表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/67

第三十八話 「物凄く痛い事件の話」

 その日、警視庁の通信指令センターから都内を巡回する全パトカーに緊急無線が入った。

『警視庁から各局! 警視庁から各局! 港区××のコンビニにて強盗事案が発生! 犯人は現金三十万円を奪った後逃走し、近隣のイベントホール駐車場に駐車中だった一般乗用車を強奪して逃走中! 付近走行中のPCパトカーは、至急、該当車両の確保に尽くされたし! 問題の車両のナンバーは……』

 その連絡を受け、別件の事件の聞き込みをようやく終えたところだった警視庁刑事部捜査一課第三係の新庄勉警部補と竹村竜警部補のコンビは、覆面パトカーの中で思わず顔を見合わせていた。

「コンビニ強盗だと?」

「くそっ! こっちの捜査はいったんお預けだ! 新庄、位置情報を聞いておいてくれ!」

 運転席の竹村はそう叫びながら車体の上に隠しておいた赤色灯を出し、けたたましくサイレンを鳴らしながらハンドルを切ると逃走車がいる方向へ向けて車を走らせ始めた。こう見えて竹村は交通課の白バイ隊員から捜査一課にのし上がったという変わり種の刑事で、それだけにこの手の車両逃走事件は彼の守備範囲であった。一方、助手席の新庄は無線で状況を逐一確認していく。

「捜一三係新庄から本部! 現在現場近くを走行中につき追跡任務に加わる! 逃走車の現在位置の詳細を求む!」

『本部了解。現在航空警察隊が上空より追尾中。逃走車は現在時速八十キロ前後で港区××のビル街と南へ向けて逃走中。もう間もなくそちらと接触する!』

「捜一了解! ……だそうだ!」

「わかった!」

 と、ここで追跡中の航空警察隊のヘリから割り込み無線が入った。

『こちら航空警察隊「はやぶさ二号」。間もなく該当車両がそちらのすぐ正面の交差点に右手から侵入する! 先程から何度も信号無視を繰り返しており非常に危険! 注意されたし!』

「了解!」

「さて、どんなやつが馬鹿やらかしてやがるんだ」

 竹村がそう呟いたまさにその瞬間だった。目の前の交差点を、航空警察隊の警告通りに赤信号を無視した乗用車が猛スピードで横切っていくのが見えた。間違いなく、問題の逃走車である。

 だが、その車体を見た瞬間、本来即座に追いかけねばならない竹村と新庄は一瞬唖然としてしまった。なぜなら、その車体には……。

「な、何だあれ……」

 車体自体は普通の黒い乗用車だった。だが、その車体にはどう考えてもこの場にはふさわしくないもの……すなわち、秋葉原の看板にでも描かれていそうなクオリティの高いアニメチックな女の子の絵が堂々と描かれていていたのである。それは、世間一般に言う、いわゆる「痛車」と呼ばれる代物であった。

「えーっと……」

 二人が呆気にとられている中、その痛車はあっという間に交差点を通り過ぎていき、かろうじて我に返った竹村が慌てて追跡を開始する。その直後、無線から至って真面目かつ真剣な声で本部からの通信が入った。

『改めて逃走車の特徴について伝達する! 逃走車は黒の乗用車で、車体全体に深夜アニメ「萌え!萌え!ドッキューン!!」のヒロインキャラクターのステッカーを張り付けている! 各追跡車両は発見次第徹底的に追跡し、当該車両を見失う事がないように! 繰り返す、逃走車両は「萌え!萌え!ドッキューン!!」の……』

「いや……むしろ見失う方が難しいと思うんだが……」

 何とも気勢をそがれた様子で、新庄は目の前で激しいカーチェイスを展開する、どこかあざといポーズの少女のアニメ絵を見ながら呆然と呟いていたのだった……。


「畜生! よりによってこんな車なんて!」

 一方の痛車の車内では、なぜか全身を真っ黄色に染めた強盗……本名・板井仁也いたいひとやが必死になってハンドルを切りながら毒づいていた。

 コンビニを襲って三十万円を奪ったまでは良かったものの、逃走しようとした矢先に店員から反撃を食らってしまい、アルバイトにあるまじき超絶コントロール技術を有していたそのコンビニ店員に店にあったカラーボールをすべて当てられてしまったのである。後でこの車の車内ラジオで聞いた話では、その店員は高校時代に甲子園出場まで果たした某強豪野球部の元エースピッチャーだったらしく、何でそんな奴が都内の片隅にあるコンビニでおとなしくバイトなんかやってるんだと、板井は自分の行為を棚に上げて神を呪ったりしていた。

