第十九話 「女子更衣室の出会い」
亀村一郎は周囲をキョロキョロ見渡すと、ゆっくりとその建物へ向かって歩き始めた。その視線の先にあるのは、この辺では有名な女子高校の校舎である。いつもなら多くの生徒たちでにぎわっているのであろうが、休日である事もあってか校内に人気はない。亀村は校舎の校門の前で一度止まり、改めて周囲に人影がないのを確認すると、にやりと笑って校内へと入っていった。そのまま勝手知ったる風に敷地の中を歩いていき、やがてその視界の先には校舎の一番奥にある施設……プール近くの更衣室が見えてきた。
今までの行動で大体わかるとは思うが、この亀村という男はいわゆる下着泥棒というやつである。主に女子高の更衣室を狙い、今までに全国各地で何度も下着泥棒を繰り返してきた常習犯でもある。そのくせ下調べがうまいせいなのか今まで一度も当局の捜査網に引っかかった事がなく、警察の中では「伝説の下着泥棒」という偉大なのか何なのかよくわからない異名をつけられてしまっている。
さて、そんな亀村が今回狙ったのは、全国有数の成績を誇る水泳部を持つこの女子高校のプールの更衣室である。事前の調査で、この日は水泳部の何人かのメンバーが自主練のためにプールを使用している事がわかっていた。時間は朝の十時から十二時までの二時間。逆に言えば、その間には更衣室には誰もおらず、なおかつ確実に下着を狙えるというわけだ。さらに運がいい事に、この学校のプールの更衣室はプールから死角になる場所にあり、侵入しやすいという利点を持っていた。
さすがに更衣室に鍵はかかっているようだったが、亀村は勝手知ったる風にあらかじめ作っておいた合鍵を差し込むと、そのままゆっくりとドアを開けて中に入った。もちろん、内側から鍵を閉めるのを忘れない。
更衣室に入ると、薄暗い中にいくつものロッカーが並んでいるのが見える。が、亀村はその中の一つ……一番奥にあるロッカーの前に立った。ロッカーには「中浦流子」の文字が見える。ここの水泳部のエース格の存在で、確か今年の大会では関東大会のクロールで見事に優勝していたはずだ。それだけに、亀村にしてみれば彼女の下着は物凄い貴重品だったりする。
もちろんロッカーに鍵はかかっていたが、亀村はこちらもあらかじめ作っておいた合鍵を使って鼻歌を歌いながら開ける。そして、中に丁寧にたたまれている彼女の衣服を物色すると、お目当ての下着を回収してすぐに扉を閉めて鍵をかける。鑑賞は家に帰ってからでもできる。現場での仕事は迅速に。それが亀村の(悪い意味での)モットーだった。
さて、亀村は次にそのすぐ近くにある別のロッカーに目をつけた。そこに書かれている名前は「花笠美波」。中浦流子のライバル的存在で、こちらはバタフライで全国大会の切符を手にしているはずである。それ以上に美人でもあり、下着泥棒以前に亀村は個人的に彼女のファンでもあった。亀村は先程と同じように扉を開け、中にある彼女の衣服を確認する。そして、興奮気味に少し震える手で下着を物色しようと一番上のセーラー服に手をかけようとした。
と、まさにその瞬間だった。不意に入口のドアの鍵が開く音がした。
「っ!」
亀村は手を止め反射的に腕時計を確認した。現在午前十一時。本来なら誰も来るはずのない時間帯である。だが、現に鍵が開けられている以上、このままここにいるのはまずい。とはいえ、唯一の出口がドアである以上、逃げ出す事は出来ない。
亀村の判断は一瞬だった。即座に花笠のロッカーを閉めて鍵をかけると、そのまま隣の空きロッカーを開け、その中に入って内側から鍵を閉めたのである。小柄な亀村は何とか中に入る事ができ、息を殺して成り行きを待つ。やがて、ロッカーの外で誰かが更衣室に入ってくる音がした。
「まったく、練習中に何の用よ」
声が聞こえた。その声に亀村は心当たりがあった。先程物色していたロッカーの主である中浦流子である。どうやら、いかなる理由か練習中に戻って来たらしい。なぜ彼女が戻って来たのか亀村にはさっぱりわからなかったが、その直後に別の人間の声が聞こえた事でその疑問は氷解した。
