第六十四話 「張り込み」
「どうだ?」
「あぁ、問題ない」
その日、警視庁刑事部捜査一課警部補の榊原恵一は、都内にある三階建てアパートの一室の窓から、道路を挟んだ反対側にある家の方を見張っていた。今部屋に入ってきた相方の橋本隆一警部補は、肩をすくめながら買ってきたコンビニのビニール袋を榊原のすぐ傍に置き、自身もその近くに座ると袋からアンパンとお茶を取り出して口にほおばった。それを見て榊原は苦言を呈する。
「そう何度も買い出しには行けないんだから、その辺、ちゃんと考えてくれ」
「わかっているが、長丁場になりそうだからな。ぶっ倒れないためにも、体力はしっかりつけておいた方がいいぞ」
「それはそうだが……。まぁ、いい。ひとまず今の所、動きはない」
……この日、榊原たちはある事件の捜査で張り込みを行っていた。現在二人が捜査を担当している殺人事件……その第一容疑者の自宅の監視である。
事件は三日前の夜の午後十一時頃、東京都三鷹市で発生した。帰宅中のサラリーマンが前方の曲がり角の向こうで何かがぶつかるような鈍い物音を聞き、不審に思って駆けつけた所、血まみれで路上に倒れている男を発見し救急車と警察に通報。駆けつけた救急隊により男の死亡が確認され、近くに被害者を殴りつけたと思しき血の付いた金属製の側溝の蓋(正式には「グレーチング」というらしいが)が放置されていた事から殺人の可能性が高いとして警察は最寄りの三鷹東署に捜査本部を設置していた。被害者は派遣会社勤務の杵柄勝頼。元々あまり評判の良くない男ではあったが、その中でも現在進行形でトラブルを抱えていたのが、今まさに自宅を監視している白瀬順太郎という証券会社勤務の男だったのである。
「確か、被害者の財布から白瀬の名刺が見つかったんだったな」
「あぁ。で、現場と白瀬宅が近かった事もあって、深夜零時頃ではあったが刑事が白瀬宅を訪れて彼から事情を聴いたのだが、どうもその時の白瀬の挙動や言動が不審なものだったらしくてな。その後の調査で白瀬には動機がある事もわかって、一気に最有力容疑者に躍り出たというわけだ」
「株関係のトラブルがあったんだったよな」
「そうだ。杵柄は白瀬の会社を通じて株取引をしていたが、最近になってこの株取引で大損をし、担当の白瀬にかなりの恨みを抱いていたらしい。何度か白瀬の自宅にも押しかけて口論していたという情報も多く寄せられている。さらに、白瀬には事件当時のアリバイが存在しない」
「会社から帰宅したのが同日午後九時頃で、そこから零時頃に刑事が来るまでずっと自宅にいたという話らしいからな。疑ってくださいと言わんばかりの状況だな。もっとも……あまりに条件に当てはまり過ぎて、出来過ぎなようにも感じるが」
「それを確かめるためにこうして今日から張り込みをしているわけだ。ま、気長にいこうや」
そう言いながら、橋本はお茶のペットボトルに口をつけつつ窓から外を見やる。榊原は深いため息をつきながら、自身も袋の中から菓子パンを取り出して口の中に含んだ。事件後、事件への関与を疑われた白瀬は会社から自宅待機を命じられており、事実上の休職のような状況となっている。ここ数日は必要最低限の買い物などを除いて外出などはほとんどしておらず、事実上の引きこもりのような生活を送っていたが、今日は珍しく来客があったようで先程からリビングで何やら話し込んでいる様子がここからでもよく見えた。
「来客の身元、わかったか?」
「あぁ、お前が買い出しに行ってる間に、写真を本部に照会しておいた。白瀬の大学時代の友人で、興信所所員の阿口喬太という男らしい」
「興信所? 友人だとしても何でそんな男が白瀬の家に? 陣中見舞いか何かか?」
「さぁな。碌な事じゃなさそうなのは確かだが……」
