第二十三話 「マッチ売りの少女」
ある雪の降る冬の夜、ある街の片隅で、一人の少女が寒空の下で寒さに震えながらも道行く人々に何かを差し出していた。
「マッチいりませんか……マッチいりませんか……」
少女は今にも消え入りそうな声でそう言ってマッチを差し出す。手に持っているのは何の変哲もないマッチ。だが、年の瀬の忙しい時期ゆえか、少女の相手をする通行人は誰一人いない。籠の中のマッチは、さっきから一個たりとも減っていなかった。
しかし、少女はそれでもマッチを差し出し続ける。家が貧しい彼女にとって、これが売れなければ何も食べる事ができない。なので、マッチを売るまでは帰る事ができなかったのだ。しかし、時間が経つにつれて人の姿は徐々に減っていき。ついには誰も通らなくなってしまった。雪が深々と降り続ける中、ついに少女は建物の陰で膝をついてしまった。
「寒い……寒くて死にそう……」
少女は手に息を吹きかけながら震える声でそう呟いた。もはや、体力的にも限界だった。誰もいない街で寒さに凍える少女の目は、自然と売り物のマッチへと向いていた。
「……ちょっとくらい……いいよね……」
少女はそう言うと、売り物のマッチを手に取って、その一本に火をつけた。わずかではあるが、彼女の手が暖まる。
「暖かい……」
少女がそう言った時だった。不意に少女の目の前に暖かそうな御馳走がゆっくりと浮かんできたではないか。驚いて少女がマッチから手を放すと、雪が積もる地面に落ちたマッチの火が消え、同時に目の前に広がっていた御馳走も消えてしまった。
「あ……」
少女はしばらく呆然としていたが、すぐに別のマッチを手にして再び火をつける。すると今度はキラキラ輝くクリスマスツリーの姿が浮かび上がった。
「きれい……」
だが、火はすぐに消えてしまう。少女はもう売り物である事も忘れて次のマッチに火をつけた。すると、そこには何年か前に亡くなってしまっていたおばあちゃんの姿が……。
「おばあちゃん!」
少女が呼びかける。が、火が消えておばあちゃんの姿も消えた。もう少女は必死だった。今度はマッチを束にして持ち、そこに火をつける。すると、さっきよりもさらにはっきりとおばあちゃんの姿が……
「おばあちゃぁん!」
少女はそのままおばあちゃんの懐へ飛び込んでいった……。
……翌日早朝、街角の一角で、少女はマッチの燃えカスを抱えながら冷たくなっていた。しかし、その表情はどこか嬉しそうに微笑んでおり、この少女が幸せな気持ちで天国に旅立っていった事は明白だった。
そして……
『警視庁から各局! 新宿区代々木公園近くのビルの裏手にて少女の不審死体発見の通報あり! 事件性がある可能性がある! 付近を警邏中の捜査員、及び捜査一課は至急現場に急行せよ!』
遺体発見の数十分後、近隣所轄や捜査一課のパトカーが遺体発見現場となったビルに押し掛け、大人数の刑事たちによる初動捜査が始まっていた。
無線連絡を受け、警視庁刑事部捜査一課に所属する榊原恵一警部補と橋本隆一警部補の二人が現場に駆け付けたのは、遺体発見から一時間後の事だった。先着していた所轄署の刑事が敬礼する。
「お疲れ様です!」
「状況はどうなっていますか?」
榊原が現場へ向かって歩きながら初動捜査の刑事に尋ねる。
「被害者は十歳前後と思しき少女。身元は不明。詳しくは解剖待ちですが、検視官の報告では死因は凍死。それ以外に外傷はありません!」
「行き倒れ、という事ですか?」
「現状ではその可能性が高いのですが、ただ、その死に様が異常でして……」
そうして案内された遺体を見て、橋本と榊原はギョッとした表情を浮かべていた
「こ、これは……」
「ご覧の通りです。被害者の周辺には大量に燃やされたマッチが散乱しており、まるで何かに火をつけてようとして失敗したかのようです。おまけにその死に顔が……」
