第二十四話 「マッチ売りの少女 改」
ある雪の降る冬の夜、ある街の片隅で、一人の少女が寒空の下で寒さに震えながらも道行く人々に何かを差し出していた。
「マッチいりませんか……マッチいりませんか……」
少女は今にも消え入りそうな声でそう言ってマッチを差し出す。手に持っているのは何の変哲もないマッチ。だが、年の瀬の忙しい時期ゆえか、少女の相手をする通行人は誰一人いない。籠の中のマッチは、さっきから一個たりとも減っていなかった。
しかし、少女はそれでもマッチを差し出し続ける。家が貧しい彼女にとって、これが売れなければ何も食べる事ができない。なので、マッチを売るまでは帰る事ができなかったのだ。しかし、時間が経つにつれて人の姿は徐々に減っていき。ついには誰も通らなくなってしまった。雪が深々と降り続ける中、ついに少女は建物の陰で膝をついてしまった。
「寒い……寒くて死にそう……」
少女は手に息を吹きかけながら震える声でそう呟いた。もはや、体力的にも限界だった。誰もいない街で寒さに凍える少女の目は、自然と売り物のマッチへと向いていた。
「……ちょっとくらい……いいよね……」
少女はそう言うと、売り物のマッチを手に取って、その一本に火をつけた。わずかではあるが、彼女の手が暖まる。
「暖かい……」
少女がそう言った時だった。不意に少女の目の前に暖かそうな御馳走がゆっくりと浮かんできたではないか。驚いて少女がマッチから手を放すと、雪が積もる地面に落ちたマッチの火が消え、同時に目の前に広がっていた御馳走も消えてしまった。
「あ……」
少女はしばらく呆然としていたが、すぐに別のマッチを手にして再び火をつける。すると今度はキラキラ輝くクリスマスツリーの姿が浮かび上がった。
「きれい……」
だが、火はすぐに消えてしまう。少女はもう売り物である事も忘れて次のマッチに火をつけた。すると、そこには何年か前に亡くなってしまっていたおばあちゃんの姿が……。
「おばあちゃん!」
少女が呼びかける。が、火が消えておばあちゃんの姿も消えた。もう少女は必死だった。今度はマッチを束にして持ち、そこに火をつける。すると、さっきよりもさらにはっきりとおばあちゃんの姿が……
「おばあちゃぁん!」
少女はそのままおばあちゃんの懐へ飛び込んでいこうとし……。
「おい、君! そこで何をやっているんだ!」
突然、後ろからかけられた声に、我に返って思わず振り返った。そこには、スーツを着た二人の目つきが鋭い男たちが立っていたのであった……。
警視庁刑事部捜査一課所属の榊原恵一警部補と橋本隆一警部補は、この日別件の殺人事件の捜査でこの周辺をうろつきまわっていた。結局、事件に関するめぼしい情報がなかったのでいったん引き揚げようかという話になったのだが、なぜか榊原がここで頑固に「もう少し捜査を続行したい」と主張したため、あと一時間踏ん張ってみるかと捜査範囲を広げて捜査続行していたのだ。
結果、事件の手掛かりは見つける事はできなかったが、代わりに見つけたのは深夜のビル街の一角でマッチに火をつけながら何やらブツブツ一人で呟いている怪しい少女の姿だった。はた目から見てみればどう考えても怪しい人間に他ならず、客観的な意見を言ってしまえば「ビルに放火をしようとしている少女の図」にも見えない事もない。いずれにせよ、刑事としてはこれを見過ごすわけにもいかず、今まさに大量のマッチに火をつけてどこぞへ突っ込んでいこうとしている少女に反射的に声をかけたのだった。
「え、あ……」
まさか声をかけられると思っていなかったのか、少女は目を白黒させながら手に持っていたマッチの束を落とした。マッチは地面に落ち、そのまま途中で消えてしまう。寒さに震えながらマッチに火をつけている少女。それは刑事の榊原から見ればあまりにも異常すぎる光景だった。
「君、こんな時間でこんな場所で何をしているんだ?」
