第三十四話 「酢入り小説」
「……何だこれは?」
開口一番、榊原が言ったのはそんな言葉だった。まぁ、それも無理がない話で、何しろ目の前には風呂場に横たわる異様な死体が転がっていたのである。
その死体は全裸で風呂場にたまる謎の液体につかるように横たわっていた。一見すると風呂場で溺れて死んだように見えるが、そうでない事は後頭部に残る傷跡ですぐにわかる。そして、何より異様なのは、その風呂場に死体を埋め尽くさんばかりの大量の文庫本が投げ込まれていた事である。無論、本は液体が染み込んで見るも無残な状態になっていた。
「被害者は健康食品会社社長の鎌崎健人、四十五歳。死因は後頭部強打による脳挫傷です。おそらく、後頭部を何かで思いっきり殴られたんだと思われます。死亡推定時刻は昨夜十時頃。今朝の十時頃に出社しない事を不審に思った被害者の部下が管理人と一緒に様子を見に来て遺体を発見しました。まぁ、そういうわけで……この現場を見たら、私が榊原さんを呼んだ理由もわかると思いますが」
後方に控える捜査担当の警視庁の斎藤警部が苦々しい表情で言った。榊原も渋い表情で答える。
「まぁな。ちなみに、この風呂に入っている液体は? ただの水じゃなさそうだが」
「検査の結果、酢だと判明しています」
思わぬ答えに榊原は訝しげな表情を浮かべた。
「酢……というと、調味料の?」
「そうです。彼は健康食品会社社長として、酢に関連した食品を多く販売していました。このマンションの室内にもそのサンプルとしてたくさんの酢が保管されていたようです。空の瓶だのボトルだのがキッチンの隅で見つかりましたよ」
「で、その酢が入った風呂に遺体と文庫本の小説を放り込んだって事か。これが本当の『推理小説』ならぬ『酢入り小説』だな」
「ギャグですめば私たちとしても笑うくらいの事はしたんですが、生憎これはギャグどころか現実的な殺人事件ですからね」
斎藤が厳しい目で遺体を見やる。
「念のため聞くが、健康志向の彼は酢の風呂に入る趣味でもあったのか?」
「関係者の話だと、そんなふざけた趣味はなかったようです。というより、酢風呂というのは体にいいんですか?」
「さぁね。だが、そうなるとこれは犯人が意図的にやったと考えて間違いなさそうだな。問題はその目的だが……この本はどこから?」
「室内の本棚にあったものを片っ端から放り込んだようです」
「もったいない事を」
と、そこへ斎藤の部下の新庄警部補が顔を出した。
「警部、聞き込みの結果、被害者はこのマンションの住人の何人かとトラブルを抱えていた事が判明しました。特に同じ階に住む三人の住人達とかなりもめていたようですね。それと、エレベーターホールの防犯カメラをチェックしましたが、被害者の帰宅から遺体発見までの間にこの階に出入りしていたのは、発見者の管理人と部下を除けばその住人三人だけです」
「つまり、その三人が最有力容疑者とみていいんだな」
「そうなります」
新庄はそう言うと彼らの詳細を報告し始めた。
「一人目は和木鉄二という体操選手です。次のオリンピックの体操の有力選手だった事もあり、被害者は同じマンションに住んでいるよしみもあって被害者のスポンサーになっていました。和木もその縁で、被害者の会社のCMに出演したりもしています。ところが先日和木が事故で怪我をしてしまって現役続行が絶望的になってしまい、今まで投資してきた支援金絡みでもめていたとの事です」
「事故というのは?」
「交通事故だそうで、自転車で走っていた時に自動車に轢き逃げされたそうです。所轄に問い合わせましたが、犯人は今も捕まっていないようですね。ただ、被害者は最近和木への支援を打ち切りたいと漏らしていたらしくて、彼が誰かに指示をしたのではないかという疑惑もあるそうです」
新庄は手帳をめくって次の情報を読み上げる。
「二人目は石持厳龍という彫刻家の老人です。企業がロビーなどに置いたりする彫刻作成を中心に活動していて、このマンションは作業場として使っているようですが、その縁でかつて被害者が彼の作品を購入した事があります。ところが、被害者はその作品をわざわざ人前で酷評して、それがきっかけで二人の仲は険悪化。石持は名誉棄損で被害者を訴え、この時は和解金としてかなりの額が石持に支払われています」
「どんな作品なんだ?」
「聞き込みの時に写真集をもらいました」
新庄が一冊の本を差し出す。見てみると大理石を使った彫刻が中心らしいが、何と言うか現代アートめいた作品が多くて、芸術には門外漢の斎藤たちにはよくわからないというのが第一印象だった。