それからさらに三十分ほどして、白瀬宅の玄関のドアが開き、中から阿口と白瀬が出てきた。少し玄関口で言葉を交わした後、阿口は白瀬に見送られながらそのまま去っていく。そして、白瀬が家に戻ろうとしたところで、ちょうど郵便配達のバイクが白瀬宅の前で止まるのが見えた。配達員はその場にいた白瀬に直接郵便物を手渡して走り去っていき、白瀬は首を振りながら受け取った郵便物に目を通しつつ家の中へと戻っていく。
「今の、何の郵便物かわかるか?」
「……さすがにここからじゃわからないな。いくつかの封筒だという事はわかるが」
双眼鏡で見ながら榊原がそう答える。その隣で橋本も自分の双眼鏡をのぞきながら家の様子を確認した。
「おっと、客が帰った後もリビングのカーテンは開けっぱなしだな」
「好都合だ。道路からは見えなくても、この部屋からなら充分に見える」
「白瀬の姿は見えるか?」
「……いた。どうやら、そのままリビングで何か作業をするらしい」
「作業って何だよ」
「わからない。書類をたくさん広げているから、もしかしたら仕事関係かもしれないが」
「休職中なのに仕事かよ」
と、そこで榊原が少し訝しげな表情を浮かべた。
「ん?」
「どうした?」
「いや、あれは誰だ?」
榊原が見つめている辺りを橋本も見やると、白瀬宅のすぐ前の道を迷彩服姿で周囲をキョロキョロと挙動不審に見回しながら歩いている男の姿があった。見た目からして物凄く怪しい男であり、明らかにこの場で浮いている存在だった。
「何だあいつ? 自衛官か何かか?」
「自衛官が平日のこんな時間に一人で閑静な住宅街を出歩く理由があると思うか?」
「……いや、ないな」
「あの迷彩服、見た限りだと多分サバゲー用に一般販売されているものだな」
「つまり、サバゲーオタクか何かか。にしても、何でこんな所をうろついているんだ?」
「それは私が知りたいね」
「どうする、職質かけるか?」
「いや、下手に動いて白瀬を警戒させたくない。明らかな違法行為をしない限りは静観するしかないだろう」
「……やむを得ないか」
そんな話をしている間に、その謎の迷彩服の男はそのまま白瀬宅の前を通り過ぎて行った。どうやら白瀬宅に何かしようというつもりはないらしい。
「行ったか」
「一応、あいつの顔写真は撮ったから、後で本部に照会をかけておこう」
「それが一番だな。しかし、本当に一体何だったんだよ……」
橋本はぶつくさ文句を言いながら、ため息をついて再び監視に戻った。それからしばらく見張り続けていると、一時間ほどして、再び家の前に人の姿が見えた。高校の制服を着た少女二人と男子一人。そのうち少女の一人が他の二人に手を振り、そのまま白瀬宅に足を踏み入れていくのがわかった。
「今のが?」
「あぁ。白瀬の娘の白瀬亜由子。現在高校二年生だ。後の二人は、多分彼女の部活の友人と言ったところか」
「何でわかる? お得意の推理か?」
橋本の冗談めいた問いかけに、榊原はあくまで真剣な口調でこう答えた。
「何でも何も、三人ともバトミントンのラケットを持っていた。別に難しい話じゃない」
「あぁ、なるほど」
「……ただ、娘と今の男子生徒は恋人関係かもしれないが」
「ちょっと待て。それこそ何でわかるんだよ?」
「二人の鞄に同じストラップをつけているのが見えた。その一方でもう一人の女生徒の鞄にはそのストラップはついていない。たまたまつけていない可能性がないとは言わないが、同性の友人と共有していないストラップを男女でつけているとなると、かなり親しい関係である可能性が高い。例えば恋人とかだ。まぁ、あくまで可能性の話に過ぎないが」
「はぁ、相変わらず凄い観察眼だな」
橋本が呆れたように首を振り、ついでと言わんばかりにこう続ける。
「確か、白瀬は何年か前に奥さんを病気で亡くしていたんだったな」
「そうだ。今は父と娘の二人暮らしらしい」
「親子関係は?」
「正直、よくわからない。近所付き合いも少ないようで、聞き込みだと二人に関わる話はあまり出てこなかったらしいが……」
「そうか」
橋本がそう言いながらペットボトルのお茶を飲もうとした……その時だった。
