第六十二話 「大惨事」
その現場は、榊原が今まで遭遇した中である意味一番悲惨極まりない現場だった。現場は都内のとある一軒家だったが、周辺の住宅には警視庁の要請により避難勧告が発令され、集まってきた警察関係者も全員が防護服を着用している。そしてそれは、本庁から駆け付けた警視庁刑事部捜査一課第十三係の榊原恵一、橋本隆一両警部補も同じだった。
「これは確かに……ひどい腐臭だ」
橋本が顔をしかめながら言い、榊原は黙って現場の家を見つめている。一時間ほど前、近隣の家から『ひどい腐臭がする』という通報が複数入り、それによって今回の事件が発覚していた。
「この炎天下だ。こうなるのもある意味当然だろう」
「しかし、いくらなんでもこれはひどすぎる。あんまりだ」
実際、中から漏れ出すこの強烈な腐臭に惹かれて家の周囲には大量のハエが飛び交っており、正直、中がどうなっているかなど考えたくもない状況だった。あまりにひどすぎるためすでに一帯は「生物災害」認定されており、こうした事態に対応するために組織された警視庁のテロ対策特殊部隊がこちらに向かっているという情報も入っていた。
「とにかく、中は危険地帯になっている。絶対に肌を露出させるな! 特に傷が露出していると、雑菌で化膿する危険性すらある」
駆けつけた刑事の一人がそう叫び、防護服に身を包んだ捜査員たちが緊張した様子で家を見やる。と、そこへついにテロ対策特殊部隊が到着し、機敏な動きで家屋内への突入準備を開始した。
「これから突入します! 我々が先行しますので、必ず我々の後に続いてください!」
こちらも専門の防護服に身を包んだ特殊部隊の隊長が榊原たちに指示を出し、榊原たちも頷いてこれに応じる。そしてその五分後、ついに家屋内への突入が始まった。
「突入!」
玄関が解放され、隊員たちが中に突入していく。光景こそ一般的な家のものだが、屋内の臭いは野外以上で、生身で入ればどうなるかなど予想がつかなかった。実際、どこから飛んできたのかすでに大量のハエが室内を飛び交っており、全身をすっぽり覆うこの防護服がなければこの場にはいられないだろう。それはさながら、どこかの細菌研究施設にでも突入している気分である。
「捜索開始!」
隊員たちが散開し、まずは臭いの発生源を探しに行く。それから数分して、隊員の一人から無線連絡が入った。
『見つけました! 一階奥の物置です! ひどい……ひどすぎる! こんなの……』
そう言って無線の向こうの隊員は絶句する。想像を絶するほどひどい現場らしい。
「行きます。覚悟はいいですか?」
隊長の言葉に、背後に控えていた榊原と橋本も頷く。家の奥へと進むと、周囲を飛び交うハエの量も多くなってくる。そして一番奥の部屋の前に、先程連絡した隊員が待機しているのが見えた。隊長と榊原たちは無言で頷き合い、直後、一斉に部屋に飛び込んでいく。どうやらここは物置らしく、暗闇の中、室内には大量のハエの羽音が響き渡っており、何とも不気味な雰囲気を醸し出していた。
「明かりをつけろ!」
隊長の言葉に隊員の一人がドア横のスイッチを入れる。明かりが点き、室内を照らし出す。
そしてその瞬間、榊原と橋本はこの目でそれをはっきり見たのだった。
部屋の隅の方で全身を大量のハエに覆われながら白目をむいて倒れている一人の男と、その男の傍で金槌か何かで叩き壊され、中身が飛び散った状態で転がっている『シュールストレミング』と表記された缶詰を……。
「えーっと、シュールストレミングって……あれですよね、確か世界一臭い事で知られているどこかの国の缶詰の……」
「スウェーデンだ。正直、実際に体験した私からしてみれば食べ物ではなく『天然生物兵器』と言うのが正しいと思うがね」
「そこまでですか……」
「そこまでだよ」
……それから十数年後、品川の榊原探偵事務所で、私立探偵となっていた榊原は自称弟子の女子高生・深町瑞穂の言葉に苦々しく答えていた。
