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第六十話 「自首した誘拐犯」

 小三原大作こみはらだいさくは追い詰められていた。今まで勤めていた自動車修理工場が倒産して路頭に迷う羽目になってしまった上に、タイミング悪く借金の保証人になっていた友人が逃亡した事で多額の借金を背負う事態になっており、いきなり人生が詰んでしまっている状態だった。

 ついこの間までは順調な人生だったのになぜこんな事になってしまったのか……何が何だかわからないまま小三原は自宅アパートからも追い出される事となり、ここ数日はこうして路頭をさまよう生活を送り続けていた。

 だが、こんな生活がいつまでも続くわけがない。いずれわずかしかない所持金は尽きるだろうし、そうなったらあとは野垂れ死にするだけである。だが、この状況を打開できる策など、今の小三原には全く思いつかなかった。少なくとも正攻法でこの状況から脱するのは不可能である。

「……正攻法では?」

 小三原はハッとしたように思わずそう呟き、そして顔を上げて周囲を見渡していた。そこは都内にある小さな公園で、周りには何人か幼い子供たちが遊んでいるのが見える。小三原はその公園の一角にあるベンチに腰掛けていたのだ。

 そんな小三原の頭にどす黒く狂気に満ちた禁断の考えが浮かんでくる。それは絶対にやってはいけない、人間としての最低の所業である。発覚すれば最悪自身の命を失う可能性さえある。だが、もはやこの時の小三原はそんな事すら考えられないほど追い詰められていた。

 身代金目的の幼児誘拐……小三原が考えたのは、そんな最悪極まりない考えだった。

「……」

 小三原は感情のこもっていない虚ろな目で公園を再度見回していた。公園内に子供は五人程度。しかし、これだけ多いと後で警察が捜査した時に目撃情報が出てしまう可能性がある。一人で遊んでいる身なりのいい子供が狙い目であるが、生憎というか幸いというか、条件に当てはまりそうな子供は公園内にいないようだった。

「……何を馬鹿な事を……」

 小三原は頭を冷やすように小さく息を吐いてその場から立ち上がった。このままだと自身がこのどす黒い考えに飲み込まれてしまいそうだと考え、そのまま公園の出口を目指す。この時、小三原は何とかギリギリ踏みとどまったかのように見えた。

 だが、公園を出て少し歩いたところで小三原の足が止まった。その視線の先には人通りの少ない道路に停車している一台の黒い乗用車があり、その後部座席からつまらなそうに外を見ている少女の姿があったのである。運転手の姿はなく、どうやら子供を一人置いてどこかに出かけているらしい。周囲に人影はない。ある意味、絶好のチャンスだった。

 小三原の心臓が大きく高鳴り、握りしめた手から汗がにじみ出す。小三原は何かに操られるようにふらふらと一歩一歩車の方へ近づいていく。そして心臓をバクバクさせながら、後部座席の窓を叩き、少女の気を引いた。

「やぁ」

 気さくに話しかけると、少女は首を傾げた。ある意味当然の反応である。

「退屈そうだね」

「……」

「暇だったらおじさんと一緒に遊ばないかい? おもしろい場所を知っているんだ」

 我ながら胡散臭い言い分だなと小三原自身も思った。だが、少女はよほど暇だったらしく、目を輝かせてこの話に食いついてきた。思ったよりもうまく事が進んでいるようである。

「ここから出られないのかな?」

 少女はドアを開けようとするが開かない。さすがに鍵がかかっているようだ。だが、自動車整備工場に勤めていた小三原はどうすればドアを開ける事ができるかを理解していた。

「えっと、運転席の横のスイッチを見てくれるかな?」

 ……五分後、小三原の指示通りに動いた少女のおかげでドアの鍵が開き、彼女は嬉しそうに笑いながら自動車のドアを開けて外に出てきた。小学一年生から二年生程度だろうか。

「おもしろい所に連れて行ってくれるの?」

「あ、あぁ」

「やったー! 私、退屈していたの」

 彼女はとても無邪気だった。心が少しチクリとするが、もう後には引けない。小三原は覚悟を決めて笑顔を取り繕いながら言った。

「じゃあ、行こうか」

「うん!」

 そして、小三原は彼女の手を握り、そのまま足早にその場を立ち去ったのだった……。


 ……それから一時間後、小三原は誰もいない神社の石段に座って頭を抱え混んでいた。その傍らにはさっき自身が誘拐した少女がニコニコと笑ってこちらを見ている。その無邪気な笑顔を見ると己の罪悪感が一気に高まり、自分がとんでもない事をしてしまったという自責の念が襲い掛かって来るのである。