「おいっ!」
突然、双眼鏡で白瀬宅を見ていた榊原が鋭くそんな声を上げ、橋本は思わずせき込んだ。
「ゴホッ、ゴホッ……何だ、急にどうした!」
「どうしたもこうしたも、あれを見ろ!」
その言葉に橋本も慌てて窓に駆け寄って白瀬宅を見やるが、それを見た瞬間、橋本も大きく顔色を変えた。
「な、マジかよ……どうする!」
「写真を撮っとけ! 後で否定された時のためだ! それが終わり次第、白瀬宅に突入する」
「大丈夫なのか?」
「緊急事態だ! それに、今なら現行犯で抑えられるかもしれない!」
「くそっ、何てこった!」
橋本はそう毒づきながら榊原の言うように何枚も写真を撮る。そしてそれが済んだ時点で、二人はそのまま部屋を飛び出し、白瀬宅へ急行したのだった……。
……その数日後、捜査本部が置かれている三鷹東署の取調室で、榊原は一人の人物と対峙していた。
「すでに知っているかもしれませんが、先日、三鷹市で派遣会社社員の杵塚勝頼という男が殺害され、我々はその事件の第一容疑者だった証券会社社員・白瀬順太郎を昨日緊急逮捕しました。白瀬は逮捕容疑を認めており、証拠もそろっている事から近日中に送検される見通しとなっています。いずれにせよ、白瀬の逮捕で今回の杵柄殺しの解決は大きく前進したと言ってもいいでしょう」
しかし、そんな榊原の言葉に、彼の正面に座る人物は訝しげな表情を浮かべていた。杵柄殺しの犯人として白瀬が逮捕されたのなら、なぜ自分がこの段階で任意同行されたのかわからないからだ。実際、加害者の白瀬順太郎や被害者の杵柄勝頼とその人物には一切の関係がなく、それどころか面識すらなかった事はすでに警察の捜査で立証されているはずだった。
だが、榊原はそんな相手の困惑など知らないかのように話を続けた。
「あなたはおそらく、なぜ自分が今ここにいるのか意味がわかっていないでしょう。すでに白瀬が犯人として逮捕されているなら、関係がない人物が任意同行まで受けて取り調べを受けるなどあり得ない話だからです。ですので、まずはあなたの誤解を解く事にしましょう」
榊原はそう前置きして話を進める。
「先程、私は杵柄殺害事件の第一容疑者である白瀬順太郎を逮捕したと言いました。しかし、逮捕したと言っても、それは杵柄殺害の容疑で逮捕したという意味ではありません」
そして、榊原はこう告げた。
「白瀬順太郎の逮捕容疑は『傷害の現行犯』。奴は自宅で自身の娘である白瀬亜由子に暴力を振るって虐待しているのを張り込み中の我々に目撃されて逮捕されたのです」
「逮捕後、本人は当初犯行を否認していましたが、我々が張り込みで撮影した暴行の瞬間をとらえた写真を見せたところ、虐待についてはすぐに自白しました。どうも殺人容疑を受けていたにもかかわらず、張込みされているなどとは夢にも思っていなかったようでしてね。現在、被害者の白瀬亜由子さんは警察病院で治療を受けています」
衝撃の真実にもかかわらず、榊原は淡々と事実だけを告げていく。
「自供によれば、白瀬は妻を亡くして以降、娘に対して日常的に暴力行為を繰り返していたようです。特に最近は今回殺害された杵柄とのトラブルと、その杵柄殺害容疑で休職に追い込まれたでストレスがたまっていた事が原因で暴行行為がエスカレートしていたようで、発覚が遅れていたら亜由子さんの命が危なかった可能性もあります。そういう意味では間一髪だったと言えるでしょう」
ですが、と榊原は続けた。
「冷静に考えてみると、今回の虐待の発覚は、果たして偶然だったのでしょうか? 白瀬は虐待の事実をかなりうまく隠しており、亜由子も父親の報復を恐れて助けを求めていなかった事から、今回の張り込みがなければ事態の発覚は困難だったと言わざるを得ません。私はね、この一連の流れに何か作為があったのではないかと疑っているのですよ。正直、あまりにもうまくいき過ぎている気がしましてね」
「……」