 おかげで無茶苦茶目立つ格好で逃げる羽目になってあっさり駆けつけた警官に発見され、何とか逃げ込んだ近くのイベントホールの駐車場で車を奪おうとしたものの奪えそうな車がたまたまその時駐車場に入ろうとしていたこの痛車しかなく、やむなく降りようとしていた見るからにオタク風の運転手を殴り倒してさらに派手なこの車を強奪して泣く泣く逃走する羽目になってしまったのだった。正直、奪っておいてなんだが自分でもドン引きするほどの痛さを誇るこの車の外観に道行く人々どころか追いかけてくる警官たちでさえ若干引き気味の生暖かい視線を向けており、板井としては逃走を続ければ続けるほど自分の大切な何かが確実に減っていくような気分にさらされていた。自分がこの塗装をやったわけでもないのに、なぜか物凄く痛い気分になっていくのはなぜなのだろう……。

「あのオタク野郎、絶対に許さねぇ! 無事に逃げ切ったら、この痛車を徹底的にぶっ壊してあいつの脳天に叩きつけてやる!」

 理不尽な怒りの絶叫を車内に木霊させ、自動車は快調に都内の幹線道路を爆走しながら、その痛い外観をさらし続けていたのだった……。


 その頃、マスコミ各社も都内で発生したこの前代未聞の暴走事件をリポートし始めていた。某公共放送のベテランニュースキャスターが渋い声で事件の状況を淡々と説明する。

『……問題の車は、本日港区の××ホールで行われていた「萌え!萌え!ドッキューン!! 出演声優イベント」の来場者のもので、駐車場に入ってきたところを強奪されたという事です。襲われた運転手は幸い軽傷でしたが、警察は強盗容疑で「萌え!萌え!ドッキューン!!」のステッカーが貼られた問題の車両を追いかけています』

 一方、他の民放も負けてはいなかった。

『こちらは現場上空です! 今、私たちが乗るヘリの下に見える「萌え!萌え!ドッキューン!!」のヒロインキャラクター・朝戸伊代あさといよのステッカーが貼られた車が問題の逃走車両です! 自動車の放つ異様な雰囲気故なのか周囲の自動車は避けるよう運転をしており、今のところこの暴走による事故車両は存在していないようで……』


 同時刻、東京都品川区榊原探偵事務所。テレビから流れるニュースに、事務所の自称助手である深町瑞穂はあんぐりと口を開けていた。

「えーっと……何、これ……」

 ふと、デスクの方を見ると、事務所の主である榊原恵一は完全にテレビに背を向けて、黙って新聞を読みふけっていた。

「あの、先生?」

「……何だね?」

「この事件について何か言いたい事は?」

「別に。私には一切関係ない事だ」

 明確な拒否の姿勢に、瑞穂はこれ以上、この事件を話題にする事を断念したのだった。


「くそつ、どこまで逃げやがるんだ!」

 都内を暴走し続ける痛車を追尾しながら、竹村が舌打ちしつつ毒づいた。すでに逃走開始から三十分以上が経過している。もはや事故が起きていないのが不思議なレベルだが、マスコミで大々的に報じられている手前、今さら追跡を中止するという事はできなかった。

「……だんだん、あのニッコリ笑っている女の子の絵に殺意を覚えてきたんだが」

 新庄は車体に描かれているミニスカセーラー服姿のアニメチックな女の子の絵を睨みつけながら吐き捨てた。

「奇遇だな。俺もさっきからあの女の子の顔に銃弾の一発でもぶち込みたくて仕方がなくなってきている」

「その気持ちは同感だが、そういうわけにもいかない。とにかく今は追い続けるしかなさそうだ」

 そんな事を言っている間に、痛車はもう何度目かもわからない信号無視をして交差点に突入していく。と、その時交差点の左の方から、一台の大型観光バスが交差点内に進入して痛車の前をふさぐようにして急ブレーキをかけた。痛車が避けられるタイミングではない。

