怪しい男?」

 何ともきな臭い話だった。

「マンションのすぐそばをうろうろしていた上に、私たちが来るのを見て逃げ出そうとしたんです。明らかに怪しかったので追いかけて話を聞きました」

「男の正体は?」

持倉三太もちくらさんたという自称ライターで、連絡が取れないマンション在住の友人の様子を見に来たと言っていました。ただ、あくまでも本人談で、実際の所はどうなのか不明です」

「なるほどね」

「あとは強いて言うなら、実際に家宅捜索をしようとしたら、ちょうど管理人夫婦が海外旅行から帰ったばかりだったとかでゴタゴタしたくらいです」

「海外旅行か……」

「三泊四日の予定で韓国に行っていたらしいです。大学生の娘さんは下宿中らしくて、夫婦水入らずで楽しんできたと」

「ふむ……。ところで、問題の部屋から見つかったナイフの流通経路について何かわかった事は?」

「残念ですが全国流通している大量生産品で、販売経路を特定するのはほぼ不可能と判断されました」

「購入地点もわからない?」

「遺憾ながら、そういう事になりますね」

「なるほど」

 榊原はそこで一度さらに何かを考え込む。新庄と瑞穂は無言でそんな榊原を見つめていたが、それから数分後、榊原は大きく息を吐くと、ポツリとこう言った。

「一つ、考えられる事はある」

「本当ですか?」

「あぁ。あくまで私の推論ではあるし、実際の所は今後の捜査次第という事になるがね」

「構いません。今はとにかく何か取っ掛かりがほしい」

 新庄の真剣な言葉に、榊原は頷きを返した。

「結構。では、少し話してみるとするか」



 ……それから数日後、京都府内の某警察署内にある取調室で、新庄は相棒の竹村竜警部補と共に「待ち人」を待っていた。新庄が椅子に座り、竹村は壁にもたれかかって腕組みをしている。後は隅に記録係の府警の刑事が一人いるだけだ。

「しかし、相変わらず榊原さんは榊原さんだったな。あの話を聞いただけであそこまで完璧に事件の真相を解き明かしてしまうなんて、『論理の怪物』は未だに健在なり、か」

「あぁ……ただ、道筋をつけてもらった分、ここから先は私たちの頑張り次第だ」

「わかってる。油断する気はねぇよ」

 と、そこへ部屋の外から足音が響いてくるのが聞こえ、新庄と竹村の表情が真剣なものになる。

「お喋りはここまでだ」

「そうだな。この取り調べがこの事件の分水嶺だ」

 やがて部屋のドアが開き、所轄の警官に連れられた『その人物』が姿を見せる。そんな『その人物』の姿を見ながら、新庄は数日前に品川の榊原探偵事務所で榊原に説明された「今回の事件の真相」を思い返していたのだった……。


「この手の事件を解決するにあたっては、まずは事件を構成する疑問点を抽出した上で整理し、その疑問点の中から優先的に解決すべきものを見極める事が大切だと私は思っている。その上で、私が今回の事件の話を聞いてまず考えたのは、新庄が問題にしていた『被害者が誰か』という疑問ではなく、その前段階にあたる『そもそも問題の血のついたナイフを恋町岳哉と愛木好美の部屋に隠したのは誰か』という疑問だった」

 榊原の話を、新庄と瑞穂は真剣な表情で聞いている。榊原は一瞬そんな彼らを見やったが、すぐに淡々とした口調で話を続けた。

「改めてこの問題について考えてみると、論理的に考えて可能性として考えられるのは二つ。一つは新庄たち警察が考えたように、単純に部屋の主である恋町岳哉と愛木好美のいずれか、もしくは両者が共謀してナイフを隠していたというケース。もう一つが、二人とは何の関係もない第三者が二人に罪を着せる目的で彼らの部屋にナイフを隠したというケースだ。どちらも可能性は五分五分だが、今までの捜査で新庄たちは前者の可能性について徹底的に調べ上げたにもかかわらず、その捜査は行き詰まりを見せていた。そして、どれだけ捜査しても結果が伴わないのであれば、そもそもの前提が間違っている可能性がある。よって、私は後者の『第三者が恋町宅に侵入して隠した』ケースを改めて考えてみる必要があると考えてみたわけなのだがね」

 榊原はそこで一度言葉を切ると、さらに推理を進めていく。

「さて、仮に『第三者が恋町らの部屋に侵入して刃物を隠した』というこの可能性が正しかったと仮定した場合、それが成立する条件はどのようなものなのだろうか。まず思いつくのは、その第三者が恋町たちの部屋にナイフを隠す事を決意したのは、恋町たち二人が京都の焼き肉屋でその命を散らして以降である可能性が高いという事だ。二人が死ななければ、苦労して部屋にナイフを隠したところで何の意味もない。永遠に見つからないままになってしまうか、恋町たち二人に見つかって不審物として警察に通報されるだけの話だ。そして後者の場合、その状況で警察がこの刃物が二人のものだと判断する事はないだろう。本人たちは間違いなく否定するだろうし、逆に二人の部屋に侵入できる人間を証言されて、罪を着せる以前に隠した本人が捕まってしまう危険性さえある。つまり、この行為は『住人二人が死亡してしまっていて、警察が凶器を発見した時に本人たちが反論する事ができない』という状況が成立した時に初めて有効な工作という事になる」

 そして榊原は自身の論理を帰結させる。

「となれば、その第三者は『京都で恋町たちが死亡した事を確認した』時点でこの計画を思いつき、そして『焼き肉屋の事件が発生してから警察が家宅捜索をするまでの間』に実際に二人の家に侵入してナイフを隠したという事になる。だが問題は二人の遺体の身元が判明したのが『事件の翌日』であり、『そのわずか一時間後に警視庁による恋町宅への家宅捜索が行われている』という事実だ。もしその第三者が問題の爆発事件と一切関係のない人物だったとしたら、恋町たちが死亡したという事実を知る事ができるのは事件直後ではなく身元が判明した家宅捜索開始の一時間前の時点だ。そこから即座に動き、警察がいつやって来るかもわからない状況下で部屋に侵入してナイフを隠す……理論上はともかく、まず現実的ではない話だという事は理解できると思う」