「ある殺人事件が起こり、いかにも怪しい人間がいた。当然警察はその怪しい人間を調べるが、その結果その怪しい人間が虐待をしていた事が発覚した。事は殺人事件の捜査ですから警察も通常よりも本気でその怪しい人間を調べる事になり、普通なら発覚しないような犯罪も明らかになる可能性が高い。……私は、まさにこれこそが今回の事件の犯人の目的だったのではないかと考えているのです。つまり、白瀬が虐待をしている事を公にしたかった人物が、白瀬があからさまに動機を持っている人間を殺害して白瀬を第一容疑者に仕立て上げ、警察に彼に対する殺人捜査を行わせる事でごく自然に虐待の事実を明らかにさせ、さらにあわよくば白瀬に殺人の罪そのものもかぶせるつもりだったのではないか、と。まぁ、私の予想では最後の白瀬に殺人の罪をかぶせられるかどうかは『あわよくば』であって、最悪、虐待の事実さえ明らかになればそれでよかったというのが犯人の思惑でしょうが。どっちにせよ、警察が犯人に踊らされていたのは同じですがね。随分、舐められた話です」
「……」
「何にせよ、この推理が正しいなら杵柄が殺されたのは白瀬を殺人容疑者にして警察に捜査させるためだけだったと考えられ、つまり白瀬が動機を持つ人間なら誰でもよかった事になる。よって、犯人には杵柄に対する直接的な動機が存在しなかった可能性が出現する事になるのです。となれば、犯人は誰なのか?」
「……」
「真っ先に容疑者に浮上するのは、当の虐待を受けていた白瀬亜由子でしょう。彼女が父親からの虐待を逃れるためにこの殺人を仕組んだという可能性です。しかし、杵柄殺害に使用された凶器は現場近くにあった金属製の側溝の蓋で、これはかなりの重量があります。少なくとも女子高生の彼女がこの凶器を持ち上げて、あまつさえ自分よりも体格が上の被害者を撲殺する事はまず不可能です。よって、彼女が犯人とは考えにくい。ならば、可能性は一つしかない。白瀬亜由子さんに対する虐待の事実を知っていたが自分だけではどうする事もできず、たとえ自身の手を血に染めてでも彼女を助けたいと思っていた第三者……それが今回の事件の犯人です」
そして、榊原は相手の顔をじっと見つめながら静かに宣告した。
「以上が私の考えであるわけですがね。何か反論はありますか? 白瀬亜由子さんの同級生で恋人でもある……久世正次君」
榊原の視線の先……そこにはあの張り込みの日に白瀬亜由子と一緒に帰宅していた男子高校生が、年齢に似合わない覚悟を決めた表情で対峙していたのだった。
榊原は自身の推理を続行する。
「亜由子さんの恋人である君は、彼女が父親から虐待を受けている事実を知る事ができる立場にいました。しかし彼女自身は報復を恐れて虐待の事実を外部に言えずにおり、白瀬を告発できるだけの明確な虐待の証拠もなかった上に、下手に君が騒いでも虐待が悪化してしまう可能性があった。そのため、君は虐待の事実を警察自身に直接確認させるために今回の犯行を計画した。つまり、白瀬順太郎を殺人事件の容疑者にする事で警察に白瀬家を調べさせ、その過程で虐待の実態を明るみに差せるという犯行です」
久世は黙って榊原の話を聞いている。榊原はさらに話を続けた。
「君の体格はかなり大柄です。つまり、問題の側溝の蓋を持ち上げて被害者の頭に叩きつける事は充分にできた。このような殺害手段を採った理由は、万が一にも白瀬亜由子さんに容疑がかからないようにするためだったのでしょう。さっきも言ったように、女性がこの凶器で被害者の杵柄勝頼を殺害するのは物理的に不可能ですから」
「……」
「あとは警察が白瀬を容疑者として捜査するのを待てばいい。白瀬を本格的に調べれば優秀な日本の警察は必ず虐待の事実に気付くはずで、そうなれば白瀬は確実に逮捕される。それに伴って白瀬亜由子さんも虐待から解放されるという寸法です。さらに言えば、君と被害者の杵柄勝頼には直接的な関係が存在しないため、よほど決定的な証拠さえ残さなければ容疑が自身にかかりにくいという算段もあったはずです」