「三人目は木高火月という推理作家です。デビュー当時こそ売れていましたが最近は下火の作家で、細々と活動を続けています。被害者は彼の長年のファンでよく廊下で話をしていたようですが、最近は調子に乗ったのか作品の内容にかなり口出しするようになっていて、木高としてはかなりうんざりしていたようです。つい最近も、廊下で作品方針をめぐって大喧嘩していたのを管理人が目撃しています」
「どんな内容の小説なんだ?」
「元はオーソドックスな探偵ものを書いていたんですが、最近はラノベ風の作品が多いみたいで、美少女三人組が数々の難事件に挑んでいく、というような内容らしいです。一冊冒頭部分を読んだ事がありますが、私は正直そこまで面白いとは思えませんでしたね」
ちなみに、と新庄は言い添えた。
「この酢風呂にも木高の作品が何作も放り込まれているみたいです。何か意味があるのかはわかりませんが……」
「そうか……」
そこまで聞いて、斎藤は榊原に向き直った。
「そんな感じらしいですが、この事件、榊原さんはどう考えますか?」
「……少なくとも、これが衝動的な犯行だという事はわかる」
榊原は現場を見ながら淡々とそう言った。
「その心は?」
「エレベーターホールに防犯カメラがある事は住民なら知っている事のはずだ。にもかかわらず、出入りが監視されていて容疑者が限定されるこの状況で犯行が行われている以上、計画的犯行の可能性はかなり低い。計画的犯行なら、容疑者が三人に限定されるこんな状況でそもそも犯行は行わないだろうからな。まぁ、その三人に罪を着せる事を目的とした外部犯による何らかのトリックを使った密室殺人だったというなら話は別だが……今回は現場の状況を見る限りその可能性は低いと判断する」
その上で、と榊原は言い添えた。
「犯人がわざわざこんな異常な犯行現場を成立させなければならなかった理由を考えれば、ある程度犯人を絞り込む事は可能だ。犯罪者は余計な事をしない。それでも余計な事をしていたのなら、それ相応の理由があるというのが私の持論でね」
「では、犯人が死体と本を酢漬けにした理由というのは?」
斎藤の問いに、榊原は逆にこう聞き返した。
「斎藤……酢の効能が何なのかを知ってるか?」
「……よく聞くのは『体が柔らかくなる』というものですが、あれは確か都市伝説の類だと聞いた事があります」
「あぁ、科学的には何の根拠もない話だ。私が言っているのは、もう一つの特徴でね」
そう言うと、榊原は小さく笑ってこう言った。
「いいだろう、ひとまず結論が出た。どうも行き当たりばったりの犯行らしいし、向こうもそこまで抵抗するだけの準備はできていないだろう。とりあえず、今から犯人を追い詰めに行くとしようか」
榊原は斎藤と共に容疑者三人のうちある人物の部屋のドアの前に立つと、ドアをノックして来意を告げた。相手は迷惑そうな表情をして二人を出迎えたが、捜査と言われては拒否する事もできず、二人を部屋の中に招き入れた。そして、そこから榊原の推理劇が幕を上げた。
「今回の事件で一番注目すべきなのは、鎌崎氏の遺体が酢で満杯になった風呂に叩き込まれ、その上部屋にあった書籍までもが放り込まれていたというこの異常な状況です。逆に言えば、この異常な状況の原因さえわかれば、今回の事件は比較的簡単に解決できると考えています。私が見るに今回の事件は明らかに衝動的な犯行……つまり計画的なものではありません。となれば、この異常な遺体の状況も計画的に行われたものではなく、犯行の際の何らかのアクシデントの結果発生したものだと考えるのが筋でしょう。では、そのアクシデントとは何なのか? そして、どんなアクシデントなら遺体を酢漬けにするような事態が発生してしまうのか? それを考えるには、そもそも酢とはどのようなものなのかを考える必要があります」
榊原の言葉を相手は黙って聞いていた。榊原は推理を続ける。
「酢の効能としてもっともよく世間に広まっているのは『酢で体が柔らかくなる』というものですが、これは科学的根拠のない都市伝説的な俗説に過ぎません。実際の効能としては、微生物の役割を抑えるなどというものがあります。酢飯などはこの効能を利用しているわけですが、それ以外にもう一つ……酢の効果として『貝殻や卵の殻を溶かす』というものがあるはずです」
その言葉に、相手は少しピクリと肩を震わせた。
「おそらく、小学生の自由研究か何かでやった事がある人も多いと思います。つまり、酢……というよりそこに含まれている酢酸は、特定の物質を溶かす効果が存在するのです。ではその物質とは何なのか? 貝殻と卵の殻……ここに含まれている物質を考えればこれは容易に答えが出ます」