榊原は慎重にそう声をかけた。少女は一瞬逃げようとする素振りを見せたが、手足がかじかんでいてもはや逃げる事もできないらしい。
その間に、橋本が本部に報告を入れていた。
「こちら橋本! 新宿区代々木公園近くのビル街で放火未遂と思しき少女一名を保護! 応援を頼む!」
何にせよ、状況から見てこのままでは彼女は凍え死んでしまう。今は彼女の命を守るのが第一である。榊原はゆっくり彼女の下へ近づくと、着ていたコートを彼女に羽織らせた。
「とにかく、どこか暖かい場所に行こう。ここにいたら凍えてしまう」
その瞬間、彼女の目からひとりでに涙が流れ出て、泣き声が深夜のビル街に響き渡った。
一時間後、駆け付けたパトカーの後部座席で少女は榊原が買ってきてくれたコーンポタージュの缶ジュースを飲んでいた。すでに他にも数台のパトカーが駆け付けていて、彼女がマッチを使っていた辺りを調べている。雪の勢いは激しくなっていて、あのままあの場所にいたら冗談抜きで死んでいたかもしれない。冷静になった頭でそれを考え、少女は身震いしていた。
「さて、ひとまず君の名前を聞かせてくれるかね?」
少女を挟むようにして同じく後部座席に座っている榊原と橋本のうち榊原がそう尋ねた。少女は小さな声で自分の名前を告げた。
「……なるほど。では、改めて聞くが、あそこで何をしていたんだね? 状況から見るに、どうも放火ではないようだが……」
少女は自分がマッチを売っていた事、寒さでマッチに火をつけて暖を取っていた事、その際、御馳走やおばあちゃんの姿が浮かんできた事などをありのままに話した。榊原はそれを聞いてしばらく考えていたが、やがてこう尋ねた。
「君にこんな事をするように言ったのは誰かな? お父さんやお母さんかい?」
少女は首を振った。彼女の父母はもういない。母は彼女が子供の頃に亡くなり、父親も男手一つで彼女をずっと育てていたが、先日病気で亡くなっていた。その際、父が養育費のために借金をしていた消費者金融の男たちがやってきて、生活費を稼ぐために彼女にマッチを売る事を強要したのである。そうすれば、少なくとも一ヶ月分の生活費は確保できるはずだった。
「今時マッチを売るように強要する、ね……。これは何かあるな……」
榊原がそう言った時だった。パトカーの外から所轄の刑事の一人が緊張した様子で窓をノックした。榊原が窓を開けると、真剣な様子で報告する。
「えらい事になりました」
「何ですか?」
「地面に落ちていた燃え残りのマッチを簡単な成分検査したんですが、マッチの芯に新型の幻覚剤が染み込んでいました。いわゆる脱法ドラッグの類です」
その言葉に榊原の表情も緊張する。
「確かですか?」
「えぇ。ここ数日、この界隈で流通し始めたやつです。私たちも警戒していていたんですが、それでも拡散が止まらなくて困っていたところなんですよ。供給元も拡散方法もわからなかったものでしてね」
「マッチに染み込ませて商売になるんですか?」
「多分、マッチに火をつけると幻覚剤が気化する仕組みでしょう。燃やす事で完全に気化するタイプなんで、マッチが燃え残っていたのはラッキーでした。もし全部燃えていたら検出は不可能だったはずですから」
「そうか、彼女が見た幻覚は……それなら全部辻褄が合うな」
榊原は深く頷くと、少女にこう問いかけた。
「君にマッチを売るように言った消費者金融会社の名前はわかるかい?」
少女がその会社の名前を言うと、榊原はその刑事に話しかける。
「今の会社の名前に心当たりは?」
「確か……最近この界隈に進出してきた火町組っていう新興暴力団のフロント企業ですね。新興組織なのに資金が潤沢で、どこから資金供給しているか内偵中だったんですが……もしかして、こいつが収入源ですか?」
「そのようですね。しかも、子供に配らせるなんて手が込んでいる」
榊原は声を潜めた。
「これでそいつらを検挙できますか?」