「……」
「この話、どう思われますか? 私は充分に可能性があると解釈しているわけですがね」
ここで初めて、久世は口を開いた。
「……今の話は、あくまで刑事さんの想像ですよね。本当に白瀬の親父が殺人の犯人だった可能性だってあるじゃないですか」
久世のささやかな反論に、しかし榊原は即座に反証した。
「残念ながらそれはありません。というより、それが立証できていれば今この場で君を取り調べたりしませんよ」
「なぜですか?」
「亜由子さんへの暴行容疑で白瀬を逮捕した後、当然ですが我々は白瀬に対して取り調べを行いました。その結果、白瀬には杵柄殺害当時のアリバイがある事がわかったんです」
「アリバイって、そんなものがあるんだったら最初から警察に言っているはずじゃないんですか?」
「普通ならそうでしょうが、白瀬のアリバイはとても警察に言えないものでした。何しろ……杵柄が殺害されたその時刻、白瀬は自宅内でまさに娘の亜由子さんに殴る蹴るの暴行をしている真っ最中だったのですから」
榊原の言葉に、久世の表情が大きく歪んだ。が、久世はそれを無理やり抑え込んでささやかな反論を試みる。
「そんなの……そんなの、白瀬の親父が勝手に言っているだけで本当かどうかは……」
「虐待の当事者である亜由子さんにもこの証言が事実かどうかを尋ねました。結果、彼女もその時刻に父親から暴力を受けていた事実を認めています」
「いや、でも、それは白瀬の親父が罪を逃れるために、亜由子にそう証言するよう強要したのかも……」
久世はさらにそう反論するが、榊原は首を振った。
「その点についてですが、彼女自身も黙って一方的に暴行されているだけではなかったようです。今は無理でも後々証拠になるかもしれないと思って、いつも白瀬から暴行を受けていたリビングのある場所にこっそり録音日時も記録できるタイプのボイスレコーダーを仕掛けていたんです。もっとも、彼女はこれを自発的に使うつもりはなかったようですがね。話を聞いたところ、万が一暴力がエスカレートして自分が死ぬような事があった時に、警察の捜査で見つかればいいという考えだったそうです」
その言葉に、久世は思わず絶句する。
「とにかく、そのボイスレコーダーが家宅捜索で見つかりましてね。間違いなく、杵柄殺害時刻に亜由子さんに暴行する白瀬の声が記録されていましたよ。白瀬のアリバイは成立です」
「……」
「以上より、白瀬は虐待の犯人ではありますが、殺人の犯人とは考えにくい。そして白瀬が犯人でないとするなら、私が推理した可能性……つまり君が犯人である可能性を考えざるを得なくなるというわけです」
「でも、そんなに難しい話じゃなくて、例えば単なる通り魔の可能性だってあるんじゃないですか?」
久世はさらに反論する。しかし榊原には通じない。
「通り魔だとすれば動機や犯行形態が問題になります。被害者の所持品は盗まれておらず、金銭目的の強盗とは考えにくい。さらに言えば何度も言うように凶器は現場近くにあった側溝の蓋です。確かに威力はありますが、一般的に無差別通り魔殺人は無差別であるがゆえに計画的に行われるもので、ただの一般人がその場で衝動的に通り魔になる事はまずない。すなわち、凶器も大体はあらかじめ準備しているはずなんです。少なくとも私は、現場にあったものを即席で凶器にして暴れ回った通り魔などというものを見た事はありませんね」
「……」
反論はない。さすがにこの辺りの知識は多くの事件に携わってきた刑事に勝てないと踏んだのだろう。
「でも……でも、僕が殺した直接的な証拠なんて……」