「それはそうですね……」

 瑞穂も榊原の考えに同意するかのように頷いた。

「ただし、この理論には一つ抜け道が存在する。それはすなわち、京都府警が二人の身元を特定するより前の時点から、爆発事故で死亡したのが恋町たちだったとその第三者がすでに知っていたという場合だ。とはいえ、仮にその人物が爆発で損壊した遺体を見る事ができたとしても、破損のひどさゆえにその遺体が恋町たちのものだと判別する事はまず不可能だと思われる。となると可能性は一つ。その第三者が爆発事故の発生よりも前の時点で恋町たちが問題の焼き肉屋の席にいた事を知っていて、それゆえに爆発で死亡したのが恋町たちだったとはっきり認識していたという場合だ。そして、それが可能なのは事件当時に問題の焼き肉店に実際にいた人間でしかありえないという理論が導き出される」

 しかし、と榊原は論理構築を続ける。

「仮にこの理論が正しかったと仮定して、なお疑問は残る。というのも、京都府警は当初この爆発事故がテロである可能性を考えていて、それを前提とした捜査を行っていたはずだからだ。当然、爆発当時店内にいた人間は全員府警の監視下に置かれていたはずで、京都を離れて東京の恋町たちの部屋にナイフを置きに行く事など不可能であるはず。つまり、爆発発生時に店内にいた人間が犯人とは考えにくい。そうなると、残る可能性としては考えられるのは『その第三者が爆発直前に店を出て事故に遭遇する事を免れ、同時に事故の関係者にもならなかった』という場合だ」

 榊原の推理はさらに大きく進んでいく。

「新庄の話だと、恋町たちが問題の焼き肉店を訪れたのは爆発発生の約三十分前で、予約などはなく飛び入りでの来店だった。つまり、恋町たちが来店してから爆発が発生するまでのこの三十分間の間に店から出て行った人間の中にその第三者がいるという理屈になる。その人物は恋町たちの事を知っており、店を退店した直後に問題の爆発事故が発生して、恋町たちが死んだ事を知った。しかし、事故発生時に店の中にいたわけではないから、この時点で警察に拘束される事はなかった。そんな特殊な立場になった事を悟ったその人物は、この恋町たちの死を利用して彼らに罪を着せる事を思いつき、恋町たちの身元が判明する前に問題の刃物を彼らの部屋に隠すために京都から東京へ向かった……。そう考えれば、その人物の行動に説明がつくのも事実だ」

 そこで一度大きく息を吐き、榊原は論理を発展させていく。

「その上で、この第三者が犯人であるための第二の条件として『恋町たちの部屋に痕跡なく侵入できる人物である』という事を考えなければならない。その条件について考えた際に真っ先に浮かび上がるのは二人の部屋があるマンションの管理人だが、新庄の話だとこの管理人は家宅捜索当日に韓国旅行から帰って来たばかりだったという。つまり、爆発事故発生当日に京都にいる事は絶対に不可能なわけで、管理人が犯人であるという可能性はこの段階で完全に否定される」

 そう言った上で、榊原は推理を一気に進めていく。

「では、管理人以外で恋町たちの部屋の鍵を入手できる人間はいるのだろうか。他の可能性として考えられるのは、爆発事故現場で爆死した恋町たちの手から離れた鍵を第三者が入手して利用したという可能性だが、新庄の話では爆発直後から現場は封鎖され、被害者二人の手荷物は爆発後一時間後の時点で鑑識により回収された上に、その荷物の中に部屋の鍵も入っていたらしい。つまり、第三者が爆発現場の鍵を入手したり複製したりする事はほぼ不可能という事になる。それでも強引に可能性を探るとすれば、その鍵を回収した京都府警の捜査員が犯人だったという可能性だが、事件の捜査員で証拠である鍵を入手できるような立場にいる人間が、テロかどうかわからず府警全体が大騒ぎしている中で捜査本部を抜けてこっそり東京へ行くなどまず不可能に近い。よってこの可能性は考えなくてもよいと判断できる」

 そして、新庄たちが固唾をのむ中、榊原はいよいよ事件の核心へと切り込んでいった。

「以上より、現場にあった本人たちの鍵を使う事はまず不可能。となると、先程は否定されたマンション管理人室の合鍵が使われたという可能性を考えるしかない。すでに述べたように海外旅行をしていた管理人が犯人であるとは思えない。だが、冷静に考えてみれば『管理人室の合鍵を使える人間』イコール『管理人』である必要性は全くない。要するに管理人本人でなくとも、合鍵が保管されているマンションの管理人室に入る事ができる人間がいれば、その人間は充分に犯人の可能性を満たす事になるという事だ。では、管理人以外に自由に管理人室に入る事ができる人間というと?」

「……普通に考えたら、管理人の家族ですよね」

 瑞穂がその答えを告げる。

「その通り。だが、管理人の妻については新庄の話から夫である管理人と一緒に韓国へ行っていた事がわかっているのでこちらも犯人とは考えにくい。しかし、それ以外にこの管理人には『下宿している大学生の娘』がいたはずだ。そしてこの管理人の娘が問題の第三者であるならば、先程まで述べた条件に全て合致するはずというのが私の考えでね」

 離れて暮らしているとはいえ、家族であるなら問題の管理人室に入るための鍵を持っている可能性は極めて高く、またマンションの住人である恋町たちの顔を知っていたとしても何ら不思議はない。確かに、榊原が提示した条件に当てはまる人物であると断言してもよさそうだった。

「もちろん、これはあくまで私の推理に過ぎず、この可能性が本当に正しいのかどうかまでは実際に調べてみるまではわからない。だが、調べてみる価値がある推理である事も事実だ。そしてもしこの推理が正しいとするなら、この管理人の娘の周囲に、不自然にいなくなったかあるいは死亡した人間が必ず存在するはずだ」