「ごめんなさい。でも、どうしても話しておきたい事があって」
聞き間違いようがなかった。それは亀村自身もファンである花笠美波の声である。状況から考えるに、どうも美波が練習の途中で流子を更衣室に呼び出したようであった。しかし、一体何の用で。亀村は当初の目的も忘れ、ロッカーの外の声に聞き耳を立てていた。
「で、話って何なのよ」
「……あの噂、本当なの?」
その場が一瞬静まり返る。一方、亀村にしてみれば何の話かわからず、ただただ聞き耳を立てるしかない。しばらくして、流子が押し殺したような声で発言した。
「何の話?」
「とぼけないで。あなたが更衣室の女の子たちの姿をこっそり隠し撮りして売りさばいているんじゃないかって噂よ」
亀村は思わず飛び上がって驚きそうになった。もっとも、ロッカーの中ではそんな事は無理だし、やれば間違いなく気付かれてしまうので手で口を押える程度にとどめたが、それでも「あの中浦流子がそんな事を!」という衝撃を、亀村は受けていたのである。もっとも、今現在の亀村の状況を思えば「お前が言うな!」という突っ込みがどこからか聞こえてきそうなものだが、それはとりあえず置いておくとして亀村はますますロッカーの扉に耳を押し付けた。
案の定、流子は認める気がないらしい。
「は? 何の話よ。私そんなの知らないわよ。まさか、そんなくだらない話をするためにここに呼び出したの?」
だが、追及する美波は一歩も引く気がないようだった。
「じゃあ、これは何なのよ」
何かがガサゴソと動く音がする。どうやらビニールか何かを取り出したようだ。途端に、その場の空気が変わるのを亀村は感じ取った。
「どこでそれを……」
「あなたが一番よく知っているでしょう。この部屋の空きロッカーに隠してあるのを見つけたわ。うまく細工して外の映像を隠し撮りできるようになっていたけど、昨日のうちに撤去しておいたのよ。この部屋のロッカーのマスターキーを持っているのは、確か部長のあなただけよね」
「危ねぇ!」と亀村は内心で冷や汗をかいていた。盗撮カメラなど完全に予想外だ。ここに侵入する姿が一日でも早かったら、自分の姿がばっちり盗撮カメラに写っていた事になる。だが、そんな亀村をよそに、外の空気はますます緊迫していた。展開自体もどんどんシリアスになりつつある。
「……ふぅん、そこまでわかっているんだったら、何でそのカメラを先生に渡さないの?」
流子がそう言ってふてぶてしく笑うのを亀村は聞き取っていた。そして、それに対する美波の言葉にも、亀村は耳を疑った。
「私は別にあなたが盗撮をしようがどうしようがどうでもいいの。でも、私の姿まで撮影されているのはたまったものじゃないわ。だから、今までに撮った私の映像を全部渡して。もちろん、コピーも含めて全部。それで私は何も見なかった事にするわ。どう?」
とんでもない発言だった。自分さえ良ければ他の利用者がどうなってもいいと言っているのに等しい。亀村の中で彼女のイメージがガラガラと音を立てて崩れていくような気がした。だが、流子もこれに対して余裕を失っていない様子だった。
「もし渡さないって言ったらどうする?」
「先生に言うだけよ。あなた、退学になるかもね」
「どうかしら? あなたにそんな事ができるとは思えないけど?」
「……どういう意味?」
「あなたも見かけによらないわね。こんなところでタバコを吸っているなんてさ」
今度こそ亀村は声を上げそうになって慌てて手で口をふさいだ。だが、流子は蔑むように続ける。
「いやぁ、名門大学への推薦入学が決まっているあなたがタバコをしているなんて、随分なスキャンダルね。ばれたら推薦どころかそっちも退学だと思うけど」
「……やっぱり、映っていたのね」
「当然。で、どうするの? 自滅覚悟で先生にカメラを出してみる?」
流子の挑発に対し、しかし美波はなぜか平坦な声で告げた。
「もう一度言うわ。私の映像を渡しなさい。渡しさえしてくれれば、私はこれ以上あなたに首を突っ込むつもりはない。どう?」