「っていうか、こう言ったら何ですけどちょっと拍子抜けしました。この書き方だとその……小説でも表現できないようなひどい状態になった腐乱死体か何かが見つかった残酷極まりない猟奇殺人事件かと思って身構えていたので」
瑞穂は手に持っている事件記録ファイルを示しながら文句を言った。
「まぁ、結果から見れば殺人事件ですらなかったわけだがね。結論から言えば、この事件で死んだ人間は誰もいなかった」
「でも、シュールストレミングの臭いで大パニックになるっていう話は創作物とかで割とよく見ますけど、ここまでの事態になるものなんですか? 住民に対する避難勧告が出された上に、現場が生物災害認定されたとか、テロ対策特殊部隊が出動するとか、いくら何でもやり過ぎな気が……」
「あくまで風の噂で聞いた話だが、当のスウェーデンの空き家から発見された何十年も前のシュールストレミングを処理するのに軍隊の爆発物処理部隊が出動した事があるという話だ。実際、屋外ならまだしも、室内でこの天然生物兵器を開けるのは自殺行為とされていて、臭いが二度と取れなくなるから衣服と家一件を犠牲にする覚悟が必要になるらしい。というか、実際にスウェーデンでは屋内でこの缶詰を開ける事が法律により禁止されていて、海外に輸出する際も『危険物』扱いされて厳重に梱包されて輸送されるらしい」
「うわぁ……」
「まぁ、本当の所はどうかはわからないが、とにかくこの事件では実際に周囲にまで臭いが漏れ出し、現場一帯を大量のハエが飛び回る事態になっていた。感染症の危険も発生していたし、ここまでの事態になれば、さすがにバイオハザード認定くらいされる」
「……ごめんなさい。これって『食べ物』の話ですよね? 食べ物の話で『危険物』とか『生物兵器』とか『感染症』とか『バイオハザード』って言葉が出てくる時点でおかしいと思うんですけど」
「私も同感だよ」
そう言ってから、榊原は話を続けた。
「改めて事件の概要を説明しておこう。この家に住む男性……仮にA氏としておくが、彼は何を考えたのか十年ほど前に食用目的でスウェーデンからシュールストレミングを三つほど輸入していた。ところが、おそらく食べた際に想像以上に凄まじい事になったんだろうな。一缶は何とか食べ終えたらしいがそれ以上食べる気が起きず、ひとまず家の物置に残り二缶を保存しておいたんだが、いつの間にかその事実を忘れてしまったらしい」
「……色々突っ込みどころ満載ですけど、突っ込むときりがないので先をどうぞ」
瑞穂はそんなコメントをする。
「で、事件当日、A氏は久しぶりに物置の整理をしていたそうなんだが、その際に発酵したガスでパンパンに膨れ上がったシュールストレミングの缶詰を発見してしまったらしい。それで……」
「わかった、好奇心か何かで缶詰を開けちゃって、この大惨事に発展したとか?」
瑞穂が先を予想してそう言うが、榊原は首を振った。
「いや、十年前にシュールストレミングの恐ろしさを身に染みて知っていたA氏は処理に困り、仕方なく警察に通報しようとしたらしい」
「あ、そこはまともな人だったんですね」
「私からしてみれば、だったら最初から三缶も輸入するなと言いたいところだが、とにかく彼は警察に通報するために慎重に缶詰を物置の机の上に置き、玄関の固定電話へ向かった。ところが、だ……その時、玄関口から突然刃物を持った男が飛び込んできて、A氏に襲い掛かったそうだ」
「はい?」
思わず瑞穂はそんな声を上げていた。榊原は淡々と話を続けていく。
「その男……仮にBとしておくが、そいつは金銭上のトラブルからA氏に恨みを持つ人間だったらしく、強盗に見せかけてA氏を殺害するために侵入して来たそうだ。驚いたA氏は咄嗟に抵抗しようとしたが刃物を持った相手ではどうにもならず、たまらず家の奥へ走り、元いた物置に逃げ込んでたまたま置いてあった金槌を手に取ってBを迎え撃った」