「危ない!」

 新庄は思わず叫んだ。と、痛車は反射的に右にハンドルを切り、横滑りをして左側面からバスの右側面に並ぶようにしてぶつかった。ガシャンという音とともに痛車左側面の窓ガラスが割れて車体がへこみ、同時に車内でエアバッグが開くのが確認できた。が、運転席の強盗は持っていたナイフで目の前のエアバッグに穴をあけて空気を抜くと、そのままアクセルを一気に踏んで交差点右手方向へ向かって急発進していった。竹村は停車したバスの間を巧な運転さばきですり抜けて右折し、同様にパトカーのアクセルを踏んで痛車の後を追いかける。

「至急、至急! 捜一から本部! ▲▲交差点に置いて逃走車と観光バスが接触事故! 逃走車はなおも逃走中につき、現在追尾中! 該当交差点に応援を頼む!」

『本部了解! 引き続き追跡を続行せよ!』

 その間にも、痛車は事故を起こしたとは思えない速度で暴走を続けていく。ぶつかった左側面の窓ガラスは完全に砕け、そこに描かれていた問題の絵の一部……具体的には女の子の顔の部分がちょうどなくなっているという何とも言えない構図になっていた。

「何だか、ある意味ますます痛い見た目になったな」

「早く楽にしてやろう」

 新庄たちがそんな会話を交わした……まさにその瞬間だった。突然、痛車の中から謎の大音響が響き渡り、二人は思わず前につんのめりそうになった。

「な、何だ! 何が起こった!」

 都内を猛スピードで走る痛車の車内から街中に鳴り響いた大音響。その正体は……

『萌え萌え~、ドッキュ~ン!』

 それは、可愛い女の子の声をした、その手のものに興味のない人間からすれば何とも形容しがたいポップなリズムをした『萌え!萌え!ドッキューン!!』のオープニングキャラクターソングそのものであった……。


「何なんだよ、畜生!」

 板井はほとんど半泣きになりながら、カーステレオを何度も殴り続けていた。どうやらさっきの事故のショックでカーステレオが故障したらしく、突然入っていたキャラソンのCDが最大音量で鳴り響き始めたのである。しかもなぜかそのまま操作が固定されてしまったようで、音量をいじろうが停止ボタンを押そうが一切操作が通用ないという状況だった。かくして、板井は滅茶苦茶恥ずかしいキャラソンを大音量で鳴り響かせながら痛車で街中を爆走し続けるという何かの罰ゲームのような行為を強要されていた。

「落ち着け……どうせ曲が終わったら止まるはず。それまで我慢すれば……」

 だが、ようやく曲が終わったと思ったら、急にCDが何か変な音を立てて、再び最初から同じ曲を流し始めた。どうやらループ機能で固定されてしまったらしい。つまり、板井が逃げ続ける限りこの曲は永遠に鳴り響き続けるという事だ。

「くそったれがぁ!」

 軽快な萌え声をバックに、板井の野太い絶叫が木霊した。


「イヤァァァァ!」

 そして同じ頃、都内の某スタジオで、一人の声優が絶叫を上げながら悶絶していた。有体に言って、彼女は『萌え!萌え!ドッキューン!!』のヒロイン・朝戸伊代役の声優であり、そして今都内に大音量で流れているキャラソンの声の主だった。彼女が見ている控室のテレビからは、彼女の歌うキャラソンをバックにした中継映像が全国ネットで流れ続けており、そこにアナウンサーがくそ真面目な声で実況を付け加えてくる。

『逃走車は▲▲交差点で観光バスと接触事故を起こしましたが現在も逃走しています。お聞きの通りなぜか意味不明のアニソンを大音量で流し続けながら都内各所を暴走し続けており、関係者の話によればこの曲は「萌え!萌え!ドッキューン!!」のオープニングソングでもある「萌えよ、乙女たち!!」という曲で、歌っているのは声優の……』