「……お断りよ。ていうか、そっちこそ映像渡してほしかったら対価がいるわね。そうね、映像十秒当たり一万円くらいかな。払うっていうのなら、考えてあげてもいいけど?」
何と逆に脅迫し始めた。ハラハラしながら会話を聞いていた亀村だが、不意に美波の声の調子が変わったのを感じ取った。
「そう……やっぱりそうなるのね。チャンスをあげたつもりだったんだけど」
「へぇ、わかっていたんだ。でも、こうなる事を予測しておきながらそれでもやってくるなんて、あんた馬鹿ね。で、どうするの? カメラを提出して自滅してみる?」
「いいえ……こうするわ!」
そう美波が叫んだ、次の瞬間だった。突然ドンッという何かが何かにぶつかる鈍い音が響いたと思うと、それまで余裕の声を出していた流子がなぜかカエルが押しつぶされた時のような声を出して、沈黙してしまった。同時に、床に何かが崩れ落ちる音がする。何が起こったかわからず、亀村としては戸惑うばかりだ。後にはハァハァと息をする美波に声しか聞こえない。
「馬鹿はそっちよ……。そういう安易な脅迫がこうなることぐらい、わかっていたでしょうに」
そう呟きながら、美波が外を歩き回る気配がする。と、美波はこんな事を言い始めた。
「さて、ここまでは計画通りね。後はこれを隠して、シャワーを浴びれば大丈夫。あとは夜にでも来たらいいし……。とりあえず、ここに」
そんな言葉と共に、ヒタヒタという足音が何と亀村の隠れているロッカーの方へ迫ってくるではないか。亀村の顔色が蒼くなった。何だか知らないが、どう考えても見つかっていい状況ではない。「くるな~!」と必死に神に祈るが、無情な事に目の前のロッカーの扉に鍵を差し込む音がする。
「私の計画は完璧よ。誰にもばれるはずがないわ。これはその第一歩よ」
そう言いながら、ロッカーの鍵が開けられ、ついにロッカーの扉が開かれた。完全に血の気の引いた亀村が、開いたロッカーの向こうに見た物……
それは、床に血を流してうつぶせに倒れている中浦流子と、目の前で水着を返り血で真っ赤に染め、血走った視線をロッカーの中にいる自分に向けている、亀村がずっとファンだった花笠美波の変わり果てた姿であった……。
「……」
「……」
彼女の見たくもなかった思わぬ姿に、亀村はどうする事もできずただポカンと眺めている。一方、美波の側も目の前にいる予期せぬ第三者の姿に一瞬思考が吹っ飛んでしまったようで、ロッカーを開けた姿勢のままでその場で硬直している。しかもロッカーを開けた手と反対側の手には、血まみれの包丁らしきものまで握られていた。
ロッカーの中で縮こまる下着泥棒と、全身血まみれの水泳部員。二人はそのまま数秒間互いの姿をまじまじと見つめ合う。何とも言えない奇妙な時間が過ぎていく。
が、次の瞬間だった。
「ぎ、ギャアァァァァ――――――!」
「キャアァァァァァッ――――――!」
二人の甲高い絶叫が、校舎全体に余す事なく響き渡った。
その一時間後、更衣室の周りは複数のパトカーに取り囲まれ、しかめ面をした刑事たちが深刻そうな表情で更衣室周辺をうろつきまわっていた。そんな中、計画の第一段階でいきなり計画を叩き潰されてしまった花笠美波が、顔を両手で覆って嗚咽を漏らしながら、警察のパトカーに乗せられて連行されていく。一方、別のパトカーには完全に虚脱状態の亀村が乗っていて、こちらもすぐに連行されていく予定だ。
「よう、榊原。一通りの話は聞き終わったぞ」
現場に転がっている中浦流子の死体を見聞していた警視庁刑事部捜査一課警部補の榊原恵一は、背後から相方の橋本隆一警部補に呼びかけられてその場に立ち上がった。
「どうだった?」
「ひでぇもんだ。被害者はこの更衣室で盗撮をして、撮影した映像を販売して小遣い稼ぎをしていたらしい。で、加害者の子は加害者の子でこの更衣室で隠れてタバコを吸っていて、それを盗撮カメラに映されてしまった。それに気づいた加害者は被害者の殺害を計画し、練習途中で彼女をここに呼び出して所持していた包丁で刺殺。手近なロッカーに遺体を隠そうとしたら……」