 そして、榊原の推理を受けた新庄ら警察が実際に調べた所、この管理人の娘の怪しい情報が次々と浮かび上がってきたのである。

 彼女の本名は佐相栗美さそうくりみ。マンション管理人の佐相正影さそうまさかげの娘で、京都にある同士館大学文学部の三年生だった。当然ながら下宿先も京都であり、それはすなわち京都の爆発事故の現場に偶然いたとしても何ら不思議ではない事を示している。その事実は警察関係者を色めき立たせるのに充分すぎるほどの効果を持っていた。

 さらに警察が彼女の周囲を調べた結果、彼女の関係者の中で不自然に行方がわからなくなっている人物が一人浮上した。そしてその名前がわかった瞬間、捜査員たちの表情はいっせいに緊張に包まれたという。


『一松敦樹』


 それが、佐相栗美の関係者の中で行方がわからなくなっている人物の名前だった。

「ここで、この男の名前が出てくるのか!」

 報告を聞いた新庄は思わずそんな言葉を口に出したという。言うまでもなくそれは、恋町たちが通っていた百島大学の関係者の中で、ここ一カ月以内に音信不通になった人間として警察が既にリストアップしていた学生の一人に他ならなかったのである。

 実際に調べた捜査員の報告によれば、一松敦樹は栗美の高校時代の同級生で、彼女とは二・三年生の時に同じクラスに所属していた。逆に言えば関係はそれだけで、さらに榊原が介入する以前に警察がこの男を調べた時には「恋町たちと一松に関係があるか?」という事については調べたものの、一松本人の関係者については調べ切れていなかったのである。だが、事がここに至れば「恋町たちと一松」の間ではなく「一松と栗美」の間に何かがあった可能性はかなり高いと言わざるを得なかった。

 しかもこの高校時代について詳しく調べてみると、四年前、栗美が所属していた女子バスケ部の後輩が校庭で雷に打たれて死亡していた事が判明した。もちろん、落雷自体は間違いなく事故であるし、当時バトミントン部所属だった一松とは表向き関係がなさそうな話ではあるが、人が死んでいるだけに気になる話ではあった。

 とにかくこの事態を受け、警察は一松敦樹の失踪事案に関して「事件性あり」と判断し、東京地裁に一松の部屋の家宅捜索令状を請求。この家宅捜索で室内から押収された一松の毛髪から検出されたDNAを恋町の部屋から発見されたナイフに付着していた血痕を比較したところこれが一致し、一松がすでに死亡している可能性が非常に高くなった。

 また、警視庁からの情報提供を受けた京都府警は京都市在住の栗美の身辺調査を進めると同時に、爆発事故のあった焼き肉店の防犯カメラの確認作業を実施。件の防犯カメラは爆発で破損していたが、鑑識の尽力によりその修復に何とか成功し、復元された映像を調べた結果、爆発の五分ほど前に店から出ていく栗美の姿を確認する事に成功したのである。その後の調べで、事故当日に彼女は大学の所属ゼミの飲み会でこの焼き肉店を訪れていたが、途中で具合が悪くなったという理由から先に店を出た事がわかった。なお、店に残った他のゼミメンバーは爆発に巻き込まれ負傷しているが、彼女が彼らの搬送された病院を見舞いのために訪れたのは事故発生から二日後の事だったという。

 さらに、事故当夜から翌朝にかけての京都駅と東京駅の防犯カメラをチェックしたところ、事故発生から約一時間後の午後八時半頃に京都駅の新幹線改札口からホームに入る栗美の姿と、翌日早朝の新幹線の始発発車時刻直前に東京駅の新幹線改札口に入る栗美の姿を確認。事故当日に栗美が新幹線でいきなり東京へ向かい、さらに翌日早朝に再び京都へとんぼ返りをした事がこれで証明される事となった。

 これだけでもかなり怪しい話だが、さらなる調査を行った結果、事故の一週間前……つまり一松が失踪した前後に、一松らしい人物を京都で見た証人がいる事が判明した。その人物は京都駅の駅員で、中学時代まで一松とは同じ学校の同級生であり、高校卒業後に社会人野球の選手としてJR西日本に就職したという人物であった。彼は爆発事故の一週間前、京都駅での勤務中にスーツケースを引いた一松から直接声をかけられて少しの間立ち話をしたと証言。どうも一松が京都に着いた際に偶然その駅員の姿を見つけて声をかけたようなのだが、その立ち話の際に一松が京都に来た理由として「昔の女に会いに来た」と言っていた事、そしてその割には一松の表情がどういうわけか厳しいもので、それで余計に印象に残っていた事をはっきりと証言したのである。これにより、この一週間前の一松の京都訪問がにわかに不審なものとして注目される事になった。

 事がここに至り、警視庁は京都府警との協議の末に、ついに京都市に住む佐相栗美の逮捕に踏み切る事となった。ひとまずの罪状は都内の恋町の部屋に不法に侵入した住居不法侵入罪。逮捕後、栗美は京都府警の担当所轄に移送され、そこでまずは逮捕容疑である住居不法侵入事件を管轄する警視庁の新庄らから、京都府警側の許可を得た上で本格的な取り調べを受ける事になったのである。


 ……そして、舞台は再び取調室に戻る。新庄らによる取り調べが始まって三十分、栗美は事件への関与を頑なに否定していた。一松敦樹という男を知っている事こそ認めたものの、あくまで高校時代の同級生に過ぎず、今どこで何をしているかなど知らないと主張。恋町の部屋から一松の血が付着したナイフが見つかったと言っても、自分とは関係ないと言い張ったのだった。

「大体、ナイフが恋町さんの部屋から見つかったんだったら、普通に考えて恋町さんが一松君を殺したって事になるんじゃないですか! なのに、その可能性を無視して私を疑うなんて、理解に苦しみます!」

 栗美の反論に、新庄と竹村は厳しい顔を浮かべる。元より、いざという時にこの言い訳を成立させるために彼女は今回の工作を仕込んだはずなのだ。従って、彼女がこの反論をしてくる事はあらかじめ想定内の話である。

