第六十一話 「天井のアレ」
「厄介な犯人が出てきましてね」
その日、品川の榊原探偵事務所を訪れた警視庁の斎藤孝二警部は、開口一番、事務所の主である榊原恵一に向かってそんな事をぼやいていた。
「一週間ほど前、帰宅途中の落田武代という女子大生が何者かに刺殺される事件が発生しましてね。まぁ、こう言っては何ですがそこまで難しい事件ではなく、すぐに犯人候補が浮上しました。水原明希という二十一歳の新人女流作家で、被害者との間に恋人をめぐるトラブルがあったようです。しかもかなり焦っていたらしく、現場近くのブロック塀に血に染まった犯人の手形がはっきり残っていました。おそらく、よろけるか何かで思わず触れてしまったのでしょう」
「指紋、ねぇ。それなら、その現場に残された指紋と水原という女性の指紋が一致すれば事件は解決するはずだが。もちろんその後の証拠固めは必要だろうが、少なくとも逮捕自体は可能のはずだ」
だが、にもかかわらず斎藤はこうして榊原を訪れている。何か問題があったのは明白だった。
「本来ならそのはずでした。ところがです。事件当日の深夜、水原明希の住んでいるアパートで火災が発生し、彼女は病院に搬送されてしまったんです。幸い命は助かりましたが部屋は全焼し、また彼女も両手にひどい火傷を負いました」
「……もしかして、指紋の採取ができなくなった?」
榊原の問いかけに、斎藤は深刻な表情で頷いた。
「部屋が全焼していたため彼女の私物は全て焼け落ち、残された遺留品からの指紋採取はほぼ絶望的な状況です。また、彼女も両手を火傷していて医者曰く指紋が消えてしまっている状態で、少なくとも当面直接指紋を採取する事は不可能だと言われました」
「となると、その火災自体が水原明希自身の自演である可能性が出てくるわけか」
「えぇ。自身の指紋を全て消すために部屋に火をつけ、さらにわざと手にやけどを負う事で警察の指紋採取を避けようとした、と我々は考えています。なかなかに過激な方法ですが、現場に消す事ができない指紋を残してしまった以上、他に罪を逃れる手段がないと腹をくくった可能性があります」
無茶苦茶ではあるが、何しろ犯人からしてみれば文字通り自身の人生がかかっているのである。そのためなら覚悟を決めた犯人ならそのくらいの事をしかねないという事を、榊原はこれまでの事件で嫌と言うほど思い知っていた。
「しかし、いくら大怪我をしても治療すればいずれ指紋は復活する。それまで待つ事はできないのか?」
当然とも言える問いかけに対し、しかし斎藤は首を振った。
「それが、水原は一週間後に取材名目でオーストラリアへ旅行に行く計画を立てていて、今でもその計画を曲げるつもりはないと発言しています。病院を退院し次第、すぐにでも出国すると。一度出国されてしまうと、そのまま第三国へ逃亡されてしまう可能性もあるので、はっきり言って火傷が治るのを悠長に待っている余裕はありません」
「パスポートは燃えなかったのか?」
「事件直前に『タイミングよく』申請中で、近々発行されると言っています。白々しいことこの上ないですが」
斎藤は苦々しげに言う。とはいえ、どれだけ怪しかろうが、明確な証拠がない限りパスポートの発行や彼女の出国を止める事はできない。警察にできるのは、彼女が退院して出国する前に何が何でも彼女が犯人であるという決定的な証拠を得る事だけである。そのためにも、現場で発見された指紋と彼女の指紋の鑑定は絶対行う必要があった。
「そうすると、どうにかして彼女の指紋を入手する必要があるわけだが……」
「先に言っておくと、彼女に前科はありませんので警察のデータベースに指紋登録はなされていません。また、作家の彼女は自宅を仕事場にしていたので、職場の指紋を採取するという手段も残念ながら使えないようです」
「徹底しているな」
ならばと彼女の実家の指紋を採取する事を榊原は提案したが、運が悪い事に実家にいる彼女の両親は一年ほど前に引っ越しをして新居に移っており、仕事が忙しかった事もあって引っ越して以降彼女は一度も帰省をしておらず、従って実家に指紋は残されていない可能性が高いという事だった。そこで改めて経歴を聞いてみると、斎藤は手帳を見ながら以下のように答えた。