「証拠は充分です。ただ、奴らは武装している可能性が……」
「一刻を争います。必要なら機動隊なりに声をかけてもいい。このまま放置していたら彼女以外にも被害を受ける子供が出るかもしれない。それだけは避けないといけません」
「ですね。わかりました。署長に相談してみます」
そう言って刑事は慌ただしく駆けて行った。榊原は窓を閉めると、橋本を見やる。
「そういう事だ」
「……どうやら、とんでもない当たりくじを引いたらしいな」
二人の会話に、少女は困惑した表情でキョトンとしていた。
それから数時間後、すっかり日が明けた午前八時頃、新宿区内にある雑居ビルの周囲を完全武装した刑事たちが囲んでいた。その中には榊原や橋本の姿もあり、スーツの内側には防弾チョッキを着こんでいる。
「これより、火町組に対する強制捜査に移ります」
指揮を執る捜査四課の刑事の言葉に全員が頷く。それを合図に、その刑事が事務所のドアをノックした。
「警察だ! 家宅捜索の令状が出ている! ここを開けろ!」
その直後だった。突然ドアの向こうから銃声が響き、ドアのガラスが砕け散った。
「発砲確認! これより強制制圧に移る! 全員突入!」
次の瞬間、刑事たちがドアを蹴破って事務所内に突入し、新興暴力団との激しい銃撃戦が展開されたのだった……。
「……で、どうなったんですか?」
それから十数年後、品川の街を歩きながら、高校生・深町瑞穂は警察を辞めて私立探偵になっていた榊原に興味津々という風に問いかけた。
「一時間以上にわたる銃撃戦の末に、組長を含む火町組構成員全員を逮捕。事務所内から大量のマッチ型幻覚剤が発見された。奴らはフロント企業の消費者金融を通じてこのマッチを無作為に配り、麻薬常習者を増やして荒稼ぎしていたらしい。とはいえ、調子に乗ってあんな小さな女の子にまで仕事をさせたのが運のつき。我々にトリックを暴かれ、組織そのものが根こそぎ潰される羽目になった。当然、フロント企業の消費者金融も摘発されたよ」
「マッチを売っていた少女から行きつくところまで行っちゃいましたねぇ」
瑞穂が遠い目をして言う。
「で、その子は結局どうなったんですか?」
「会社そのものが違法だったから、父親の借金はなかった事になった。そもそもこの場合、相続放棄をすれば親の借金を子供が受け継ぐ事もないわけで、奴らはそれを説明する事もなく彼女に麻薬売買の片棒を担がせていた事になる。その後はどこかの児童養護施設に入ったと聞いているが……あれから十年、どこで何をしているのやら」
と、榊原がそんな事を呟いた、その時だった。
「マッチいりませんか?」
突然、そんな言葉と共に目の前に何かを差し出され、二人はギョッとしたようにその差出人を見やった。そこには、二十歳前後の若い女性がにっこり笑いながら立っていた。
「ごめんなさい、驚かすつもりはなかったんです。……お久しぶりです、刑事さん」
「えっと、君は……」
思わず問い返そうとする榊原に対して、女性は朗らかに笑いながら手に持っていたものを黙って差し出した。改めてよく見ると、それはマッチではなく何かのバッジだった。ヒマワリをかたどった新品のバッジ……弁護士バッジである
思わず顔を上げた榊原に対し、女性ははきはきとこう告げた。
「私、念願かなって弁護士になる事ができました。児童問題専門の法律事務所に勤務する事になっています。今度は、私が困っている子供たちを助ける番です。今日は短いですけどその報告に……。それじゃあ、またいつか会える日まで」
そう言うと、彼女は小さく頭を下げて去っていった。それを見ながら瑞穂は唖然とした様子で呟く。
「今の人って、もしかして……」
「偶然というのはあるものなんだな。元気そうで何よりだ」
そんな彼女を見送りながら、榊原は小さくこう呟いていた。
「ま、何にせよ生きていたよかった。あの時、捜査を切り上げずに続行して本当によかったよ」