「わかりました。では、話は変わりますが、数日前、京都市内で爆発事故があったのをご存知ですか?」

 新庄の問いかけに、栗美の顔色が少し青くなった。

「……知っています。焼き肉屋の爆発事故ですよね」

「その通りです。その事故で恋町さんと愛木さんが亡くなった事は?」

「……ニュースで見て知っています」

「結構。では、その事故当日、爆発が起こる直前まであなたもあの店にいた。これに間違いありませんか?」

 栗美は唇を噛み締める。新庄の聞き方からすでに同席していたゼミのメンバーから話を聞かれていると感じたのだろうか。少し黙り込んだ後、栗美は渋々といった風に頷きを返した。

「確かにあの日、私はゼミの飲み会であの事故が起こった焼き肉店にいました。でも、爆発が起こる少し前に店を出て、結局事故には巻き込まれなかったんです」

「その時、店内に恋町さんと愛木さんがいた事に気付かなかったのですか?」

「気付くわけないじゃないですか。マンションの管理を直接的にしているのは私の両親で、娘の私が入居者と会う事はほとんどありません。だから、彼らの顔もよく知らなかったし、それは向こうも同じだったと思います」

「では質問を変えますが、あなたはなぜ他のゼミメンバーを残して一人だけ爆発直前に店を出たんですか?」

「それは、具合が悪くなって先に帰らせてもらっただけです」

「店を出た後、あなたはどこに?」

「そのまま家に帰りました」

「直後に今出た店で爆発が起こったのに気付かなかったと?」

「何か騒ぎになっているのは気付きましたけど、それがまさかさっき出た店だとはわからなくて、関わり合いになりたくなくってそのまま帰ったんです。それより、これって一松さんの事についての取り調べですよね。何で今、その爆発事故の話が出てくるんですか? まさか……私が爆発を起こした犯人だとでも言うつもりなんですか!?」

「いえいえ、違います。あれが事故である事はすでに府警本部によって証明されていますので」

「だったら……」

「ところで、あなたはそのガス爆発事故があった後、なぜか夜中に新幹線に乗って東京へ向かい、そして翌日の始発の新幹線で東京から京都へとんぼ返りをしていますね?」

 その瞬間、栗美は反射的に目を見開いた。それを確認した新庄と竹村は互いに頷き合うと、さらに栗美を追い詰めにかかる。

「まず、この事実についてあなたはお認めになりますか?」

「……覚えていません」

 一瞬目を逸らして誤魔化そうとした栗美に対し、隣に立っていた竹村が一喝した。

「とぼけるな! 東京駅と京都駅の防犯カメラにお前の姿が映っているんだ! 否定した所で、証拠はちゃんと挙がってるんだよ!」

「……」

「それにな、普通、本当に何も知らない人間がこの質問を受けたら、『知りません』とか『わかりません』とは答えるかもしれないがが『覚えていない』とは言わないんだよ。下手な誤魔化しは通用しないって事だ」

「そういう事です。もう一度聞きます。あなたは事故当日、新幹線で東京へ向かいましたか?」

「……確かにあの焼き肉屋を出た後、私は新幹線で東京に行きました。それは認めます」

 防犯カメラの映像という証拠がある以上、栗美も否定できないのだろう。栗美は顔を歪ませながらそう答えた。

「では、事故当日のこの不自然な京都と東京間の移動は何のためだったのですか? 事件に関係ないというのならば、答える事もできるはずですが?」

 新庄の静かでありながら答えを拒否する事を許さない問いかけに、栗美は言葉を詰まらせつつも、何とか振り絞るようにして答えた。

「東京の実家に置き忘れたものがあるのを思い出して、至急必要なものだったので、取りに帰ったんです。両親が旅行に行っている事は知っていたので、自分で取りに行くしかありませんでした」

 苦しい言い訳だったが、それを承知で彼女はこの言い訳を押し通すつもりのようだった。ならばと、新庄たちも語気を強める。

「では、そこまでして東京の実家まで取りに行った忘れ物というのは?」

「課題レポート執筆のための参考書籍です。絶版本で、課題を書くためにどうしても必要なものでした」

 栗美はスラスラ答える。どうやら、あらかじめ考えておいた答えのようだった。が、新庄は追及を緩めない。

「だとしても、何もあの日でなくともよかったのでは? あなたが焼き肉店から一足早く出たのは、確か気分が悪かったからだったはずですよね?」

「それは……それでも一刻も早くその本の内容を確認したかったんです!」

 栗美は頑固にそう言い張る。が、新庄も負けていない。

「では、あなたはあくまであの日、爆発事故で仲間のゼミ生の安否がわからないにもかかわらず、東京の実家に戻ってその絶版本とやらを取りに帰ったというわけですね?」

「そ、そうです」

「では、実家に着いたのは具体的に何時の事ですか?」

「それは……夜の十一時くらいだったかと」

「夜の十一時ですね。では、その後はどうしたんですか?」

「……は?」

「その後ですよ。東京駅の防犯カメラによると、あなたは翌日早朝の始発新幹線で東京を後にしています。午後十一時に実家について本を入手し、東京駅で始発の新幹線に乗るまでの約六時間から七時間、あなたはどこで何をしていたのですか?」

 栗美が言葉に詰まる。

「それは……そのまま実家の私の部屋のベッドで朝まで寝て……」

「ならば、実家のあなたの部屋にあるそのベッドを調べてみましょうか。御両親の話だと、あなたが京都の下宿に戻った後、あなたの部屋のベッドのシーツや掛布団などはクリーニングに出して押し入れにしまってあるとの事です。もしあなたがあの日実家に帰ってベッドで寝たというのならば、しまってあったシーツや掛布団に使用した痕跡が残っていなければおかしいはずですが?」

「そ、それは……」

 もし、榊原の推理通り彼女の帰京の理由が恋町たちの部屋にあのナイフを置くためだったとすれば、その後で無人の実家にわざわざ寄るとは思えない。そもそも彼女からすれば東京に来たこと自体を隠したいはずなのだ。万が一実家に戻っていた事が誰かに知られたらその時点でアウトであるため、実際には都内の漫画喫茶かカプセルホテルあたりで始発までの時間を潰した可能性が高いというのが新庄たちの出した結論だった。