榊原はいったん言葉を切ると告げた。
「それは『炭酸カルシウム』です」
相手は再び肩を震わせたが、榊原は言葉を緩めることなく推理を続行する。
「つまり、犯人が遺体を酢漬けにした目的は、遺体に付着していた何らかの炭酸カルシウム性の物質を溶かしてしまう事だったと考えられます。では、犯人はなぜそんな事をしたのか。それは、遺体に炭酸カルシウムが付着していると、自分が犯人だとすぐにわかってしまうからに他なりません。つまり犯人は、容疑者三人の中で唯一炭酸カルシウムに関係したものに携わっている人物……」
榊原は相手の名を鋭く告げた。
「石持厳龍さん……あなたが今回の事件の犯人です」
その言葉に相手……石持老人は厳しい表情で榊原を睨みつけていた。だが、榊原はひるむことなく話を続ける。
「あなたは彫刻家です。写真集を見た限り、作品の大半は大理石の彫刻でした。そして、大理石の主成分は石灰岩同様に炭酸カルシウム。当然、その石を使った彫刻の作成場所であるこの部屋には、彫刻によって発生した大理石の粉末が大量に存在しているはずです。もしこの部屋で殺人が行われたとするなら、遺体にはその粉末が大量に付着する事になるはずでしょう」
「わしがここで鎌崎さんを殺したと?」
石持は押し殺したような声で尋ねた。
「何度も言うように、この事件は衝動的な犯行である可能性が高い。何があったのかまではわかりませんが、おそらく被害者が何らかの理由でこの部屋を訪れ、そこで口論になって衝動的に相手の頭を殴って殺してしまった……といったところでしょう。で、このままこの部屋に遺体を置いておくわけにもいかず、被害者の部屋へ遺体を運び込んだ。先程の状況なら被害者は当然自室の鍵を持っているはずですから、侵入するのは容易です」
榊原は淡々とした口調で話を続ける。
「しかし、一つ問題があった。現場となったこの部屋には彫刻によって発生した大量の大理石の粉末が飛び散っていて、そこで倒れた被害者の遺体にもそれらの粉末が付着してしまっているという事です。もし被害者の遺体から少量でもそんなものが検出されたら、犯人があなたである事は一目瞭然。だから、あなたは遺体に付着した大理石の粉末を何とかして洗浄する必要に迫られた。しかし、水で洗い流すにしても完全に落とせるかどうかはわかりませんし、水風呂に入れてもその水や風呂場その物に大理石の粉末の痕跡が残ってしまう。粉末を根底から消去する方法は一つ……酢酸による化学変化で根本的に粉末を抹消してしまう事です。幸い、被害者の部屋には大量の酢のサンプルが置かれていた。あなたはそれらのサンプルを風呂場に注ぎ込むと遺体をそこに放り込み、遺体に付着した粉末を見事に除去したんです」
「ただの推測ですな。所詮は憶測に過ぎない。あるいは、誰かがわしに罪を着せるためにそんな事をしたのかもしれない」
石持は吐き捨てるように反論する。だが、榊原はひるまない。
「では、この部屋の本棚を調べさせてもらってもいいですか?」
「何?」
「問題の風呂場には酢の他に被害者の部屋の小説が放り込まれていました。何度も言うように犯罪者は無駄な行動をしません。では、この酢漬けにされた小説の意味は何なのか。捜査陣の目を酢漬けの小説の方へ向けて遺体を酢漬けにした本当の理由を隠すためという理由も当然あったでしょうが、それだけでは動機としては弱い。そして、犯行が衝動的なものであり、なおかつ死因が撲殺である事を考えれば、可能性はそう多くないでしょう。例えば……撲殺の際飛び散った被害者の血痕が、この部屋の本棚の小説に付着してしまった、とか」
その瞬間、石持の顔色が微妙に変わるのを斎藤は見た。榊原はここぞとばかりに畳みかける。
「あなたとしては現場がここだと知られないためにあんな事後工作をしているわけですから、この血痕つきの小説をそのままにしておくわけにはいきません。とはいえ、おいそれと適当に処理できるようなものでもない。そこであなたは、問題の本も酢風呂の中に一緒に入れ、それが自分の本だとわからないように被害者の本棚の本も全部酢風呂に放り込んだ。有名な『木を隠すなら森の中』という奴です。まぁ、何にせよあの酢漬けになった本を一冊一冊調べれば、いずれあなたの指紋がついた本が出てくるはずだとは思いますよ。さすがにすべてのページの指紋を拭き取れてはいないはずですから」
だが、さすがにこれに対しては石持も反論を用意しているようだった。
「残念だが、それは決定的な証拠にはならん。以前、あの男から何冊か本を借りた事があるから、その時付着した指紋かもしれん」