「やめて! 言わないで! 映さないで! こんな事で有名になんかなりたくない!」

 彼女の絶叫むなしく、テレビからは嫌に明るい彼女の声が延々と流れ続けていたのだった……。


 同時刻、榊原探偵事務所では瑞穂が先程以上に呆然とした顔でテレビを見ていた。

「先生、ますます痛い事になってきましたよ……」

「……」

「……あの、先生?」

「ん? あぁ、すまないね。うるさいから耳栓をしているんだ。で、何か用かね?」

「……いえ、何でもないです」

「何だったら、テレビを消してくれるとありがたいんだが」

 その言葉に瑞穂は素直にテレビを消したが、それでも外からかすかに全く同じメロディーが響いてくるのが聞こえてくる。逃走範囲が近隣なので、この辺りにも聞こえてくるようだ。

「全く、今日は厄日だ。しばらく耳栓をしておくから、用があったら机を叩いてくれ」

「はぁ」

 私も耳栓しようかな、と瑞穂はボンヤリとそんな感想を抱いていたのだった。

 

「……いい加減にしろよな」

 大音量でキャラソンを鳴り響かせながら逃走する痛車を追いかけるパトカーの中で、竹村がブチ切れ寸前の声でぼそりとそう呟いた。そして、それは新庄も同じだった。

「何回も聞いていると、あの曲が洗脳ソングか何かに聞こえてくるな」

「今日はあの曲が頭にこびりついて眠れなくなりそうだ」

 すでに車は港区から品川区へと入っている。そろそろ追いかける警察陣営の堪忍袋の緒が切れかかっていた。

「どうにかしてあいつを止める方法はないのか?」

「……了解しました。今、本部から連絡が来た。この少し先に大規模な検問を設置したそうだ。このまま直進してくれればそこで止められる」

「わかった!」

 それからしばらくして、検問の影響か渋滞が目立つようになってきた。必然的に痛車の速度も緩んでいき、いら立ったようにクラクションを鳴らすがどうにもならない。というか、そもそもアニソンの大音量でクラクションの音そのものがかき消されてしまっている状態だ。

「完全に停車したらすぐに確保しよう」

「あぁ」

 二人がそう簡単に打ち合わせをしたその瞬間だった。急に痛車は渋滞から外れると、そのまま歩道の方へアクセルをふかした。どうやらそのまま歩道を突っ切るつもりらしい。

「まずい!」

 新庄が反射的に叫ぶ。が、さすがに無理があったのか、痛車は歩道に乗り上げた際にバランスを崩し、そのまま近くの電柱に正面から派手にぶつかって停車した。直後、鳴り響いていたアニソンは一瞬停止したが、次の瞬間には再び大音量かつ高速で以下のセリフを垂れ流し始めた。

『萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え……』

「うるさい!」

 新庄と竹村は耳をふさいで絶叫するが、鳴り響く声はその絶叫よりも大きい。

 どうやら衝突のショックでオーディオがさらに壊れてしまったのか、変なところでループに入ってしまったようだった。おかげで「萌え萌え~、ドッキューン!」の「萌え萌え」の部分が何度も繰り返し流れているようなのだが、はっきり言ってゲシュタルト崩壊というか頭がおかしくなりそうだった。

「くそっ! どうにかしろ!」

「確保だ! 確保!」

 パトカーを降りた新庄たちが犯人を確保しようと痛車に向かって走り出そうとする。だが、犯人……というか、板井もおとなしく捕まるつもりはないらしく、いったん車外に出ると近くで耳をふさいでいた通行人の女子高生にナイフを突きつけて無理やり車内に引きずり込んだ。

「あいつ、人質を取りやがった!」

 幸いというか何というか、衝突でエンジンはかからなくなっているようなのでこれ以上あの車でこの場から逃走する事はできなくなっているが、事態はさらに悪化していた。

「本部、被疑者は通行人を人質に車内に立てこもった! 繰り返す、被疑者は通行人を……」

 新庄が無線に怒鳴り散らし、遅れてやってきた警官たちが周囲を完全に包囲し……


 ……そして、それから早くも三時間が経過していた。相変わらずビル街には『萌え萌え』の声が鳴り響き続けており、近隣住民たちから警察や区役所に大量の苦情が殺到していた。というか、取り囲む警官たちもまともにこれを聞き続けていたら精神的にやばい事になりそうなので、報告や会話の時以外は全員耳栓を着用し、一時間ごとに交代を繰り返すという方針を採用していた。まさに一種の音響兵器ともいうべき代物である。