 そして、警察の手にかかればそれを証明する事は難しくない話だった。竹村が黙って何枚かの写真を机の上に置き、新庄がその写真の説明を行う。

「東京駅周辺の漫画喫茶やカプセルホテルを片っ端から調べましたよ。結果、ある漫画喫茶の防犯カメラに、問題の夜にあなたが来店している姿がはっきり映っているのを確認しました。来店したのは午前零時半頃で、店を出たのは午前五時半頃。ここまで調べられまいと高を括っていましたか?」

「それは……」

「さて、今しがた実家に泊まったと言ったあなたの姿が、どうしてこんな場所で確認されているんでしょうね? 納得のいく答えはありますか?」

 新庄の問いかけに対し、何かを言おうとする栗美。だが、その前に竹村が畳みかける。

「まっ、漫画喫茶に泊まっていたと認めても、それはそれで問題なんだがな。あんたもさっき言ったように、実家に本を取りに行ったという話が本当なら、そのまま実家に泊まるのが普通なんだよ。なのに、せっかく実家まで来たのにわざわざ東京駅近くの漫画喫茶に泊まったのはなぜだ?」

 栗美の表情はすっかり蒼ざめている。いつの間にか、どう答えても致命傷になるという状況に追い込まれてしまった事に気付いたからだ。

「あなたが実家ではなく漫画喫茶に泊まった理由は一つしか考えられません。すなわち、あなたはこの日、そもそも実家に戻ってなどいなかった。あなたは一松さんを殺害した凶器である血まみれのナイフを隠すためにわざわざ東京へ向かい、マンションの管理人室から合鍵を拝借して恋町の部屋に侵入した。違いますか?」

「出鱈目です! 何度も言うように私は恋町さんの部屋に侵入なんかしていないし、部屋の中から一松君の血が付いたナイフが見つかったっていうんだったら、それは恋町さん本人が隠したと考えるのが自然です! 私は何も関係ない!」

「だったら、あんたはあの日東京に戻って漫画喫茶に現れるまでの間にどこで何をしていたんだ! まさか、漫画喫茶に泊まるためだけにわざわざ東京に行ったとかいう馬鹿げた事を言い出すつもりじゃないだろうな!」

 竹村の言葉に対し、栗美は必死に顔を背けながらも反発する。

「黙秘します。それを言う義務は私にはないはずです」

「いい加減に……」

 なおも何か言おうとする竹村を手で制し、新庄は押し殺した声で努めて冷静に尋ねた。

「では、これだけ確認します。あなたはあの日、恋町さんが入居するマンションには行っていない。これに間違いはありませんか?」

「ないです。私はあの日、あのマンションに行っていません」

「絶対にですか?」

「絶対にです」

「そうですか」

 新庄はそう言った後、少し間を置いて、突然こんな事を言った。

「青星鮎子という名前をご存知ですか?」

「え?」

 唐突な新庄の言葉に、栗美は呆気にとられた表情をする。

青星鮎子あおほしあゆこです。最近売り出し中の女性歌手らしいですが、知りませんかね?」

「……いきなり何の話ですか?」

「その青星鮎子ですがね、実は恋人がいたようなのです。相手は臼山萩雄うすやまはぎお。新進気鋭の都議会議員です。この二人、スキャンダルには敏感な立場の人間である事もあって、密会の場所として臼山議員の秘書の名目で借りられたマンションの一室を定期的に使用していました。その秘書の名前は戸来狩夫とらいかるお。ご存知ではないですか?」

 その瞬間、栗美の顔色がわずかながらに変わるのを新庄ははっきり見た。

「どうやら、聞き覚えがあるようですね。お察しの通り、あなたの御両親が管理する問題のマンションの一室に入居している人物の名前です。もっとも、さっきも言ったようにこの部屋は青星鮎子と臼山議員の密会のために借りられたもので、戸来本人が来る事は滅多になかったようですが」

「それが……どうしたというんですか?」

 栗美はか細い声で尋ねる。

「この二人の秘密の関係については、業界内でも最近噂になっているようでしてね。何人かの芸能記者やライターがこの二人の関係をスクープしてやろうと躍起になっているようなのですよ。で、そんなライターの一人が、臼山の秘書である戸来の名義で借りられたマンションの部屋の存在に気付きましてね。二人の密会を写真に収めるべく、問題のマンションを張り込んでいたらしいのです。もちろん、京都で爆発事故があったあの日もね」

 刹那、栗美の顔色がサッと蒼くなった。新庄は気付かぬ風に話を続ける。

「ライターの名前は持倉三太。事件翌日に我々があのマンションを訪れた際にマンションの近くで怪しい動きをしていたため事情を聞き、当初は白を切っていましたが、その後の調査で臼山議員たちの密会を狙っていたフリーの芸能ライターである事がわかりました。で、彼が事件当夜に撮影したマンション周辺の写真を確認した所……こんな写真が出てきましてね」

 新庄の合図で、竹村が再び一枚の写真を机の上に置く。そこには暗闇の中、周囲を警戒しながらマンションの敷地内に入っていく若い女性の姿がはっきりと写っていた。

「これ、どう見てもあなたですよね?」

「……」

「あなたは先程、『あの日、マンションには絶対に行っていない』と断言し、こちらが何度も念押ししましたにもかかわらず、その言葉を撤回する事もありませんでした。しかし、実際にはこの通り。あなたはあの日、間違いなくあのマンションを訪れているはずなのです」

「……」

「さて、改めてお聞きしますが、なぜあなたは嘘をついてまでこの事実を隠そうとしたのですか? そして、あなたはこのマンションで何をしていたのですか? ちなみに、すでにマンションの住民に対する聞き込みはしていますが、あの夜、あなたが自室に訪れたと証言した人間は一人もいませんでした」

