第三十三話 「サクラ」
季節外れの桜が泣いている。
三月も終わりに近づいたその日、例年に比べて二週間以上も早く開花した桜の花びらが舞い散る中、憎たらしいほどの快晴の中で僕は卒業証書の入った筒を片手に校庭を歩いていた。今日は僕の高校の卒業式……そして僕がこの高校に生徒として通う人生最後の日だ。
こうして学生服を着るのも今日が最後になるんだろう。僕は学生服に舞い落ちる花びらを払う事もせず、校庭の脇に並ぶ桜並木の中を歩いていた。他には誰の姿もない。他のクラスメイト達は校門の近くで最後のお別れだのなんだのをしているんだろうけど、僕にとってはどうでもいい事だ。
しばらく歩くと、僕は目的地に到着した。桜並木の一番奥……そこにある一際大きな桜の木。当然のようにその桜も満開の花びらで、まるで吹雪のように花びらを舞わせている。そして、その桜の幹にもたれかかるようにして、僕の目的の人は桜の下に座っていた。
「やぁ」
僕が声をかけると、ブレザー姿の彼女はゆっくりと目を開けて僕の方を見た。それは、一年前の四月にこの場所で最初に彼女と出会った時と同じだった。確か、あの時も今日と同じで前が見えないほどの桜吹雪だった。
一年前、当時ある事情で不登校だった僕は新学期と同時に心機一転して学校に来ようと思った。でも、結局教室に行く事ができず、どうする事もできずにとぼとぼとこの桜並木の中を歩いていた時……僕と同じで学校を抜け出してこの桜の木の下に座って目を閉じていた彼女に出会ったのだった。
僕と彼女はこの桜の下で話をした。彼女が僕と同学年で美術部に所属している事、他人と付き合う事があまり得意ではない事、入学以来この桜がモチーフとして気に入っていて、こうしてよくこの桜の木の下にいる事……不登校になって以来人と話す事がなかった僕にとって、彼女との会話は新鮮だった。
それ以来、僕は彼女とよくこの桜の木の下で会って話すようになった。この秘密のデートは誰にも気づかれる事なく続き、会うたびにとりとめもない話をしていた。他人から見れば何でもない事だったのかもしれない。それでも、僕にとってはこの何気ない時間がとても大切だった。
だけど、その秘密のデートも今日で終わりだ。僕が近づくと、彼女はニッコリと微笑んで立ち上がって僕の方に向き直った。花吹雪が舞い散る中、僕と彼女の間に会話はない。でも、それで充分だった。
「お別れだね」
僕がそう言うと、彼女は無言で頷いた。そして、そのまま満開の桜の木を見上げる。僕もつられてそちらを見ると、まるでそれに反応したみたいに花吹雪が一層激しくなった。
「……一年間、ありがとう。楽しかった。君も……元気で」
僕がそう言うと、彼女は少し寂しそうな表情を浮かべた。でも、すぐにまたニッコリ微笑んで僕に背中を向けた。そのまま、桜吹雪の中へ歩いて行き、しばらくすると彼女の姿は僕の視界から消える。何となく、もう二度と彼女に会う事はないんだろうという気がした。
一人残された僕は、最後にもう一度桜の木を見上げる。もう彼女はこの場にいない。そのまましばらく黙ってその事実を噛みしめていたら……不意に後ろから小さな足音がした。
彼女が帰って来たのか? 僕はあり得ないと思いながらも、少し希望を抱いて後ろを振り返った。
「一人かね?」
そこには、スーツを着た四十歳くらいの男が立っていて、ジッと僕の方を見つめていた。
僕がどう反応したらいいかわからないでいると、男は無造作に僕の隣まで歩いてきて、そのまま桜の木を見上げた。
「見事な桜だね。私も、ここまで立派な桜はそう見た事がない」
男は何気ない口調でそう言う。僕たちはしばらく無言で二人並んで桜を見続けていた。
「……並木幹也君、だね?」
突然、男は桜を見上げたまま、僕の名前を言った。
「どうして、僕の名前を?」
「まぁ、少しね。それより、君はこんなところで何をしているのかね? 今日は卒業式だったはずだが」
「……あなたには関係ない事です」
僕はそう答えていた。でも、男は何でもない風に言葉を続ける。
「そうかもしれないね。だが、卒業式の後にこんな場所で一人桜を見つめている少年というのはいささか不思議な光景なのも事実だ。気になるのも仕方がない事だとは思わないかね?」
「はぁ……」
「……失敬、気に障ったのなら謝ろう」
「……あなたこそ、こんなところで何をしていたんですか? 部外者は校内に立入禁止のはずですけど」
僕が聞くと、男は苦笑しながら答えた。
「いや、怪しい者じゃない。ちょっとした仕事でね。もちろん、学校の許可は取ってある」
「仕事って、整備業者さんか何かですか?」
「そういうわけではないんだがね。まぁ、それはともかく……つかぬ事を聞くが、この人物に心当たりはないかね?」
男は不意に何気なくそう言うと、ポケットから一枚写真を取り出して僕に見せた。そこに移っている人物を見て、僕は少しドキッとした。