 そしてそんな中、現場近くにたまたまあった音響スタジオの防音室の中に設置された前線本部の中で、刑事や特殊部隊たちが集まって対策会議を開いていた。

「ひとまず、あの音響兵器を止めるところから始めないと」

 新庄の言葉に、他の刑事たちは全員深く頷いた。それと同時に、本庁警備部から派遣されてきたSAT隊長の高橋正義警部が前に出る。

「近づく事ができない以上、あれを止めるには銃弾で遠距離から狙撃してオーディオを撃ち抜くしかない。それでどうだ?」

「この状況ですから反対はしませんが、具体的にどの辺を撃てばいいかわかりますか?」

「製造元から車の設計図は入手済みだ。それを精査した結果、ここを撃てばオーディオは止まるはずだという結論に達した」

 高橋が正面に張られた設計図で示したのは、正面ボンネットのある一点であった。そこに遠隔から撮影された実際の写真を重ね合わせると……。

「標的は、ボンネットに描かれた少女『朝戸伊代』のイラストの左胸の部分……端的に言って心臓のある辺りだ。彼女のハートを撃ち抜けさえすれば、この忌々しい声は永久に止まるって事だ」

 言っている事はかっこいいのだが、やろうとしている事はかなり過激である。だが、新庄をはじめ誰もが真剣な表情でこの作戦を検討していた。

「標的はかなり小さいですが、可能ですか?」

「うちの狙撃手の腕なら問題なく撃ち抜けるはずだ」

「いいでしょう。ですが、問題はいざ彼女のハートを撃ち抜いてオーディオが止まった後です。そうなれば犯人は確実に行動を起こすはず。その前に奴を確保し、人質を解放する必要があります」

 新庄の言葉に、隣の竹村も頷く。

「勝負は一瞬だな」

「配置を考える必要性がある。何としてもこの痛々しい事件を終わらせるぞ!」

 新庄の言葉に、誰もが重々しく頷いたのだった。


 同じ頃、榊原探偵事務所。

『萌え萌え萌え萌え萌え萌え……』

 外からかすかにあの音響洗脳兵器の音が聞こえてくる中、

「……」

「……」

 榊原と瑞穂は黙ってそれぞれの作業に没頭していた。具体的には榊原はデスクで依頼の報告書執筆、瑞穂は来客用の机で学校の宿題である。その耳にはしっかり耳栓がはめられていて、外からの音は二人には届かない。

「……」

「……」

 かつてないほど集中している二人のあずかり知らぬところで、事件は最終局面を迎えようとしていた……。


 それから一時間後、自動車正面のビルの屋上にライフルを構えたSATの狙撃部隊が配置についた。彼らは『萌え萌え』の声に顔をしかめつつも、黙って銃口を自動車のボンネットの方へ向ける。

 そこへ、高橋からの無線連絡が入った。

『確保部隊の配置が完了した。任意のタイミングで射撃を許可する。目標は朝戸伊代のハート。繰り返す、目標は朝戸伊代のハート! 何が何でも彼女のハートを撃ち抜け!』

「了解」

 狙撃手は冷静な声で短くそう返事すると、ゆっくりとスコープを覗き込んだ。やがてその視界にアニメチックな女の子の姿が現れてくる。

「目標、補足。標的、少女の左胸。狙撃する」

 そして小さく息を吐くと、次の瞬間、狙撃手は一気に引き金を引く。刹那、弾丸は音速以上の速度で両者の間の空間を突っ切り、見事ボンネットに描かれた少女の左胸を貫いた。

 直後、街に鳴り響いていたスピーカーがピタリと停止し、一瞬その場を静寂が支配する。

「確保!」

 次の瞬間、SATや刑事たちが拳銃片手に一斉に痛車目がけて殺到した。緊張に包まれた表情で痛車を包囲し、犯人を確保しようとする。だが、その前に先頭に立っていた新庄と竹村が拍子抜けしたような表情を浮かべた。

「これは……」

 痛車の内部に座る人影。だが、延々三時間もあの音量兵器を至近距離で聞き続けていたせいなのか、犯人も人質の少女も、そろいもそろって気絶してしまっていたのだった。全員が拳銃を下ろし、互いの顔を見合わせる。