「……」

「どうなんですか、佐相さん!」

 新庄の鋭い声に、栗美は体を大きく震わせたが、なおも彼女は諦めなかった。

「……確かに、あの夜、あのマンションの管理人室に行きました。でも、それはさっき言っていた本を管理人室に忘れていて、それを取りに行っただけです!」

「では、なぜ実家に本を取りに帰ったと嘘をついたんですか?」

「だって、どう見ても疑わしいのに、そんな事を言ったら怪しまれると思って……」

 かなり苦しい言い訳だった。それは言っている本人もそう思っているだろう事は目に見えてわかったが、彼女ももう引くに引けない所まで追い詰められているようだった。

「ならば、その本が管理人室のどこに置いてあったかを教えてください」

「え……」

「本の置かれていた場所です。まさか、それもわからないと言うつもりではありませんよね?」

 栗美の顔に焦りが浮かぶ。

「それは、その……部屋の奥の本棚に……」

「では、その辺りの指紋を調べる事にしましょうか」

「し、指紋?」

「えぇ。本当にそこから本を取ったというのなら、あなたの指紋が周囲に付着しているはずです。もし、それがなかったら……あなたの今の証言は出鱈目という事になる。どうですか?」

「それは……」

 栗美は唇を噛み締めた。元々管理人室に行ったこと自体を隠したかった彼女は、恐らく合鍵を取りに行った際にも指紋を残すような事はしていないだろう。しかし、こうして管理人室に行った事がほとんどばれかけている今となっては、逆に指紋が残っていない事が致命的な証拠になりつつあるのだ。だが、それでも栗美はさらに何か言い訳をしようとした。

 と、そんな所へ京都府警の刑事が取調室に入って来て、新庄に何かを耳打ちする。不安そうな顔をしている栗美を目の前にして、新庄はその刑事に頷きを返すと、改めて栗美を真正面から見据えた。

「鑑識からの連絡です。恋町さんの部屋で採取された繊維片が、あなたの部屋から押収された靴下の繊維と一致したとの事です。これはすなわち、あなたがその靴下を履いて恋町の部屋を歩いたという何よりもの証拠になります」

「っ!」

「さすがのあなたも、恋町さんの部屋に進入した際に足にカバーを履くような事はしなかったようですね。それと蛇足ながら、あなたの部屋の床から、かすかではありますがルミノール反応も検出されたそうです。この血痕も、調べたら面白い事になりそうですね」

「……」

 栗美はもう反論もできないようだった。新庄は最後の詰めにかかる。

「これ以上の言い訳は意味がないでしょう。あなたが恋町さんの部屋に無断で入った事は立証された。その目的は、一松さんの血が付いたナイフを恋町さんの部屋の中に隠すためだったとしか考えられない。違うというのなら、あなたが恋町さんの部屋に侵入した理由を今ここで説明してください! さぁ!」

 そう言われて、栗美はがくりと肩を落とすと、そのまますすり泣きを始めてしまった。それを見て、新庄は佐相栗美が「落ちた」事をはっきりと悟ったのだった……。


 それから三十分後、佐相栗美は爆発事故があった夜に恋町の部屋に侵入して問題のナイフを隠した事、そして事故の一週間前に、そのナイフで一松敦樹を殺害した事を自白した。遺体は京都市内北部の山間部に埋めたとの事で、自白を聞いた京都府警の捜査員たちが今頃遺体発見のために現地に向かっているはずだった。

「もう一度確認します。あなたは京都を訪れた一松敦樹さんをナイフで殺害し、その一週間後、凶器のナイフを爆発事故で死亡した恋町さんたちの部屋に隠して、一松殺害の罪を着せようとした。間違いありませんね?」

 新庄の確認に、栗美は力なく頷いた。

「はい……私が一松君を殺しました」

「動機は何ですか? あなたが一松さんと高校時代の同級生だった事まではわかっていますが、普通に考えてそれだけの関係で殺人に発展するとは思えません。一週間前、何があったんですか?」

 新庄の質問に対し、栗美は少しためらうような仕草を見せたが、新庄と竹村がジッと自分を睨んでいるのを見ると、観念したようにポツポツと自身の動機を答え始めた。

「彼は一週間前、突然、京都市内にある私の下宿先のアパートの部屋にやってきました。いきなり何かと思ったら、彼は怖い顔で私の事を問い詰め始めたんです」

「問い詰めた?」

「……高校の頃に、私が一松君の彼女を死なせたって……」

 思いもよらない告白に、新庄と竹村は一瞬顔を見合わせる。一松と栗美が高校時代の同級生だった事が判明した時点で、当然ながら彼らが通っていた高校についても調べてある。そしてその時に、確かに彼女の周囲で死亡した人間が一人いた事を新庄たちは思い出していた。

「それは四年前に落雷で死亡した、あなたの後輩の女子バスケ部員の事ですか? 記録によると、名前は赤峰慶子あかみねけいこさんとの事ですが」

「その通りです」

「彼女を死なせた、というのはどういう事ですか? 問題の落雷は明らかに事故だったはずですが」

 当然の疑問に、栗美はポツポツと答える。

「……あの日は祝日で学校も部活も休みだったけど、私は大会が近かった事もあって自主練するために学校に登校しました。そしたら赤峰さんが先に来ていて、当直の先生から鍵を借りて体育館を開けていたんです。だから私もそれに便乗して、しばらく一緒に自主練をしていました」

 一度言葉を切って、栗美は話を続けた。

「それで、練習を終えて体育館の更衣室で着替えていた時にボトルの飲み物が切れている事に気付いて、私は赤峰さんに校庭のすぐ脇にある自販機でジュースを買ってくるように頼んだんです。でも、彼女は私の頼みを渋りました。その時、外は雨雲ですっかり暗くなっていて、雨こそまだ降っていなかったけど、かすかに雷の音が聞こえていたからです。でも、練習がうまくいかなくてイライラしていた私はそんな彼女の態度が気に食わなくて、かなりきつい口調でジュースを買いに行くよう強要しました。そして、赤峰さんは少し不安そうな顔をしながら、それでも私の言う事を聞いて外に出て行ってしまったんです」

 その瞬間、新庄はその後何が起こったのかを悟ったようだった。

「まさか、そこで落雷が赤峰さんを直撃した?」

「はい。体育館の窓から何気なく彼女の様子を見ていたら、急に轟音と共に目の前が真っ白になって、気付いたらグラウンドの真ん中で彼女が倒れていたんです。呆然としていたら、職員室にいた先生たちも異常に気付いたらしくって、降り始めた雨の中、倒れた赤峰さんの所に駆け寄っていくのが見えました」