「水原明希は三年前に都内の大野木高校を卒業。高校時代は女子バレー部のキャプテンを務めていたようです。その後しばらく浪人をしていましたが、浪人中に公募していた小説が文学賞を受賞して作家デビューし現在に至っています」
「ふむ。となると、指紋の可能性があるのは卒業したという高校だが……さすがに三年前に卒業した生徒の指紋が今も残っているとは思えないな」
「えぇ、私も同感です」
斎藤は悔しそうにそう言う。だが、榊原はなおも少し考え込んだ後、やがてポツリとこう呟いた。
「その水原明希という女性は、女子バレー部のキャプテンだったわけだな」
「えぇ」
「……だとすれば、わずかだが可能性がない事もない」
榊原の言葉に斎藤は少し反応した。
「本当ですか?」
「言っておくが絶対じゃない。本当に針の穴に糸を通すような可能性だ。失敗する可能性の方がはるかに高い」
「この際、何でも構いません。その可能性というのは?」
斎藤の問いかけに、榊原はその『可能性』について語ったのだった……。
……そして一週間後、捜査本部が置かれている所轄署の取調室で、斎藤は先刻退院したばかりで出国を直前に控えた容疑者・水原明希と相対していた。
「つかぬ事を伺いますが、あなた、高校時代は女子バレー部に所属していたそうですね?」
本当に唐突な話に、警戒心を見せていた明希も少し呆気にとられた表情を浮かべる。
「確かに、私は女子バレー部の所属でしたけど……」
「キャプテンだった?」
「え、えぇ」
「そうですか……。ところで、私自身も学生時代に経験があるのですが、体育館の天井の梁の部分辺りに、バレーボールが挟まっている事がありますね。あれは、バレーボールの練習中に挟まったりするものなんですか?」
明希からすれば、斎藤がなぜいきなりこんな事を言い始めたのか本当に意味がわかっていないらしく、戸惑いながらも慎重に頷く。
「そういうボールは、場所が場所ですから基本的に回収する事はできないそうですね。まぁ、たまに何かの振動で落下してくる事はあるそうですが、そうでもない限りは基本的にずっと放置されているとか。それこそ……何年もずっと」
その言葉が告げられた瞬間、明希はハッとしたような表情を浮かべて、一気にその顔色が悪くなった。斎藤はそれに気付かぬ風を装って話を続ける。
「実は先日、あなたの母校にお邪魔して、その学校の体育館の天井に挟まっていたバレーボールをすべて回収したんです。そして、あなたと同期の元女子バレー部員の方々に協力を要請して彼女たちの指紋を採取し、それらの指紋が残っているボールがないかを調べました。何のためにわざわざこんな事をしたかわかりますか?」
「そ、それは……」
「該当するボールを見つけた後、そのボールに正体不明の指紋が付着していないかどうかを調べたんです。言ったように、あなたと同じ時期に女子バレー部に所属していたメンバーの指紋はすべて回収してありますので、それらのメンバーの指紋が多数付着していながら、同じボールに未知の指紋が付着していたとすれば……その指紋の主が、メンバーの中で唯一指紋の採取ができていないあなたの物である可能性が高いのです。まず、この理論は納得できますかね?」
「……」
「実際に調べた結果、回収したボールの一つから先述した条件に合致する指紋を一つ検出しました。そして、ここからがおもしろい話なのですが、その正体不明の指紋と今回事件現場で発見された血痕指紋がどういうわけか一致したらしいのです」
「……」
「つまりこの事件の犯人は、三年前にあなたの母校の女子バレー部に所属していた人物という事になります。そうでなければ両者の指紋が一致する事などあり得ないので、この理論は間違いないはずです。そして、何度も言うようにボールに付着していた正体不明の指紋の主は、唯一今に至るまで指紋がはっきりしていないあなたであると考えるしかありません。つまり……あなたが事件現場に血痕付きの指紋を残した張本人だったという事が、これで客観的にも証明されたというわけです」