「先着していた下着泥棒が隠れていた、と」
榊原は苦々しい表情で遺体を見つめる。
「しかも、その下着泥棒。よりにもよって加害者のファンだったらしい。そんな子が目の前に全身血まみれで立っていたんだから、下着泥棒としてもとんでもないショックだな」
「史上最悪の出会いだ。お互いにとってな」
「あぁ、おかげで両方とも絶叫して、それで駆け付けた警備員に通報されて終わりだ。情けないと言ったらありゃしない」
「概ね同感だ」
榊原はそう言って首を振る。関係者の誰にも同情できない風だった。
「ちなみに、彼女の計画では、殺害後に遺体をロッカーに隠して何食わぬ顔でプールに戻り、シャワーで返り血を洗い流して部活に合流。遺体は夜になってから近くの裏山にでも処分するつもりだったらしい。ただ、その第一歩でいきなり下着泥棒というアクシデントが起こって、彼女はそのままパニック状態になって何もわからなくなり、その場で包丁を落としてうずくまって泣き出してしまったという事だ」
「何というか……元の計画も随分おおざっぱだな。本人も想定外の事態に弱い性格らしいし、その計画なら下着泥棒なしでもいずれ犯行は露見したはずだ。警察をなめているのか?」
「さぁな。本人曰く『完璧な計画』だったらしいが」
「犯人はみんなそう言うんだ。どうせ、その辺の推理小説を適当に読んで作ったど素人の計画だろう。高校生のくせに安易に殺人なんか考えやがって、犯罪をなめるなと言いたいね」
珍しく榊原は少し怒った風に言った。
「で、下着泥棒の方はどうなった?」
「完全に放心状態。一応、不法侵入と窃盗容疑で逮捕はしているが、殺人とは直接関係ないからすぐに別の部署に引き渡されるだろう。余罪もいっぱいあるようだし、厳しく取り調べされるんだろう」
「まったく、これに懲りて下着泥棒からも卒業してくれるといいんだがな」
そう言うと、二人は改めて遺体の検分に入ったのだった……。
「……とまぁ、そんな事件だったわけだが」
それから数年後、警察を辞めて私立探偵になっていた榊原は、自分の事務所で自称弟子の高校生・深町瑞穂に事件の説明をしていた。と言っても、榊原から始めた自慢というわけではなく、瑞穂が選んだ事件ファイルの説明を榊原がする事という方式であった。事件がないときは大体こうして瑞穂から自発的に榊原から犯罪の現実について学ぶようにしている。
「その後、結局どうなったんですか?」
「逮捕された花笠美波については年齢が十八歳だった事もあって逆送からの通常裁判になってね。あまりに安易な犯行動機と命を軽視する行動から悪質と判断されて、殺人罪で少年事件としてはかなり重い懲役十二年の実刑判決が出たらしい。今も女子刑務所に服役しているはずだ」
「重い代償ですね……」
しんみりと呟いてから、瑞穂はふとこう続ける。
「で、亀村はどうなったんですか?」
「あぁ、あいつね。結局複数の下着泥棒の容疑で起訴されて、裁判では真っ青かつ真剣な表情をして『下着泥棒なんか二度としない! というか、二度と女性と接したくない!』と発言してね。どうも目の前で血まみれになった好きな女の子の姿を見て、完全に女性に対してトラウマになってしまったようだ。確かこっちも懲役五年の判決が出たはずだが、年月的に見てそろそろ出所しているはずだ。今頃どこで何をしているのか……」
榊原はそう言うと、しんみりした様子で窓の外を眺めたのだった。
ちなみに、蛇足ながらその時亀村が何をしていたかといえば……
「ウオリャ―――!」
「おぉ、新入り。随分威勢がいいな」
「とにかく今は女の事を考えたくないんです! 今の俺の恋人はこのカツオだけです! 俺のトラウマよ、早く立ち去れぇ! でないと俺は社会に戻れないんだぁ!」
何がどうしてそうなったのかはわからないが、太平洋の真ん中でカツオ漁船に乗って、何やら絶叫しながら下着の代わりにカツオの一本釣りをしていたりするのである。ま、経緯はどうあれ、真面目に働く事はいい事だという事で……。