 と、ここで新庄が眉をひそめる。

「しかし、記録によるとこの落雷事故は赤峰慶子の単独事故で、事件当時にあなたが現場にいたなどという情報はどこにも書かれていません。つまり……あなたはその後、現場から逃げ出して無関係を装った事になる」

「……そうです」

「なぜ、そんな事を?」

「確かに落雷自体は事故でしたけど、彼女が雷に打たれたのは、私がジュースを買ってくるように嫌がる彼女に強制したからです。しかもその時、彼女はちゃんと『雷が怖い』と言っていたのにもかかわらずです。もしその事がばれたら、無理やり外に行かせて雷に打たれるきっかけを作った私は身の破滅だと思いました。そんな事を考えて体育館から校庭に倒れている赤峰さんの周りに集まる教師たちを見ているうちに気付いたんです。職員室で体育館の鍵を借りたのは赤峰さんで、その後に来た私が体育館にいた事は誰も知らないはず。だったら、今のうちにこの場から離れれば、私が彼女と一緒にいた事もばれないまま済むんじゃないかって。だから……だから私は……」

「あなたは教師に気付かれないうちにこっそり学校を後にした。結果、落雷当日に体育館にいたのは赤峰さんただ一人という事になり、事故は彼女の不注意で起こった事になってしまった」

「わざわざ遠く離れた京都の大学に進学したのも、二度とこの事を思い出さないためでした。でも、まさか今になってこんな事になるなんて……」

 事がここに至れば、その後の話の流れはある程度予測ができた。

「その亡くなった赤峰さんと付き合っていたのが、今回殺された一松さんだったという事ですか?」

「……はい。二人が付き合っていた事は、私も含めて誰も気付いていませんでした。それくらい巧妙に交際を隠していたんです。私がそれを知ったのも、今回彼自身に言われてからでした」

「一松さんは四年経った今年になって、事故当日にあなたが学校にいて、あなたの言動が赤峰さんを死に至らしめたという事実に何らかの理由で気付き、その真偽を確かめるために京都にやってきて、あなたに直接問いただした。そういう事ですか?」

「そうです」

「なぜ、彼はこの事実を知ったんですか?」

 その問いに、栗美は暗い目で答えた。

「……あの時の一松君の話だと、あの日、私と赤峰さんがあの会話をした更衣室は盗撮されていたらしいんです」

「盗撮?」

 穏やかではない話に新庄の表情がさらに険しくなる。

「聞いたことありませんか? 学校なんかで女子生徒自身が更衣室にカメラを仕掛けて盗撮映像を撮影して、それをネットなんかで売って小遣い稼ぎをするっていう。実は私の学校でも、それをしている人がいたんです。そして、本来盗撮目的で仕掛けられたカメラが、私と赤峰さんの会話を偶然録画してしまった。でも、撮影した本人もその映像を表に出すわけにはいかなかった。当然ですよね。そんなものを出したら自分が盗撮していた事を自白するようなものなんですから。だから、盗撮していた本人はこの映像を封印するしかなかったらしくって、そのまま四年が過ぎる事になったというわけです」

 その話が本当なら、殺人とは別の意味で問題である。竹村が険しい声で詰問した。

「その盗撮カメラを仕掛けた女子生徒というのは誰なんだ?」

「……当時バトミントン部に所属していて、一松君の後輩だった春馬民子はるまたみこさんという子だそうです。でも、今から彼女を捕まえようとしても無駄ですよ。彼女、一ヶ月くらい前に亡くなっていますから」

「亡くなった?」

 穏やかではない話だった。

「交通事故だそうです。信号のない道路を渡ろうとしてトラックにぶつかり、その後一週間くらい苦しんだ挙句死んだと聞いています。で、その時に一松君はかつて部活の後輩だった彼女の見舞いのために彼女の病室を訪れたみたいなんですけど、その時にもう自分の命は長くないと考えたのか、春馬さんは自身が撮影してしまったあの映像の存在と、その隠し場所を一松君に伝えてしまったんです。何でも、当時の春馬さんは赤峰さんと一松君が付き合っていた事を知っていた数少ない人間の一人で、赤峰さんの恋人だった一松君には事実を知る権利があると人生の最後に覚悟を決めたかららしいですけど、こっちからすれば余計なお世話でしかありません。とにかく、経緯はともあれ隠されていた映像を見た一松君はあの落雷事故の裏に私の存在があった事を知って、わざわざ京都の私の部屋までやってきてしまいました」

 そこで栗美は重いため息をつく。

「最初は彼自身も半信半疑のまま私を問い詰めていたみたいですけど、しばらく私の反応を見て事実だと確信したみたいです。私、いきなりの事に動揺して物凄くわかりやすい受け答えをしていたみたいですから。何にしても、私からすればもうすぐ就職活動が始まるこの時期に、あの時の事がばれるわけにはいかなかった。だから……だから私は……」

「一松さんを口封じ目的で殺害した」

 後を引き継ぐような新庄の確認に、栗美は頷く。

「彼が来た時、私はちょうど果物を切っているところでした。そして、彼に問い詰められている時に、まな板の上に置かれたままの果物ナイフが目に入ったんです。私、何が何だかわからなくなって、気が付いたらそのナイフを手に持っていて……我に返ったら、彼が床に倒れて事切れていました。私……死体を隠すしかなかったんです」

 栗美は目を潤ませながらついにその事実を認めた。が、新庄はさらに追及しにかかる。

「あなたは一松さんを殺害後、彼の遺体を京都市北部の山間部に埋める事にした。間違いありませんか?」

「……その通りです。彼が持って来ていたスーツケースの中身を全部取り出して、その中に彼の遺体を詰め込みました。幸いスーツケースは大きくて、何とかギリギリ中に入った。そして、アパートを出て北にある山に埋めたんです。取り出した彼の荷物もゴミ袋にまとめて入れて、死体の傍に一緒に埋めました」