「……」
「あなたは覚悟を持ってこの犯行に臨んだ。犯行後、自ら火事を起こして自身の指紋を徹底的に排除したその精神力ははっきり言って脱帽物と言わざるを得ません。しかし……そんなあなたでも、数年前に体育館の天井に挟まったまま悠久の時を過ごし続けてきたボールに付着した指紋の事までは思い浮かばなかったようですね」
斎藤はそう言うが、そんなものが思い出せるわけがないだろうと、明希は虚ろな目で訴えかけていた。だが、だからと言って簡単に認めるわけにはいかず、彼女はささやかな反撃を試みる。
「そ、その指紋がバレーボール部員のものとは限らないじゃないですか。普通の生徒が体育のバレーボールの授業で使う可能性だってあるし、先生だって……」
「言われるまでもなく、二年前にあの学校にいた教師全員の指紋も確認しました。結果、彼らと一致する指紋でもなかった。指紋の主は教師ではありません」
斎藤は間髪入れずに反論する。すでにそこまで調べているのかと、明希は呆然としていた。
「それに、顧問の先生に聞きましたが、件のバレーボール部では一週間に一度の間隔で用具整備を行っていて、その際に使用するボールを拭いたりしているそうですね。となれば、万が一体育でバレーボールをしていたとしても、一般の生徒の指紋はそこで全て拭き取られてしまうはずです」
「で、でも、可能性はゼロじゃ……」
「いえ、もし体育でボールを使う一般生徒の指紋が付着していたとした場合、その指紋が『一つだけ』というのは明らかにおかしい。体育で使う場合、ボールは不特定多数の生徒が触るはずですから、指紋の大半がバレー部員のもので一部だけが一般生徒という指紋のつき方は絶対にしないはずです。となれば、この未知の指紋は女子バレー部員のものと考えるしかなく、繰り返し言いますが、当時のバレー部員のメンバーの中で指紋の採取ができていないのはあなた一人だけです。ゆえに、あなたがこの指紋の主だとしか考えられないのです」
「……」
「さて、そういう事で現場の指紋とあなたの指紋が一致した以上、残念ですがオーストラリア旅行はキャンセルしてもらわなければなりませんね。さすがにこの状況なら、裁判所もあなたを拘束する令状を出す事に何ら躊躇はしないでしょうし」
斎藤があくまで事務的にそう言うと、明希は顔を俯かせて包帯が巻かれた拳を膝の上で握りしめ、やがて小さく嗚咽を漏らし始めたのだった……。
こうして、事件は無事に解決した。しかし、物凄くシリアスな本編に対して実際の捜索活動がどんな感じだったかと言うと……何というかまぁ、色々あったわけで……。
水原明希が陥落する三日ほど前。都内の大野木高校の体育館前に、いかつい表情を浮かべたスーツ姿の刑事たちや鑑識職員たちが大挙して押し寄せていた。彼らは無言のまま体育館の入口へ向かい、そのまま体育館の中に踏み込む。館内では今まさに女子バレー部が練習をしていたところだったが、突然の刑事たちの乱入に誰もがギョッとした表情を浮かべ、練習の手を止めてしまった。
「あ、あの、何か?」
たまらず顧問が前に出るが、そんな顧問に対して先頭に立つ刑事がしかめっ面かつ物凄く真剣な表情で一枚の紙を取り出して顧問に突きつけた。
「警視庁の者です。東京地方裁判所からこの体育館に対して家宅捜索令状が出ています。これからこの体育館の家宅捜索を行いますので、一度部活を中断し、体育館の外に出て頂きたい!」
「か、家宅捜索!? い、一体なぜ! まさか、うちの生徒が何かやったんですか?」
顧問は思わず後ろの部員たちを見やるが、誰もが全力で首を横に振っている(だが、何か心当たりでもあるのか一人だけ妙に顔を真っ青にしている奴がいたので、そいつに関してはあとでしっかり聴取しようと新庄は密かに心に決めていた)。
「ご安心ください。こことは無関係のある事件の証拠品がこの体育館にあるので、それを押収したいだけです」
「は、はぁ。でも、一体何を……」