 なぜ自分はこんな馬鹿な事をしてしまったのか……いざ誘拐が成功してしまうと、さっきまでの狂気じみた高揚感は一気にしぼんでしまい、ただただ恐怖心だけが小三原を支配していた。元々小三原は冷酷無情な犯罪者というわけではない。どこにでもいる小心者の一市民に過ぎなかった男である。そんな小三原が、一時の気の迷いとはいえいきなり凶悪な身代金目的の誘拐事件など起こせるはずがなかったのだ。

 実際に誘拐が成功してしまった以上、もう後に引けないのはよくわかっている。だが、今の小三原はそれ以上先に進む事ができなくなってしまっていた。本来なら身代金目的の電話をかけなければならないのに、体は全く動こうとしない。生きるためだと割り切るには、彼はあまりにも善良過ぎたのである。

「おじちゃん、大丈夫?」

 少女は首をかしげながら小三原に尋ねる。それを聞いて小三原は泣きそうになった。自分が許されない事をしてしまったのはよくわかっている。だが、もうこれ以上自分が何もできない事も理解できてしまった。皮肉にも、それがわかったのは誘拐を成し遂げた後だったのである。

「俺は……俺はなんて事を……」

 小三原は両手で髪の毛をかきむしりながら呻いた。もうどうしたらいいのかわからなかった。戻る事も進む事も出来ない。小三原は完全に袋小路に追い詰められていた。

「どうしたら……どうしたら……」

 嗚咽を漏らしながら呻く小三原であったが、そんな小三原の肩にポンと小さな手が置かれた。ハッとして顔を上げると、少女が相変わらずニコニコ笑いながら拙い口調でこう言った。

「大丈夫だよ」

「え……」

「大丈夫。つらくても何とかなる、ってママがよく言ってたよ。だから、大丈夫」

「……」

「だから、元気出して! ね?」

 それを聞いて、小三原ははっきり悟った。自分には……この子を犯罪に巻き込む事などできない、と。何度も言うが、それだけ小三原は犯罪など似合わない善良な男だったのである。

「……ごめんな……悪かった……悪かったよ……」

 両手で顔を覆って涙を流しながら小三原は幼い少女に謝り続けた。当の少女はきょとんとした顔で、無邪気にこう続ける。

「ねぇ、もう帰りたい。帰ろ」

「……あぁ、そうだな。帰らないとな」

 小三原は涙をぬぐいながら、彼女の手を握った。もう迷いはなかった。やってしまった事はなかった事にできない。自分はこの後、何らかの処罰を受けるだろう。だが、今ならまだなかった事にはできずとも取り返しはつく。自分がどうなったとしても、彼女を家に帰す必要があった。

「行こう。送ってあげるよ」

「うん!」

 少女の太陽のような笑顔に、小三原は吹っ切れたように何度も頷いたのだった。


 それから三十分後、小三原は少女の案内で彼女の自宅の前に到着していた。

「ここが君の家かい?」

「うん! おじさん、ありがとう!」

「……本当は、お礼を言われる筋合いはないんだ」

 いきなり車の中からいなくなったのだ。おそらく家族は誘拐と判断しているだろうし、最悪警察に通報しているかもしれない。だが、小三原はもはや逃げるつもりはなかった。潔く全ての事情を話し、そのまま警察に捕まってもいいと思っていた。

「さぁ、行こうか」

 そう言うと、小三原は少し緊張した様子であったが、門の所にあるチャイムを押した。しばらくして、インターホンから少し沈んだ女性の声がする。

『はい……』

「あの……広原さんのお宅でしょうか?」

 ここに来るまでに、少女の名前が『広原香月ひろはらかつき』である事は本人から聞いていた。

『そうですが……どなたですか? 今、立て込んでいるんですけど……』

「その、実は……」

 どう切り出したらいいのかわからず口を濁らせていると、隣の少女が呼びかけた。

「ママ、ただ今! 帰ってきたよ!」

 その瞬間、インターホンの向こうの空気が変わった。何か息を飲むような声がしたと思うと、ガタガタと慌ただしい音がして通話が切れる。そしてその十数秒後、玄関のドアが大きく開かれ、一人の女性が血相を変えて飛び出してきたのだった。