「……まぁ、考えてみればそうなるよな。こっちは耳栓なんかなかったわけだし」

 竹村が気の抜けたように呟く。そのまま痛車のドアを開け、屈強なSAT隊員たちが犯人……板井の体を車外に引きずり出して刃物を取り上げる。そして、新庄がその両手に手錠をかけた。

「午後五時半、犯人確保を確認。ひとまず警察病院に搬送する」

 それからしばらくして救急車が到着し、板井は気絶したままストレッチャーに乗せられて病院に運ばれていった。一方、人質となっていた少女も車外に運び出される。幸い目立った外傷はないようだったが、なぜか時々呻き声を上げている。近づいて聞いてみるとこう聞こえた。

「も……萌え……萌え……」

 どうやら、彼女の頭の中ではまだ先程の音声が鳴り響いているらしい。結局、彼女もそのまま病院送りとなり、その後やって来たレッカー車によって、この大迷惑極まりない痛車は連行されていったのであった……。


「あっ、もうこんな時間」

 それから一時間後の午後六時半、榊原探偵事務所では瑞穂がそう言いながら耳栓を外していた。耳を澄ませても、特に変わった音は聞こえてこない。一方の榊原は相変わらず耳栓をつけたまま書類を書き続けていた。瑞穂は机を叩いて耳元で呼びかける。

「先生、もう大丈夫です」

「ん、そうかね」

 榊原は一言そう言うと、耳栓を外した。

「やっと静かになったな。まったく、迷惑な話だ」

 とはいえ、事件の顛末は気になるので、ひとまずテレビをつけてみる。すると、キャスターが深刻そうな表情でニュースを読み上げていた。

『本日、港区から品川区へアニメ「萌え!萌え!ドッキューン!!」のイラストが描かれたいわゆる「痛車」が暴走した事件に関し、警察は一時間ほど前に犯人と人質を確保しました。警察病院の発表によると、二人とも命に別状はないとの事です。警察は犯人が回復し次第、強盗など複数の容疑で逮捕する方針を固めており……』

「どうやら、無事に終わったようだ」

 榊原は深いため息をつくと、書類を片付け始めた。と、ここで犯人の顔写真がアップで映り、『板井仁也』のテロップが下に流れる。

「何か、名前まで痛い犯人ですね」

「まぁ、そういう名前の人間だって世の中にはいるだろう」

 と、続いて人質になっていた少女の情報が流れる。

『警察の発表によると、人質となった少女は都立立山高校の生徒という事で……』

「え、うちの学校ですか?」

 そのニュースに瑞穂が驚いた表情を浮かべた。立山高校は瑞穂の通っている学校である。ただ、未成年者かつ被害者である事もあってか実名は流れる様子はなかった。

「でもまぁ、こんな大事件だったら、明日にでも校内で噂になると思います」

「そうかね。まぁ、私には関係のない話だが」

 確かに、今回は珍しく榊原は事件に一切関与していない。ただ事務所で書類を書いていただけだ。

「たまには、こんな風に事件に関与しないでいられるというのもいいものだな」

「いや、それが普通ですから」

 ひとまず、この日瑞穂はそのまま事務所を後にし、二人にとっては何事もなく終わった一日となったのだった……。


 で、その一週間後、立山高校の教室で瑞穂は友人の磯川さつき及び西ノ森美穂の二人と話をしていた。

「じゃあ、先週の事件の人質って……」

「そう、六組の委員長さんだったんだって。真木駒子まきこまこさんって知らない?」

 この手の噂に強いさつきがあっさりとその正体を明かした。

「ごめん、あんまり聞いた事ない名前なんだけど」

「あの、私は委員長会議で見た事があります。物凄く真面目そうな人で、実際成績もトップ十以内に入っているんだとか」

 忘れがちだが、一応このクラスの副委員長でもある美穂がおずおずとそんな事を言う。

「そうそう。部活も心理学同好会っていう難しそうなところに入ってるんだって。何でも、あの辺にある予備校に行く途中で事件に巻き込まれたらしいよ」

「それは……何というかお気の毒に」

 瑞穂としてはそう言うしかない。

「あの、それで大丈夫だったんですか?」

「何でもあれから病院に検査入院していたらしいんだけど、今日になって退院してきたんだって。どんな様子なのかはまだわからないけど」

 と、そこでさつきが何かを思いついたような笑みを浮かべた。

「何だったら、見に行ってみる?」

「いや、そりゃまぁ気になるけど……」

 結局、何だかんだで三人は六組の教室へと足を運ぶ事となった。行ってみると、クラスの何人かが集まっている場所があって、その中心に問題の真木駒子が座っていた。少しやつれたような感じはしているが、思ったよりも元気そうで、話しかけてくるクラスメイト達にしっかりと返事をしているのが見える。