「確かに現状ではありません。しかし、事がここに至れば裁判所も君の自宅への家宅捜索令状を必ず出すはずです。側溝の蓋などというもので被害者を思いっきり殴りつけている以上、その返り血は相当のものだったはず。となれば、君の自宅からわずかでも被害者の血痕が付いた遺留品が押収される可能性はあります。さすがに衣服は処分しているでしょうが、両親の眼がある以上、この短期間で全ての遺留品を処分しきれているとは思えませんからね。さらに、現場から押収された遺留物の中に君と繋がるものが確認できるかもしれません。例えば靴跡や毛髪。君はあの時、現場で一本も髪の毛を落とさず犯行を成し遂げた自信がありますか?」
久世は膝の上で拳を握りしめた。が、さらにこう反論する。
「事件があったあの道は僕もよく通ります。もし髪の毛や靴跡が見つかったとしても、事件当時のものとは限らないはずです」
「では、杵柄殺害当時の君のアリバイは?」
「部活で遅くなって、午後八時ごろに帰宅した後はずっと家にいました」
「部活はバドミントン部ですね?」
「はい。確かにアリバイはないけど、だからと言ってすぐに犯人扱いもできないはずです」
「……どうでしょうね」
榊原は意味ありげにそんな事を言う。
「どういう意味ですか?」
「実はすでに君の通っている学校に聞き込みをしていましてね。先生たちの話だと、事件の次の日、君は全ての教科で宿題をしていなかったそうですね。普段真面目なだけに、先生たちも珍しい事もあるものだと印象に残っているようでした。ですが……事件当夜に殺人をしていたのなら、宿題をする暇も余裕もなかったのは頷ける話です」
「それは……」
「逆に聞きましょう。もし君が事件当夜に自宅にいたのなら、普段ちゃんとしているはずの宿題もせずに何をしていたのですか?」
「……気分が悪くて寝ていたんです。それだけの話です」
「気分が悪い、ね。それで次の日の部活ではまともに動けなかったんですか?」
久世の顔色が変わった。榊原は相手の目を見つめながら続ける。
「あれだけの重量の側溝の蓋を大きく振りかぶって被害者を力いっぱい殴りつけたんです。そんな事をすれば大怪我こそしなくてもそれなりの反動はあるはずで、少なからず肉体的なダメージがあるはずだと思っていました。それで事件翌日の君の部活での様子を聞き込んだら、まともにラケットを振る事もできない状態だったそうじゃないですか。結局、体調不良という事で今日に至るまでずっと見学に回っているようですね」
そこまで調べているのかと言わんばかりに久世は目を見開いていた。
「私の予想だと、君の部活での不調の理由は側溝の蓋で被害者を殴った際に負った手首もしくは肩の負傷です。事件からまだ一週間も経過していませんし、試しに病院でちゃんと診察してもらうというのはどうでしょうか? そして負傷が事実なら、その負傷は事件発生前後で負ったと考えなければ辻褄が合わない。君は事件直前まで何事もなく部活をしており、翌日の登校後に手首を負傷するような事象がなかったのは学校側にも確認済みです。となれば、その間に負傷をしたと考えるしかありませんからね。さて、家で体調不良で寝ていたと言っていた君が、なぜ部活に支障が出るほどの負傷をし、しかも医者にも行かずにそれを隠そうとしたのか。その理由を説明してもらいたいものですね」
「……」
「さて、まだ反論しますか? するというのなら、私はいくらでも付き合うつもりですがね」
榊原の静かな宣告に、久世は少し黙り込んでいたが、やがてふぅと息を吐いて榊原を見据えた。
「……さすがです。僕のみ込んだ通り、日本の警察は優秀です」
「犯行を認めるんですね?」
「はい……」
榊原はその言葉に目を閉じ、改めて敬語を崩して尋ねる。
「動機はやはり、白瀬順太郎を虐待で警察に逮捕させる事か?」
「はい。全部、刑事さんの言った通りです。彼女は隠してはいたけど、亜由子が父親から虐待されている事には気付いていました。学校では元気そうに振舞いながら、彼女が深く傷ついている事も。でも……僕にはどうする事もできなかった」
「下手に騒ぐと、かえって彼女に危害が加わる恐れがあるから、だな」