「仲が悪かったのに本の貸し借りをしていたんですか?」
「忌々しい事だがな。だが、事実だ。それを否定する事はあんたにもできないはずだ」
だが、それに対する榊原の解答は簡単だった。
「できる、といったらどうしますか?」
「……何だって?」
「なるほど、あなたの説明なら小説にあなたの指紋がついている理由は説明できます。では、被害者の指紋がついていない事についてはどう説明しますか?」
そう聞かれて、石持の顔色が大きく変わった。
「私の推理が正しければ、酢漬けになった小説の中から見つかるであろうあなたの指紋つきの本には被害者の指紋はついていない。本当はあなたの本なんですからつくわけがないんです。そうなればおかしな話ですね。貸した側の指紋が一切つかず、借りた側の指紋だけがつく状況とはどういう事なんでしょうか?」
「それは……あいつが指紋をつかないように本を扱っていた可能性だってあるじゃないか。それだけで私が犯人だと決めつけるのは無茶だし、第一まだ結果が出ていない事に対して推測だけで物を言われても……」
石持は苦しげにそう反論する。本人もかなり苦しいとは思っているだろうが、ここまでくればもう反論を積み重ねるしかないと腹をくくっているようだ。だが、それは榊原も想定済みの事のようだった。
「確かにあなたの言う通りですが、今言ったのはあくまで補足証拠に過ぎません。問題は、本に血がかかったという事は、殺害現場は本棚の近くであるという事。つまり、この部屋の本棚の近くに殺害の痕跡が残っている可能性があるという事です。事が撲殺である以上、おそらく床にも血は流れたはず。ふき取ってはあるでしょうが……ルミノール検査でもしてみますか?」
「それは……一度指を彫刻刀で切ってその辺で血を流した事があって……」
「それを含めて調べさせてもらいます。フローリングの隙間に少しでも血痕が残っていたら万々歳ですね。そこからDNA鑑定でもできれば、その場所で誰が血を流したのかなんてすぐにわかる事です。それに人を殴った場合、目に見えないような飛沫血痕が周囲に飛び散るものです。これらの血痕は表向き見えませんが、警察が調べればしっかりと検出できます。聞きますが、部屋に流れたすべての血痕を徹底的かつ完璧に洗浄できたという自信があなたにはありますか?」
「……」
「要するに、人一人殺したという痕跡は小細工程度でそう簡単に消せるものではないという事ですよ。今の段階で私が考えただけでもこれだけ証拠が出るんです。あなたに絞って捜査を進めれば、これ以上の証拠がいくらでも出てくるはずですが……まだ反論しますか?」
その瞬間、石持は何かに耐えるように体を大きく震わせ始めたが、しばらくすると不意に糸が切れたようにがくりと肩を落とした。
「やはり……行き当たりばったりで罪を逃れようなんて虫が良すぎたか……」
それは、事実上の自白であった。
「動機は被害者が再び石持の作品を酷評した事によるものでした。石持は最近都内に本社を置く老舗企業のロビーに飾られる彫刻を造ったんですが、これを被害者がネット上で酷評し、展示を見合わせる寸前までいっていたそうです。どうも和解金を支払わされたことに対する報復だったようですね。ネットの酷評は匿名だったそうですが石持は手口から被害者の手によるものだとすぐに見抜き、部屋に呼び寄せた被害者と口論になって反射的に撲殺してしまったという事です。」
あれから一時間後、一通りの事情聴取が済んだところで、連行されていく石持を見送りながらマンションの入口で斎藤が榊原に報告していた。
「ちなみに凶器は?」
「部屋にあった小さな彫刻だそうです。犯行後、粉々に砕いて例の酢風呂に放り込んで溶かしたと供述しています。もっとも、風呂場をよく調べたら溶かしきれなかった欠片が少量ではあるものの見つかっていて、ここからも石持の犯行を立証する事はできそうです」
「まぁ、そうだろう。粉末ならともかく、欠片となれば食酢ではかなり時間をかけないと溶けないはずだ」
「こう言っては何ですが、異常な現場に反して、何ともお粗末な犯人でした」
そんな斎藤の言葉に対し、榊原は少し真剣な声でこう言った。
「犯罪者は何も進んで異常な現場を作りたいと思っているわけじゃない。猟奇殺人でもない限り異常な犯罪にはそれなりの理由があるし、一見異常に見える事件の裏に実は至極人間臭い理由があったなんて事は普通だ。異常な事件だからといって犯人まで異常と考えるのは、その時点で犯人の罠にかかる事になるのかもしれないな」
榊原のその言葉に対し、斎藤は黙って頷くと深々と一礼したのだった。