そこに写っていたのは、ついさっき別れたばかりの『彼女』だった。
「……知りません」
僕は思わずそう答えていた。男はジッと何かを観察するみたいに僕を見ていたけど、すぐに温和な笑みを浮かべて写真をしまった。
「そうかね。なら、いいんだが」
「……その子がどうかしたんですか?」
「気になるかね?」
男が逆に聞いてきた。正直、気にならないと言えば嘘になる。だが、それを言う前に男の方から勝手に話し始めた。
「まぁ、ちょっとした調査でね。彼女、名前は桜原美絵というんだが、実はこの学校の生徒なんだ。美術部に入っていて、なかなかの腕だったらしい。ここまで聞いて、何か思い当たる事は?」
「……ありません」
「そうか。まぁ、それはそれとして、実は三日ほど前に彼女の母親から連絡を受けてね。彼女、父親はすでに亡くなっていて、母一人の母子家庭だったらしい。で、その彼女の母親に会ってみたところ、一つ頼み事をされた、と、こういうわけだ。私はそれを受けてこうして彼女について調べているわけだが……その頼み事の内容はこういうものだった」
男はいったん言葉を切ると、僕に対してこんな事を言った。
「『一年前に失踪した娘の行方を探ってほしい』。これが彼女が私にした依頼の内容となる。さて……何か意見はないかね、並木幹也君」
僕は男が何を言っているのかわからなかった。だって、僕は彼女と一年間ずっとこの桜の前で話をしていたわけだし、そもそも彼女はさっきまでここにいたじゃないか。
「意見も何も、意味がわかりません」
「ほう。どういう意味かね?」
「だって、一年前に同級生の誰かがいなくなったなんて、そんな話聞き覚えが……」
「ないだろうね。何しろ、その時君は学校にはいなかったはずだからな」
男のその言葉に、僕の警戒心は一気に高まった。
「何で……それを知ってるんですか」
「もちろん、調べたからだ。原因はその一ヶ月前に君がコンビニで万引きをした事が発覚して、自宅待機になっていたからだ。店側は訴えなかったようだが、その後の心理カウンセリングなどもあって学校に復帰したのは六月頃だったと聞いている。何か間違いでも?」
「それは……その通りですけど」
事実なので頷くしかない。あの時は勉強やクラスでの人間関係の悪化で頭の中が滅茶苦茶になっていて、思わず魔がさしてしまったのだ。でも、その間にも男は淡々と話を続けていく。
「彼女が失踪したのは昨年の始業式当日だった。始業式前のホームルームの時にはいたらしいが、その後どこかへ行ったらしく式には出席していない。まぁ、普段からそういう式をさぼる傾向があったらしくて当初は学校側もそこまで気にしていなかったらしいが、放課後になっても姿を見せなかった事から騒ぎになったそうだ。以来、今に至るまで消息不明になっている」
「……何で、そんな話を僕にするんですか?」
僕は思わずそう聞き返した。でも、男は僕を無視するように言葉を重ねる。
「君が言ったように、この学校は通常関係者以外立ち入り禁止だ。従って、彼女が校内で失踪し、その原因が第三者にあると考えた場合、犯人も校内の人間である可能性が高い。しかし、彼女が失踪したのは始業式の時間帯で、その時校内の人間は全員体育館に集合していた。この状況で犯人の可能性があるのは……当日学校を欠席していて表向き学校にいない事になっていた人間だけだ」
そう言って男は僕をジッと見つめる。僕はなぜかその視線に背筋が寒くなるような感触を覚えた。
「そんなの……僕だけじゃないはずです」
「その通りだ。実際、調べた結果、この日欠席していた人間は君を含めて六人存在した。さすがに警察も事件後にこの六人に話を聞いているが、君については応対した君の両親が『ずっと家にいた』と証言して、それ以上の追及はなかったようだ」
そう言うと、男は少し真剣な表情をしてこう続けた。
「だが、私はこの線が怪しいと踏んで、もう一度裏付け調査をしてみる事にした。すると、六人中五人についてはそれぞれが主張したアリバイの裏付けが確かに確認できた。明確なアリバイが確認できなかったのは……並木君、君だけだ」
「……」
「そこで君について突っ込んだ調査を行ったんだが……驚いたよ。君が学校に復帰する前の四月や五月の時点で、学生服姿の君が歩いているのを見たという目撃者が複数確認できたんだからね。どうやら、君は表向き家にこもっているふりをしながら、家族に隠れて勝手に外出をしていたようだね?」
「……だったら、何なんですか」
「君の両親が主張した『家にいた』というアリバイが意味をなさなくなるという事だ」
男は何でもない風に言った。その態度が、僕にとってはなぜか不愉快に感じられた。
「まるで……僕が彼女の失踪に関係しているって言っているみたいに聞こえます」
「実際の所、どうなんだね?」
男は僕の反論を否定しなかった。僕は思わずむきになって答えた。