「しかし、あなたはその時、わざわざ凶器のナイフを死体から抜いた上で手元に残している。それはなぜですか?」

 新庄の厳しい問いかけに、栗美は顔を歪めながら答える。

「埋めた自分が言うのもなんですけど、あの死体の隠し方だと、いつどんなきっかけで見つかってもおかしくないと思いました。そして、他の埋めた物とは違って、凶器の果物ナイフは私自身の持ち物です。もちろん指紋は拭きとったし、理屈としては一緒に埋めるのが正解なんでしょうけど、いつか死体が見つかった時に調べられたら流通経路の特定とか想定外のやり方で私が買ったってばれるかもしれないと思って、そのまま彼の死体に突き刺しておくのが怖くなって……」

 実際には問題のナイフは量産品で、そこから所有者の特定をする事など不可能だったわけだが、考えてみれば一般人である彼女にそんな事が咄嗟にわかるはずがない。結果、彼女は死体に自身の所有するナイフが遺体に突き刺さったまま発見されるという状況を避けるため、凶器を持ち去って自身で処分する道を選んだのだろう。

「でも、いざ手元に置いたところで、今度はナイフの処分法に困る事になりました。見つかるかもしれないと思うとその辺に捨てるわけにもいかなかくて、どうしたらいいのかと必死に考えている間に一週間が過ぎて……そんな時に、あの運命の日を迎えたんです」

 栗美の言葉に続けるように、新庄は真剣な表情で話を進めた。

「あの日、あなたはゼミの飲み会で問題の焼き肉屋を訪れ、そこで京都旅行中だった恋町さんたち二人の姿を目にする事になった」

「……その通りです。でも、気付いたのは私だけで、向こうは楽しそうに焼き肉を食べていました。無理もありません。私はたまたま二人の顔を知っていましたけど、彼らからすれば管理人の娘に過ぎない私の顔なんか忘れていたでしょうから」

「その後、あなたは爆発直前の焼き肉屋を出て帰路に就いた。体調不良を理由にしていたわけですが、実際の所はどうだったのですか?」

 その質問に、栗美は首を振った。

「実際の所も何も、それは本当の話です。だって、あんな爆発事故が起こるなんて私に予想できるわけがないんですから。本当に体調不良で先に店を出て、店を出て少し歩いたところで……あの爆発が起こったんです」

「つまり、爆発事故そのものや、その直前に店を出た事はあくまで偶然だった?」

「はい。反射的に引き返して野次馬に混じって破壊された店の様子を見ていたら、さっきまで恋町さんたちが座っていた辺りに全身黒焦げになって折り重なるように倒れている二人分の死体が見えました。その死体があった場所と、焼け残っていた服の色でそれが恋町さんたちだって事はすぐにわかったんですけど……ふとその時、あのナイフを使って死んだ二人に私の罪をかぶってもらう事ができないかと思ったんです。どうせ一松君の死体は遅かれ早かれいつかは発見される。だったら先手を打って、見つかる前の時点で仕掛けをして全く関係のない死んだ人間に罪を着せておけば、捜査も見当違いの方向へ進んで、もしかしたら私は罪を逃れる事ができるかもしれないと……」

「それができると、本気で思っていたんですか?」

「あの二人と一松君が同じ大学なのは知っていたから、そのつながりから警察が勝手な動機を作ってくれるかもしれないと思っていました。それが無理でも、本当は関係がない大学の方への捜査へ誘導できるんじゃないかとも思って……」

「馬鹿な事を……」

 新庄が苦々しい顔で吐き捨てる。所詮は素人の浅知恵と言うべきか、そんなに簡単に警察の捜査を誘導できるならほとんどの犯罪は完全犯罪になってしまう。例え大学の捜査へ誘導できてもそれは一時的なもので、いずれ別方面からの捜査が始まる事は自明だった。だが、犯罪者の行動が常に理性的であるとは限らない。それがわからなくなるほど、その時の彼女は切羽詰まっていたのだろう。

「何にしても、本当にあのナイフを使った偽装工作をするんだったら、二人の身元がわかる前に行動しないといけません。死体が激しく損傷しているとはいっても、身元の特定までの猶予はよくて一日くらいだと思いました。だから、私はすぐに自分の部屋に戻って隠しておいたナイフを持ち出して、そのまま京都駅へ向かったんです。両親が韓国旅行に行っている事は知っていましたから、上手くやれば誰にも気付かれずに工作できると思いました」

「そして、新幹線で東京に着いたあなたは問題のマンションへ向かい、管理人室にあった合鍵を使って恋町たちの部屋に侵入して凶器のナイフを隠した。間違いありませんね?」

「……はい。管理人の娘である私はいざという時のために管理人室の鍵を持っていましたから、合鍵を拝借するのは簡単でした。その時は上手くいったと思っていたんですけど……まさか、こんなに早く全部暴かれるなんて……」

 栗美は涙を流しながら頷きながら呟く。と、そこへ京都府警本部刑事部捜査一課の三条実警部補がドアを開けて姿を見せた。新庄がチラリと視線をやると、三条が耳打ちする。

「彼女の自供通りの場所から、スーツケースに入れられたままの一松敦樹と思しき男性の他殺体が見つかりました。詳しくは解剖が必要ですが、ほぼ一松本人の遺体を考えて間違いないかと」

「そうですか」

「それでご相談ですが、こちらとしては現場が京都府内なので、今後の捜査に関してはこのまま我々京都府警が引き継ぎたいと考えています。もちろん、恋町氏の部屋への不法侵入、及び彼女の都内における行動に関する捜査は引き続き警視庁側に協力して頂く事になりますが、それで構いませんか?」

 新庄はチラリと栗美の方を見ながら即断する。

「えぇ、結構です。管轄的にも、そちらが主導して捜査するのが筋でしょう」

「では、後はこちらにお任せを。それと、榊原さんにもよろしくお伝えください」

「もちろんです」

 新庄は小声でそう返事すると、取り調べの席を三条に譲る。栗美はそんなこちらの状況の変化にも気付いていないのか、ただ俯いて嗚咽を漏らしていた。新庄は最後にそんな彼女の様子を確認すると、黙って一礼して竹村と共に取調室を後にしたのだった……

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