そう言いながら顧問が改めて令状を見たが、不意にその顔色が変わった。一般的に「家宅捜索令状」と呼ばれるものは正式には「捜索差押許可状」と呼び、そこには『捜索すべき場所、身体、または物』『差し押さえるべき物』を書く欄が存在する。要するに家宅捜索令状執行に際しては目的もなく捜索する事は認めらておらず、ある程度押収する物をあらかじめ想定して許可を出す裁判所に明示しなければならないわけだ。
で、今回の家宅捜索令状には以下のようにデカデカと書かれていた。
『被疑者の氏名及び年齢』
水原明希 平成××年×月×日生
被疑者に対する殺人遺体遺棄被疑事件について、下記の通り捜索及び差押をする事を許可する。
『捜索すべき場所、身体、または物』
都立大野木高等学校体育館天井
『差し押さえるべき物』
体育館の天井梁部分に挟まったバレーボール全て
『請求者の官公職氏名』
警視庁刑事部捜査一課第三係係長 司法警察員警部 斎藤孝二
平成××年×月×日 東京地方裁判所 裁判官 石田純吉
……どう反応したらいいのかわからず目を白黒させる顧問に対し、刑事は物凄く真剣な表情で念押しした。
「よろしいですね?」
「え、ええ……その……アレを押収するんですか?」
顧問は複雑そうな顔で、体育館の天井の梁の部分にいくつか挟まっている古いバレーボールを見上げながら尋ねた。冗談かと思いきや、目の前の刑事たちはどう見ても本気である。
「不服ですか?」
「不服というか、取って頂けるのならばこちらとしてはむしろ願ったりかなったりではあるんですが、でも、どうして?」
まさか警察が総力を結集して天井に挟まったバレーボールを取りに来るとは思っていなかったのだろう。正直、刑事たちからしても全く同感なのだが、そんな事はおくびにも出さずにあくまで真剣な表情で通告する。
「それを説明する必要性はありません。とにかく、一度この体育館から出てください」
「はぁ……」
顧問や部員たちは毒気を抜かれたような表情でおとなしく体育館から出て行った。で、問題はこの後である。
「体育館にはおおむね二種類ある。天井の電灯を交換するために天井部分に通常は立入禁止になっている作業用の細い通路があるものと、電灯その物が地上付近まで降りてくるリールが備え付けられていて天井にはその手の通路がないものだ。で、この体育館はというと……」
「どうやら、後者みたいだな。さっき入口横に電灯を地上まで下ろす装置があるのを見つけた」
捜査指揮を執る斎藤の部下である新庄勉警部補に、同じく三係所属の竹村竜警部補がぼやくように言った。つまり、この体育館に天井へ行く通路のようなものは存在しないという事だ。
「となると……やむを得ないか」
新庄がサッと合図を送ると、警察の捜査員たちが散らばり、体育館二階の窓を次々外していく。そして、そこからわざわざ外に待機してもらっていたはしご車の梯子が侵入し(頼んだ時、消防署の方々から物凄く呆れたような視線を向けられた)、先端のゲージに乗った刑事たちが手に持った棒を使って天井に挟まったバレーボールを片っ端から必死に叩き落していくと、下に待機していた刑事たちがこれまた必死の形相でそれをキャッチして回収していった。
「窓が大きい体育館で助かったな」
「あぁ。そうじゃなかったら、マジで本格的に足場を組んで回収する必要に迫られるところだった」
「これで何も出なかったら、俺たちはいい笑いものだぞ」
実際、すでに体育館の周りには多くの生徒たちが野次馬として集まっており、興味津々に警察によるこのふざけているとしか思えない作業を見つめていた。そんな中、床に這いつくばってボールを一つ一つ回収しながら、竹村は新庄に対してぼやいていた。
「俺たち、真剣な顔で何やってるんだろうな……」
「何って、捜査だろ」
「消防車にまで出動してもらって全力で体育館の天井のバレーボールを回収する事が捜査なのか?」
「……そうでも思わないとやってられないのは確かだが、文句を言っても始まるまい」
「はぁ……正直、警察の仕事内容がよくわからなくなってきたな」
竹村のため息交じりの言葉に、新庄は何も言わず、黙って作業を続行する事で応じたのだった……。
今回の事件の教訓:刑事はつらいよ