「そんなわけがないじゃないですか。大体、彼女が一年前から失踪していたってところから信じられません」
「なぜだね?」
「なぜって……」
この男は僕をからかっているのだろうか。それとも、僕を動揺させて自分に都合のいい証言でも引き出そうとしているのだろうか。思わず僕はこう言っていた。
「だって、僕はさっきまでここで彼女と会っていたんですから」
その言葉に、男は急に押し黙ってしまった。僕はさらに言葉を続ける。
「今日だけじゃない。一年前からずっと……僕は彼女とこの桜の前で何度も話をしました。彼女はいつも楽しそうに僕と話していた。だから、彼女が一年前からいなかったなんて……」
「ちょっと待ってくれ」
男は不意に僕の言葉を止めた。その顔が妙に真剣になっているのを、僕は感じ取っていた。
「君がさっき彼女と会っていた、だって?」
「そうです。あなたが来る少し前に。彼女はにっこりと笑って……」
「君は何を言っているんだ?」
男は僕を鋭い視線で見据えながらそんな言葉を発した。
「何って……」
「今回の一件、先程示した推理から私は君が怪しいと考えていた。だからこそ、卒業式でこの校舎から去らねばならない今日を見計らって、私は君を尾行する事にした。そうすれば、君自身が『彼女』のいる場所に案内してくれると思ったからだ。そして、私の予想通り、君はこの桜の木の下に一人でやってきた。……私が見たのは、それがすべてだ」
「え……」
本気で意味がわからなかった。けど、男は容赦なくこう続けた。
「私は、卒業式の後に君がこの桜の前にやって来て、一人でこの木を見つめている場面しか見ていない。だからこそ『一人かね?』と声をかけた。私は、君のいう『彼女』の姿なんか見ていないんだ」
「……何を言っているんですか? 僕は間違いなく彼女と話して……」
だけど、男は首を振る。
「確かにここに来てからしばらく、君は何かブツブツと独り言をつぶやいているようだった。でも、それだけだ。君はここに来てから私が話しかけるまでの間に誰とも会っていない。第一、本当に彼女がいたなら、私がそれを黙って見ているわけがないだろう」
「でも……僕は確かに……」
「認められないなら証拠もある。この季節外れの桜吹雪のせいで、この辺の地面には大量の花びらが積もっている。だから、その上を歩いたら足跡が残るはずだ。現に、君の足跡と私の足跡はこうして残っている。だが……この場にあるのはそれだけだ。君の言う『彼女』の足跡なんかどこにもない」
男は厳しい口調で言う。だけど、僕はとてもそんな事を認められなかった。
「嘘だ……嘘だ、嘘だ、嘘だっ! 僕は……僕は確かに一年間、ここで彼女と……」
「……『彼女』が見つからないよう毎日ここに見張りに来ているうちに、自分がやった事から目をそらしたいという気持ちが働いて、いつしか『彼女』と話をしているように錯覚するようになった……そんなところか」
「違うっ!」
僕は必死に叫んだ。でも、思い出そうとすればするほど、なぜかあれだけ鮮明だった彼女と話した記憶が曖昧になっていく。こんなはずじゃない。こんな結末があっていいわけがない。それが僕の『卒業』になっていいわけがない!
僕は助けを求めるように周りを見回した。桜吹雪は相変わらず激しく吹き荒れている。でも、どれだけ目を凝らしても、そこに彼女の姿は見えない。僕はそれを否定したくて首を振りながら、思わず地面にはいつくばって必死に彼女の姿を探し求めた。
そんな絶望の中、僕の後ろで男がどこかに連絡を取っているような声が聞こえた。
「……榊原だ。あぁ、概ねの場所はわかった。すぐに来てくれ。場所は……」
それ以上、男の声は僕の耳に入ってこなかった……。
警視庁世田谷警察署捜査報告書
『本日、三月二十三日、世田谷区内の私立花草高校の敷地内にある桜の木の下より白骨化した女性の遺体を発見。DNA鑑定から、昨年四月より行方不明だった同校三年の桜原美絵と確定した。解剖の結果頸部圧迫の痕跡が認められる事から、死因は首を絞められたことによる窒息死と推定。死亡推定時期は失踪した昨年四月付近と推測される。本件に対し、当署は遺体を隠蔽していた容疑で同校三年の並木幹也を任意同行し、取り調べの結果殺害の疑いが濃厚になった事から逮捕に踏み切った。遺体の第一発見者で捜査協力者である私立探偵の榊原恵一氏の調査によると、被疑者は被害者が殺害されたと推測される昨年四月以降、毎日のように遺体の隠蔽場所である桜の木に通い詰めていた事実が浮上しており、また任意同行時も死亡した被害者と話していたと主張するなど不可解な言動が確認されている。以上より被疑者には精神錯乱の疑いがある事から今後精神鑑定が行われる見通しであり、詳しい犯行の状況及び動機については今後の捜査結果が待たれる次第である。なお、逮捕後被疑者は取り調べに対して黙秘を貫いており、早急な物的証拠の収集が求められるところである』