その辺りが虐待問題の難しい所であり、警察や児童相談所が解決に頭を抱える部分でもある。明確な証拠がない状態で中途半端に手を出すと加害者側を追い詰めきれず、かえってその後の虐待が激化してしまう危険性があるからだ。また、虐待されている側が何らかの理由で虐待の事実を否定してしまうと、虐待の証拠がさらにつかみにくくなって解決が難しくなってしまうのも事実である。
「僕の力では限界がある。だから……彼女を助けるには、警察か児童相談所みたいな公機関が直接虐待の事実を掴むしかないと思いました。でも、彼女は絶対に虐待を認めないだろうし、そうなると部外者の僕が何を言ったところで警察が動くわけがない。証拠がないんだから」
「……」
榊原は何か言いたそうな表情をしたが、結局それについては何も言わずに話を進めた。
「だから、白瀬を『事件』の第一容疑者に仕立て上げて、警察に徹底的に追及させようとした」
「はい。それでちょっと調べたら、奴が明確な動機を持っている人がいました。そいつを殺せば、警察は絶対にあいつを調べるはず。その捜査の過程で確実に虐待の事実を掴むはずだし、上手くいけば殺人の罪を着せる事もできると思ったんです。もっとも……さすがにそこまで都合よくはいかなかったみたいですけど」
「しかし、なぜ『殺人』である必要性があった? 殺人でなくとも何らかの事件であれば、それだけで警察は動いたはずだ」
その言葉に、久世は自嘲気味に笑った。
「逆に聞きますけど、殺人以外の事件だったら、警察はここまで詳しく捜査してくれましたか?」
「……」
「張り込みをした、って言いましたよね。あの虐待は、それこそ徹底的に白瀬の家を張り込んで虐待その物を直接確認しないと気付かれないようなものでした。だから、それこそ警察が白瀬の家を張り込むくらいの罪をあいつに着せる必要があった。そして、俺には『殺人』以外にそれを思いつく事ができなかったんです」
その答えに対し、榊原はこの男にしては珍しい事に、頭に片手をやって深く息をついた。何かを言いたいが上手く言えず、そんな自分に苛立っている……傍から見ればそのように感じられる仕草だった。だが、榊原は刑事である。すぐに自身の感情を押し殺し、再び久世の追及にかかる。
「あの日、君は現場を歩いていた杵柄の背後から彼を襲撃し、近くにあった側溝の蓋を使って殴り殺した。間違いないね?」
「はい。その通りです」
「なぜ側溝の蓋を使った? 亜由子さんに罪を着せないために重い凶器を使う必要性があったのは確かだが、それならそれで事前に他の凶器を用意する事もできただろうに」
「……単純に持ち運ぶのが大変でしたし、それに下手に自前で凶器を用意して、そこから足がつくのが怖かったんです。だったらもう、現地調達した方がいいかと思って。でもまさか、それが原因で通り魔説を否定されてしまうとまでは思いませんでしたが」
「そして杵柄殺害後、警察は君の思惑通り白瀬順太郎が怪しいと睨み、まんまと張り込みを行った。そしてその張り込みで白瀬順太郎の虐待の事実が警察関係者により目撃され、白瀬の逮捕につながったというわけだな」
「そうなりますね。ただ、その後こんなに短期間で僕にまで辿り着かれるとは思っていませんでしたけど。こっちは素人ですし、最終的には捕まるかもしれないとは思っていましたが、それにしたって早すぎました。それだけが、残念です」
その言葉に対し、榊原はしばらく無言で久世を見つめていたが、やがてため息をつくように言った。
「……あくまで個人的な思いではあるが、彼女を助けたかったという君の気持ちがわからない事もない。まったく納得はできないがね」
だが、と榊原は間髪入れずに厳しい表情で告げた。
「だからと言って、どんなに立派な理由があったとしても人を殺していい理由にはならない。まして、君が殺したのはこの虐待の一件とは全く無関係の人間だ。はっきり言うが同情の余地はないし、この動機を聞いたところで杵柄氏の関係者は誰一人納得しないだろう」