「香月!」

 女性はそう絶叫すると、少女の元へ駆け寄ってそのまま彼女を抱きしめた。

「香月! 本当に香月なのね!」

「うん、ママ、ごめんね……」

「香月! アアァァァァァァァァァ!」

 女性……おそらく、少女の母親なのだろうが、彼女は人目も気にせず号泣した。

「よかった……よかった! もう、二度と会えないと思った!」

「ママ……」

 と、家の玄関からさらに別の人間がゆらりと姿を見せた。年齢三十代前後の目つきが鋭いスーツ姿の男。明らかに家の人間ではなさそうで、案の定男は厳しい視線を小三原に向けている。そして男は警戒しつつも、小三原の元へ歩み寄って来て、懐から警察手帳を示した。

「失礼、警視庁の榊原です」

 男……榊原はそう挨拶しながら小三原を睨みつける。どうやら、すでに警察に通報されていたようだ。実際、直後に榊原は小三原にこう告げた。

「我々は彼女……すなわち広原香月ちゃんが誘拐されたという通報を受けて臨場していました。あなたは一体……」

 その瞬間、小三原はその場に土下座して頭を下げた。

「申し訳ありませんでした! 私が……私が彼女を誘拐しました!」

 その告白に、榊原の表情は一気に険しいものへと変化した。

「あなたが彼女を誘拐した……間違いありませんか?」

「はいっ! 言い訳するつもりはありません! どんな罰でも受け入れるつもりです! 本当に申し訳ありません!」

「……とにかく中へ。ここでは目立ちます」

 そう言われて、小三原は唇を噛み締めながら榊原に連れられて家の中に入った。そして、玄関のドアが閉じられると同時に、再びその場で土下座をして謝罪する。

「申し訳ありません……申し訳ありません……」

 嗚咽を漏らしながら繰り返しそう言う小三原に対し、しかし榊原は険しい視線を崩さずにこう問いかけてきた。

「彼女をいつ、どこで誘拐したんですか?」

「それは……一時間半くらい前に××町の路上に停車していた車に一人でいたので……」

 それから小三原は、自身の境遇と自分がやってしまったことを必死に榊原たちに説明した。そしてすべてを語り終えると、電池が切れたかのようにその場に崩れ落ちる。

「話はこれで全部です……ご迷惑をおかけします……」

 そう言って両手を突き出し、手錠をかけられるのを待つ。だが、榊原は表情を変える事無く、母親に嬉しそうに抱き着く少女にその視線を向けた。

「こう言っていますが、間違いありませんか?」

 その問いかけに、香月はコクンと頷く。

「うん、間違いないよ」

「奥さん、あくまで念のためにお聞きしますが、彼女は間違いなく広原香月さんですか?」

 その言葉に、母親は何度も何度も頷いた。

「間違いありません! 母親の私が間違えるはずがありません!」

「そうですか……」

 それを聞くと、榊原は小三原の前に跪いた。

「小三原さん」

「はい……」

 小三原は覚悟を決めて返事をする。だが、その直後、榊原は予想外の言葉を発した。

「ありがとうございます」

「……はい?」

 小三原は思わず顔を上げる。榊原の口から出たのはまさかの「感謝の言葉」だった。何かの冗談かと思ったが、榊原の表情はあくまで真剣である。

「あなたのおかげで、全てがひっくりかえりました。もしかしたら、ここからすべてが逆転できるかもしれない」

 意味不明な事を言われて唖然とする小三原を尻目に、榊原は装着しているヘッドフォン式の通信マイクに叫んだ。

「橋本!」

『おぅ、どうした!』

「状況が変わった! こちらで人質を無事確保! 繰り返す、人質を確保した!」

『な……何だって! 一体どうして! 何があった!』

「詳しい説明は後だ! 人質を救助した以上、もう遠慮する必要はない! 状況発生次第、被疑者を確保しろ! 上への連絡はこっちからしておく!」

『わ、わかった!』

「頼むぞ!」

 通信を切る。何が何だかわからないのは小三原の方だった。

「あの……犯人は私……」

「小三原さん。先程も言ったように、我々は広原香月ちゃん誘拐事件の捜査のためにこの家に臨場しています」

 今さらわかりきった事を再び言う榊原に小三原はますます当惑する。だが、榊原は直後にとんでもない事を言い始めた。

「ですが、その誘拐事件が起こったのは今日じゃない。三日前の話なんです」

「……え?」

 一瞬、小三原は自分が聞き違いをしたのかと思って耳を疑った。だが、榊原は大真面目に告げる。

「彼女……広原香月ちゃんは三日前に誘拐され、昨日犯人から身代金を要求する脅迫電話がありました。そして、今まさに身代金の受け渡しが行われているところなんです」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 この刑事は何を言っているのだろうか。だが、榊原は混乱する小三原に対して衝撃の真実を容赦なく告げた。