「……何だか嫌な予感がしてきました」
瑞穂がそんな事を言うが、榊原の話は終わらない。
「しかし、それでも状況はBの方が優勢だったらしい。進退窮まり、本格的に殺されそうになったA氏は反射的に辺りを見回し……そして、机の上に置きっぱなしになっている二つの缶詰を見つけた」
「ま、まさか……」
「あぁ。刃物片手に突っ込んでくるBに対し、A氏は持っていた金槌をテーブルの上にある缶詰目がけて振り下ろし、飛び散った中身の汁が相手にかかるのを見るや否や金槌を放り出して物置から脱出。そのまま玄関を出た所までは逃げたらしいが、そこで多少服に着いたシュールストレミングの飛沫と家の中から漂ってくる臭いに耐え切れず、その場で気絶してしまったらしい。もっとも、彼の場合は倒れたのが野外だったからまだましだったがね。現場の物置で何の覚悟もなくあれの臭いをかいでしまったばかりか、缶詰の中身を全身に浴びてしまったBの方は悲惨だった」
「あ、あれ? じゃあ、家の中から見つかった、その……全身ハエだらけになっていた男の人っていうのは家の住人じゃなくって……」
「あぁ、殺人犯のBの方だった。正確に言えば標的は死んでいないから『殺人未遂犯』という事になるがね。彼は強烈な臭いのためその場で気絶し、臭いに惹かれてやって来たハエたちに群がられる事になってしまった。死にこそしなかったが、状況はある意味下手な死体よりひどいかもしれない。彼は生きたまま全身にハエの卵を産みつけられ、炎天下の中で生まれた蛆虫が……」
「ストーップ!」
さすがに瑞穂が待ったをかけた。これ以上はさすがに放送コードに引っかかるレベルの話になってしまう。そんな話を夕食前に聞きたくなかった。
「で、結局その後どうなったんですか?」
「あぁ。外部に漏れだした強烈な臭いに気付いた近隣住民が通報し、駆けつけた警官が玄関口に倒れていたA氏を発見してまずは彼を救助。幸いこちらは野外だった事もあって気絶しているだけで、即座に救急車で搬送された。問題なのは現場から救出されたBの方で、直ちにテロ対策特殊部隊による現場の除染作業が行われ、ハエと大量のシュールストレミングがかかっていた服を撤去した後で防護服を着せられ、厳戒態勢の中で病院に搬送された。臭いで気絶した事より、その後に長時間ハエに群がられた事と感染症の方が問題で、助かりはしたものの冗談抜きで生死の境をさまよったらしい。とはいえ、嗅覚に異常が残った上に精神的ショックも大きかった事もあって回復までかなりの時間がかかったらしく、本人は命が助かるのと引き換えに自身の愚かな行動に重い代償を支払う事になってしまったようだがね。さすがに事情が事情なので検察官ももう充分罰を受けたと判断したらしく、人が死んでいない事もあって最終的に書類送検で終わっているはずだ」
「……」
「あと、現場となった家はさっきも言ったように『バイオハザード』認定されて立入が厳重に封鎖され、臭いの完全な除去が不可能と判断された事からそのまま取り壊し処分になって、A氏は殺されこそしなかったものの別の家に引っ越す事になったと聞いている。まぁ、本人は『命が助かっただけでもましだった』と言ってはいたがね」
「……もう一度言っていいですか? これって『食べ物』の話ですよね!?」
瑞穂は盛大に突っ込んだ。まぁ、そう言いたくなるのもよくわかる話である。
「まぁ、そういうわけで、誰も死にこそしなかったが、食べ物にあるまじき被害を出した事件になった。ちゃんとした手順で食べるなら問題ないとはいえ、君ももしシュールストレミングを食べる時には細心の注意を……」
「いえ、食べるつもりなんかこれっぽっちもありませんから、心配しなくても大丈夫です」
瑞穂はきっぱりとそう言い、榊原は苦笑しながらそれに応じたのだった……。