「何だ、思ったより普通だね」

「そうですね……」

 さつきと美穂の二人はひそひそと話し合う。だが、瑞穂はなぜか大きく首をかしげ、何事かを考えていた。

「どうしたの、瑞穂?」

「いや……何て言うか……何か違和感があるような……」

「違和感?」

「うん。それが何なのかまではわからないけど」

 その言葉にさつきと美穂がしげしげと駒子の方を見やる。

「……別に変った点は見つからないんだけど」

「私もです」

「うーん、何なのかなぁ……」

 と、ここで駒子は急に携帯に電話があったらしく、友人たちに謝って立ち上がると教室を出て入口の所で瑞穂たちとすれ違った。もちろん、面識はほぼないので特に挨拶もないままであったが、彼女が去って少しして瑞穂が声を上げた。

「あ、わかった」

「え、何が?」

「さっきの違和感。真木さんの机の上に出ていた筆箱なんだけど……」

「うんうん」

「先週の事件で暴走した痛車に描かれていた萌えキャラの絵だったような気がする」

 その言葉に、さつきと美穂は顔を見合わせた。

「いや、でもたまたま以前から使っていた可能性も……」

「それともう一つ。今、真木さん携帯を持って教室を出て行ったよね」

「まぁ、そうみたいだけど」

「ちらっと見ただけだけど、その携帯にやっぱり同じ女の子のキャラがぶら下がっていたように見えたんだけど……」

「……」

 三人の間に気まずい沈黙が流れる。

「その……何て言うか……深く考えない方がいいみたいね」

「か、帰りましょうか」

「その方がいいと思う」

 そう言うと、三人はそのまま回れ右をして教室へ帰っていったのだった。


 そして、ほぼ同じ頃。校舎裏の人目が付きにくい場所で、一人の男子生徒が欠伸をしながら手持無沙汰に誰かを待っていた。と、そこへ人目を忍ぶように一人の女子生徒が近づいてくる。

「ちょっと、急に電話をかけてこないでくれますか!」

 そう言って小声で怒るように言ったのは、何を隠そう真木駒子である。

「いや、手に入ったらすぐに知らせろって言ったのはそっちだろう」

 そう言って面倒くさそうに答えたのは、彼女と同じクラスに在籍しているゲーム研所属の一年生だった。

「そ、それより例のものは?」

「あぁ、約束通り持ってきたけどよ。尾西部長に色々無理を言って借りてきた。まぁ、布教するためって言ったら案外すんなり貸してくれたけど」

 そう言って男子生徒は彼女に紙袋を渡す。駒子ははそれをひったくるように受け取ると、中身を確認する。その中にあったのは……

「い、いよタン、かわいいっ!」

 中には、駒子が先週人質になった痛車に描かれていた萌えキャラ・朝戸伊代がメインの同人誌が大量に詰め込まれていたのだった……。

「しっかし、まさかあの堅物の委員長がそんなある意味個性的な趣味を持っていたとは……」

「言わないでください! 私にもなぜだかわからないんです! ただ、先週の事件の終わった後から彼女の声が頭から離れなくなってしまって、調べているうちにこう……大好きになってしまって……だって、とってもかわいいじゃないですか!」

 駒子は少し顔を赤らめながら言う。

「いや、まぁ……それはいいんだけどよ。委員長にも俗っぽいところがあるって知れただけでも充分だし」

「い、言っておきますけど、他の人には言わないでくださいね!」

「へいへい。俺も言うつもりなんかねぇよ。そんな事をしても意味ないし。それはそうと、それは尾西部長から借りているだけだから、読んだら返してくれよ」

「もちろん、わかっています。今度は自分で買いますから」

 そう言うと、駒子はいそいそと同人誌を袋にしまってその場を立ち去って行った。男子生徒は深くため息をついて、思わず空を見やった。

「まぁ、何というか……お後がよろしいようで」

 立山高校は今日も平和だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