「要するに、あなたはよりにもよって正真正銘本物の幼児誘拐犯の車から人質になっていた女の子を誘拐し、御親切にも自宅まで届けに来てくれたんです。やった事は褒められる事ではありませんが……この事件、あなたのおかげで完全かつ最高の解決をするかもしれません!」

 あまりにも想定外の事態に、小三原は思考が追い付かず、ただ呆然とする他ない。そんな小三原に対し香月がトコトコと駆け寄り、嬉しそうに笑いながら彼の肩を叩いたのだった……。


「……それで、どうなったんですか?」

 それから十数年後、刑事を辞めて私立探偵になっていた榊原に、彼の自称弟子である立山高校ミス研部長の深町瑞穂はそんな事を尋ねていた。

「どうもこうもない。脅迫電話で犯人は『警察の姿が見えたり取引が失敗したりしたら人質を殺す。自分には共犯者がいるから、どちらか一人が捕まっても共犯者が人質を殺す』とお決まりのセリフを言っていたが、肝心の人質が確保された以上、犯人に遠慮する必要は完全になくなったからね。犯人は被害者の父親に身代金を持たせてあちこち移動させていたが、その最中に人質が確保された事で父親に張り付いていた橋本達も対応を変更。何も知らずに取引現場にのこのこ現れた犯人を即座に取り押さえ、事件は誰一人死なないまま無事に解決した。ある意味、結果的には物凄く理想的なハッピーエンドになったわけだがね」

「はぁ」

 完全解決はいい事だが、その理由を考えると手放しで喜べないのも事実だった。

「犯人は林下松人はやしたまつとという建設作業員の男で、違法賭博でこしらえた多額の借金を返済するための犯行だった。脅迫では共犯がいると言っていたが、逮捕後に調べた結果それは単なるブラフで、あくまで林下の単独犯行だったと結論付けられている。事件当時、林下は公園で一人遊んでいた広原香月ちゃんを言葉巧みに誘拐し、広原宅に脅迫電話をかけて現金三千万円を要求。彼女の父親はやり手の弁護士でそれなりの資産もあり、裁判では最初から彼女を狙った計画的な犯行だったと認定されている。なお、よほど言葉が巧みだったのか香月ちゃんは自分が誘拐されたと思っておらず、おとなしく林下の言う事を聞いていたようだがね。取引当日まで林下は現場近くのアパートにあった空き部屋に彼女を監禁していたが、食料や遊び道具などを差し入れるなど待遇は良かったようだ」

 そこで一度言葉を切り、榊原は話を続ける。

「取引当日、林下は自身の所有する自動車の後部座席に睡眠薬を飲ませて眠らせた香月ちゃんを乗せ、取引現場近くに車を停めて身代金の奪取に向かった。ただ、この睡眠薬の効きが甘かったらしくて香月ちゃんは目を覚ましてしまい、車の中で退屈していた時に通りかかったのが小三原だった。そして、小三原はまさか香月ちゃんがすでに誘拐されているなど知らないまま、言葉巧みに車のドアの鍵を開けさせて林下の知らないところで彼女を『再誘拐』してしまった。もちろんこの時、小三原は彼女が自身の家の車で留守番をしているとしか思っていなかったわけだがね」

「でも、誘拐したはいいけどすぐに罪悪感にさいなまれて、そのまま自宅に送り届けてしまった、と」

「こちらとしても最初はわけがわからなかった。犯人との取引で緊迫しているところにいきなり肝心の人質が何事もなかったかのように帰って来て、しかも連れてきた人間が『自分が誘拐犯だ!』なんて言っているんだからな。しかも、まだ『犯人』との取引が現在進行形で続いているにもかかわらず、だ。正直、最初は犯人が言っていた『共犯者』が裏切ったのかとも思った」