「これは……笑っている?」
橋本が不気味そうに言う。
「ただの行き倒れの死体にしてはあまりにも状況が不自然です」
「確かに……わずか十歳前後の少女がマッチを周りに巻き散らかしながら笑って死んでいるなんて、その辺の推理小説にも出てこないような猟奇的状況ですね」
榊原が遺体を見ながら物凄く真剣な表情でそうコメントする。そして所轄署の刑事も大きく頷いてそれに全面的に同意した。
「えぇ、どう考えても普通じゃありません。この光景を小説なりに書ける奴がいたら、そいつはひどい神経の持ち主だと思いますよ。ただ、現場周辺には彼女以外の足跡は確認されませんでした」
「行き倒れというのは本当かもしれないな。だが、百歩譲って行き倒れだったとしても、その裏に何かあったのかもしれない。何にせよ、幼い子供が物語にも出てこないような悲惨極まりない状況で死んでいる以上、殺人でなくても放ってはおけないぞ」
橋本はそう呟くと、厳しい表情で彼女の遺体を見やった。
そうこうしているうちに、遺体は担架に乗せられて運ばれていき、遺体のあった場所にはチョークで人形が書かれた。これから少女の遺体は法律に従って不審死体として司法解剖に回される事になっているのである。現状では遺体の状況はよくわからないが、ベテランの監察医によって彼女の体は徹底的に解剖されて、その詳しい死の状況を解析される事になるだろう。
榊原はいったん大きく息を吸うと、大声で指示を出した。
「まずは周囲に巻き散らかされているマッチの調査と、目撃証言の収集! 次に身元の特定だ! 衣服や持ち物などの遺留品から何かわかるかもしれない。念のため指紋も鑑定に回せ!」
「了解!」
刑事たちの動きが一気に慌ただしくなった。
「……で、どうなったんですか? 何だか、どこかで聞いたようなデジャブを感じる事件でしたけど……」
それから十数年後、品川の榊原探偵事務所内。警察を辞めて私立探偵となった榊原は、自称助手の女子高生・深町瑞穂からそんな質問を受けた。
「あぁ、結局その後彼女の死そのものは寒さによる自然死だと判断された。ただ、目撃者の証言などからどうもマッチを売っている途中に行き倒れた可能性が高くなって、当然彼女にそんな事をさせていた連中の事は問題になってね。警察も必死でそいつらを追ったんだが、結局彼女の身元がわからなかった事もあって逮捕まではいかなかった。周囲に散らばっていたマッチも完全に燃え尽きていて成分分析もできず、あの笑顔の意味も謎のまま。何にせよ、結果的に殺人じゃなかったから一課所属の私は深くは関われなくてね。結局、あまりたいしたこともできないまま捜査本部を離れる事になった。記録だけはそうして残してあるがね」
「先生が関わっていて解決しなかった事件っていうのも珍しいですね」
「今も個人的に調べてはいるが、あまり思わしくない。ただ、一つ心残りな事があってね」
「なんですか」
「実はね……彼女が死んだ夜、私はあの現場の近くにいたんだ」
榊原は少し悔やむように言った。瑞穂は驚いた表情をする。
「え、そうだったんですか?」
「別件の捜査でね。橋本と一緒にあの辺をうろついていた。だが、大した収穫もなかったものですぐに引き上げてしまったんだ。もし、もう少し捜査を続行していたら……彼女を発見できて、彼女を死なせることもなかったかもしれない」
「それは……結果論だと思いますけど」
「わかっている。だが、それでも私としてはこう思わざるを得ないんだ。もし私が彼女を見つけていたら……あの事件はどう変わったのか。そして、その後彼女にはどんな人生があったのかってね」
そう言いながら、榊原は黄昏気味にこう呟いたのだった。
「願わくば……あの時の私にもう少し捜査を続けろと言ってやりたいものだ」