久世はバッと顔を上げて何か言おうとするが、榊原はそれを遮るように「何より」と続ける。
「君のやった事は、はっきり言えば君が憎んでいた白瀬順太郎と同じだ。むしろ人が死んでいる以上、結果だけ見れば君の方が悪質だと言わざるを得ない。白瀬がやった事を糾弾する資格は今の君には存在しないと考える」
「だったら……だったら、刑事さんは亜由子が死んでもよかったと言うつもりなんですか!」
久世の魂の叫びに対し、しかし榊原はあくまで感情を殺して『刑事』として切り返す。
「厳しい事を言うが、そのセリフ、そっくりそのまま返そうか。君は亜由子さんが助かるためなら無関係の杵柄氏が死んでもよかったと、本気でそんな馬鹿げた事を言うつもりなのか!」
「っ!」
「『亜由子さんを助けるため』という言い訳は免罪符じゃない。相手がどれだけ悪い事をしていたとしても、自分も同じ事、あるいはそれ以下の事をしてしまったら、その瞬間に相手の罪を糾弾する権利はなくなってしまう。糾弾したところで『お前が言うな』という話になってしまい、相手に反論の余地を与えてしまうからだ。だからこそ私たちは、どれだけもどかしかろうが相手と同じところに堕ちないようにしながら対策を考えるしかない。『外道には外道を』という考えは、特にこういう犯罪対策では絶対にやってはいけないんだ」
「でも……だけど……」
なおも何か言い訳しようとする久世に対し、榊原はかぶせるようにして畳みかける。
「もちろん、私も今の虐待対策が完全なものであるとは思っていないし、彼女の虐待に対してどうすればよかったのかは今後も考えていかなければならない事だろう。だが、少なくともその手段が『殺人』というのは絶対に間違いだと今この場ではっきり断言できる。絶対に、だ」
「うっ……」
「そして……これが一番の問題だが、こんな解決の仕方で、当の亜由子さんは本当に救われるのか? せっかく虐待から救われた彼女が、今度は『無関係の人間の命で救われた』という一生消えない罪の十字架を背負う事になってしまった事を、君は理解しているのか!」
この榊原の言葉に、久世は何も言う事ができなくなってしまったようだった。「そんなのは綺麗事だ!」などと反論する事も許されない。それだけのことを……自身が反論する権利すら失う事を久世はやってしまったのである。そんな久世を見ながら、榊原はさらに徹底して感情を殺し去り、自身の『仕事』として努めて冷静に事実を告げていく。
「このやり取りを持って自白とみなす。すでに東京地裁に逮捕状は請求した。また、さっきも言ったように君に絞って調べれば物的証拠も確実に出るだろうから公判は充分に維持できるだろう。それと、君は高校三年生で十八歳だ。すなわち未成年者とはいえ通常刑罰で裁判にかけられる事になり、さっきも言ったように無関係の人間を殺しているから裁判所に同情の余地がないと判断される可能性が非常に高い。死刑まで行く可能性は低いとはいえ、それなりの極刑は覚悟しておく事だ」
「俺は……俺は……」
自身がやった事は正しいのか、それともただの自己満足だったのか……これからの人生、この少年はそれを死ぬまで悩み苦しみ続ける事になるのだろう。いずれにせよ、これで榊原の仕事は終わった。
「後は頼みます」
後の処理を所轄署の刑事に託して取調室を出ると、そこには橋本が待ち構えていた。
「お疲れ」
「あぁ……今回は、本当に疲れた」
橋本は何も言わない。榊原はしばらく黙り込んだ後、ポツリとこう言った。
「重いな」
「……あぁ」
「正直、二度とこんな取り調べはやりたくない。もっとも……この仕事をしている以上、そうはいかないんだろうが」
「……」
「難しいな」
「そうだな」
だが、立ち止まる事はできない。次の事件はすぐに起こるだろう。榊原と橋本は深いため息をつくと、重い足取りでその場を立ち去ったのだった……。