「そりゃまぁ、混乱しますよねぇ」

「ただ、小三原の話を聞いてある程度の事情はすぐにわかった。しかも肝心の取引が何事もなく継続しているとなると、犯人はまだ人質が逃走した事に気付いていない可能性が高かった。だからこっちも犯人が人質逃走に気付く前に蹴りをつけるべくすぐに方針を『静観』から『逮捕』に切り替え、その結果林下はあっさり逮捕。逮捕時に『人質がどうなってもいいのか!』と叫んでいたが、事情を知っているこちらからすればブラックユーモアとしか思えなかったよ」

「まぁ、そうでしょうねぇ」

 こればかりは林下も運がなかったというしかないだろう。まさか誘拐犯が自分の人質を別の誘拐犯に誘拐されてしまうなど、想定外もいい所である。

「……逮捕されたからよかったですけど、林下は人質をどうするつもりだったんですか?」

 瑞穂の問いに、榊原は重い表情で答えた。

「事件後、問題の自動車は押収されて鑑識が調査をしたが、車内から新品の軍手とロープ、それに後部トランクからスコップが発見されている。林下本人は逮捕後に『職場の備品だ』と主張していたが……」

「……殺すつもりだった、って事ですか?」

「警察と検察はその可能性が高いと判断したし、私も同感だ。香月ちゃんの話だと、監禁時、林下は顔を隠すような事はしていなかったらしい。林下の誘拐は小三原と違って計画的犯行で、身元を隠すつもりなら最初からマスクなりをしているはず。それをしていなかったとなれば、身代金奪取後に口封じのために人質を殺すつもりだった可能性は非常に高い」

 そう言う榊原の表情はかなり苦々しかった。

「言い方は悪いですけど、小三原が再誘拐しなかったと考えたらゾッとしますね」

「もちろん、結果的に最良の結末になったとはいえ、小三原のした事は法的には許されるものではない。事件後、小三原は逮捕されて警察及び検察からかなり絞られたが、何度も言うように結果的に子供一人の命を救う事につながった上に、誘拐はしたが被害者に危害等を加えていない点、実際の脅迫行為などは行っておらず実行前に自首した点、さらに弁護士でもあった被害者の父親が彼を弁護した事もあって、最終的に不起訴処分に落ち着いている。一方、林下は被害者の命こそ助かったものの軍手やロープの存在から殺意があった可能性が高い事が問題になり、検察は刑法二二五条の二第一項の身代金目的誘拐罪で林下を起訴。身代金目的の誘拐に加えて被害者に対する殺意があった事を主張する検察に対して林下は誘拐そのものを認めつつも殺意については否定したが、最終的に東京地裁は検察側の主張の大半を認める形で懲役十五年の判決を下し、控訴審の東京高裁、上告審の最高裁もこれを支持して刑が確定している」

「十五年、ですか」

「殺意があった可能性が高いとはいえさすがに人が死んでいない以上死刑判決は出せない。とはいえ、刑法二二五条の二に定められた身代金目的誘拐罪は、死者が出ていなくても最高刑が無期懲役という通常殺人罪に匹敵する重罪だ。そこから考えればこれの懲役十五年はかなり重い判決と言っていいだろう」

 この刑法二二五条の二(無期懲役または三年以上の懲役)という条文は、かつて発生した『吉展ちゃん誘拐殺人事件』と呼ばれる日本史上最大の誘拐殺人事件を受けて、身代金目的の誘拐に対して刑法二二五条に定められた営利目的誘拐罪(懲役一年異常十年以下)より重い刑罰を科すことを目的に一九六四年に制定された条文である。先述通り量刑は「無期または三年以上の懲役」とかなり幅広く、そんな中で無期懲役に限りなく近い懲役十五年という判決は殺意があった事がかなり重く響いたと考えるしかないだろう(参考までにいうと、一九七四年に起こった某俳優の娘誘拐事件(人質は無事解放)の犯人に対し、裁判上では殺意が確認されなかったにもかかわらず裁判所は同罪状で懲役十二年六カ月の判決を下している)。

「でも……まさか先生の事務所の事件記録で、私の友達の名前を見る事になるとは思っていませんでした」

 そう言いながら、瑞穂は正面のコートを見やる。今、二人は都内にある市民体育館の観客席に並んで座っていた。この体育館ではバレーボールの大会が行われており、もう間もなく次の試合が始まるはずだった。コートでは両チームの選手たちが準備をしているところである。

「それは私も同じだよ。まさか君が、あの広原香月ちゃんと知り合いだったとはね。確かによく考えてみれば君と同い年ではあるが……」

 瑞穂の言葉に対し、榊原も苦笑気味にそんな言葉を返す。と、そこへコート内の人だかりの中から一人の少女がこちらへ近づいてきた。髪をショートにしたいかにも活発なスポーツ少女と言った風貌で、バレーボール部だけあって背はかなり高い。

「やぁ、瑞穂。久しぶりだね」

「香月も久しぶり。会うのはいつ以来だっけ?」

 その言葉に、瑞穂の中学時代の同級生……広原香月は微笑んだ。

「前に会ったのが夏休みだったから、三ヶ月ぶりくらいかな。でも、今日は来てくれてありがとう」

「由衣にも声はかけたんだけど、あっちは水泳で忙しいみたいで」

「あぁ、由衣は水泳を続けているんだね。むしろ私は瑞穂が陸上を辞めた事の方がびっくりだよ」

「私も色々あったんだよ」

 どことなくボーイッシュな口調で瑞穂と会話する香月は、ふと瑞穂の隣の榊原に気付いたようだった。

「ところで、そっちの人は?」

「あ、えっと……」

 瑞穂が慌てて何か言おうとしたが、その前に榊原は自分から頭を下げる。

「失礼、私立探偵の榊原恵一です。今日は彼女の付き添いでしてね」

「探偵、ですか?」

 首をかしげる香月に、瑞穂は慌てて説明する。

「えっとね、私、今ミス研……ミステリー研究会に入っていて、先生の助手をしてるの」

「自称、だがね」

 お決まりのやり取りに、香月は驚いた表情をしていたが、すぐに快活に笑った。

「ふーん。ま、瑞穂が楽しそうならそれでいいかな」

 と、会場の方が騒がしくなった。そろそろ試合が始まるようである。

「あ、そろそろだね。それじゃ、試合が終わった後で」

「うん。頑張ってね」

「もちろん。負けるつもりはないよ」

 香月は瑞穂に再度手を振って、そのまま戻っていく。残された二人はそんな彼女を見送りながらしばらく黙っていたが、やがて瑞穂がこう言った。

「香月、先生の事を覚えていないみたいですね」

「別に構わんよ。会ったのは一度きりだし、それに刑事の顔なんか覚えていないに越した事はない」

 榊原はそう言って気にしていないようだった。

「そうですか……。あっ、そう言えば、その小三原さんはその後どうなったんですか?」

「あぁ、それは……」

 と、その時だった。

「あの、もしかして、あの時の刑事さんですか?」

 不意に二人の後ろから声がかけられ、振り返ると五十代半ばと思しき男が一人立っていた。

「あなたは……」

「小三原です。その節は、お世話になりました」

 それは、あの時香月を誘拐した小三原大作その人だった。年齢こそ重ねていたが、その表情はあの時よりも穏やかなものになっている。どうやら、彼は榊原の事を覚えていたようだった。

「今はもう刑事ではありません。しがない私立探偵です」

「そうなんですか?」

「私も色々ありましてね。小三原さんもお元気そうで」

「えぇ。今は、広原先生の事務所で事務員をさせてもらっています。借金も広原先生に助けて頂いて何とかなりました」

 どうやら、小三原はあの事件の後、香月の父親の事務所に雇ってもらったらしい。

「今日はどうして?」

「いえ、香月さんが大きな大会に出るという事で、御多忙な広原先生から代わりに見に行ってやってくれないかと言われたんです。香月さん本人からも『ぜひ小三原さんには見に来てほしい』と」

「そうだったんですか……」

「あの、もう時間ですのでこれで。積もる話は後ほどにでも」

「えぇ。楽しみにしていますよ」

 榊原の言葉に対し、小三原は小さく頭を下げて慌てた様子でその場を去っていく。それを見送りながら、榊原はポツリと呟いた。

「人生塞翁が馬……何がどうなるかわからないものだよ」

「それは……先生も、ですか?」

 瑞穂の少し真面目な問いかけに、榊原は黙って微笑んだまま正面を見つめ続けていたのだった……。

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― 新着の感想 ―
[良い点] やったことは許されないけど、結果的に良かったと思いました。 ギリギリで踏みとどまれるって実は強い人だと思います。
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