第十七話 「遅刻の言い訳」
都立立山高校の古典教師・宇垣妙子はイライラした様子で自分が担当する一限目の教室を見つめていた。授業を受ける生徒たちも、何となく気まずそうな雰囲気である。
宇垣は今年この高校に赴任してきたばかりの教師であるが、前の赴任先は都下有数の公立難関校で、その分非常に厳しい教師であった。特に生活指導担当だった事もあって素行不良などにかなり厳しく、生徒の間からは「鬼宇垣」だのなんだの不名誉なあだ名を頂戴している。
そんな宇垣であるから彼女の担当する授業を理由もなくさぼろうものなら、その日の授業における彼女の機嫌が滅茶苦茶悪くなる事は自明の事で、他の生徒に迷惑をかけるなという事で「宇垣の授業をさぼるな」が生徒間の合言葉になっている。もしそれでもさぼると、後々きつい授業を受けさせられる事になった他の生徒全員から白い目で見られる事になってしまうので、この時ばかりは普段からのさぼり魔でさえしっかり出席するという徹底ぶりだった。
が、今日はそのタブーを犯してしまった生徒が残念ながら存在してしまっていた。クラスの中ほど、そこにある席が未だに空席になっている。もちろん、欠席や遅刻の連絡はない。そんなわけで、今や宇垣の機嫌は最悪とも言っていい状態であった。何しろ予習もしていない『源氏物語』の訳を生徒に強要し、それでミスをしようものなら嫌味たらしく小言をグチグチという有様。クラスの全員の視線が、恨めしそうにその空席に向いているのは言うまでもないことである。
だから、授業開始二十分ほどしてその生徒が前の扉から正々堂々と飛び込んできたときには、誰もが皆唖然とした表情を浮かべた。このような場合、途中で入りこんだら先生と生徒の双方から非常に厳しい視線にさらされる事になってしまうため、基本的に授業終了までやり過ごす人間が多い。にもかかわらず、その生徒は息を切らせて教室に滑り込んできたのである。髪はぼさぼさで服もしわくちゃ。どう見ても寝坊して慌てて飛び込んできたとしか思えない姿である。
堂々過ぎて当惑気味の生徒に対し、宇垣が怒りの形相で見つめるその生徒……その名前は深町瑞穂と言った。
「あ、先生、おはようございます」
クラスの微妙な空気にもかかわらず、瑞穂は何も感じていないかのごとくぺこりと頭を下げる。宇垣は今にも怒鳴り散らしそうになりながら、あえて怒りを押し殺して振り絞るように瑞穂に尋ねた。
「深町さん……今、何時だと思っているんですか?」
「えー……まぁ、九時十分くらいですかねぇ」
「始業は八時四十五分だという事はあなたもよく知っていると思いますが、その点に関してはどうでしょうか?」
「あー、そうですね。確かにそうだったかもしれません」
「つまり、あなたは大幅に遅刻をして、クラスの皆さんに多大なる迷惑を与えた、という事ですね?」
怒りに燃える宇垣に対し、瑞穂は慌てて手を振った。
「ちょ、ちょっと待ってください! 確かに私は遅刻したけど、これにはやむを得ない事情というものがあるんです。その事情を聞いてもらえれば、先生もきっと納得してくれると思います」
「へぇ、では、その理由とやらを今この場で明確に説明して頂けますか?」
宇垣はそう言葉を発しつつも、瑞穂の様子からどう見ても彼女が寝坊で遅刻したものと決めつけにかかっていた。その上で瑞穂がどれだけ滑稽な言い訳をするものかと虎視眈々と待ち構えていたのだが、瑞穂はそれに気づいているのかどうか早速言い訳を始めた。
「ええっと、私は今日もいつもの時間通りに起きていつもの時間に家を出たんです。電車にも乗って、最寄り駅で下りて、あとは学校まで歩くだけという状況でした。そこまでは問題なかったんです。いや、本当に」
「なるほど、あなたはいつも通りに家を出て学校へ向かった、と。そんなあなたがなぜこんなに大幅に遅刻する事になったのですか?」
「それがですねぇ……駅を出てしばらく歩いていたら、脇の路地からいきなり一人の男が飛び出してきまして、私に拳銃を突き付けたんです」
その言葉に、誰もが呆気にとられた様子で瑞穂を見つめていた。そんな絵空事みたいな言い訳がこの鬼宇垣に通用するはずがないではないか。実際、宇垣はこめかみを引きつらせながら先を促している。
「へぇ、あなたは拳銃を突き付けられたんですか。それはまた貴重な体験をしましたねぇ」
「全くです。しかもそのまま『来いっ!』とか言われて拳銃を突き付けられたまま連れ去られてしまいまして。先生の授業に出たいのはやまやまだったんですけど、そんな状況では逃げるわけにもいかなかったもので。全く、何だったんでしょうね、あいつは」
「そうですか……」
生徒たちはハラハラしながら二人の会話を聞いていた。そろそろやめた方がいいのではないかと、何人かの友人は心の中で「やめろー!」とアイコンタクトを送っている。が、瑞穂はそれに気づく様子もなくますます話をエスカレートさせた。
「で、しばらく一緒に逃げていたんですけど、やっぱりこんな事は長く続かないものなんですね。近くでパトカーの音がしたと思ったら刑事や警察官たちが追ってきまして、銃を片手に『君は完全に包囲されている! 直ちに人質を解放して投降しなさい!』って言ってきたんです。本当にあんな風に声をかけるんですね。そしたら男は『うるせぇ!』って叫んで銃を撃ち初めまして、警察の方もそれに応戦して……いやぁ、凄い銃撃戦でした。おかげで私の髪もぼさぼさです」
瑞穂はお気楽に笑いながら言うが、全く笑える話ではないし、そろそろ宇垣の堪忍袋の緒も切れかかっている様子である。
「まぁ、そんなわけで十分くらい銃撃戦をしたんですけど、結局犯人の方の弾が尽きてそのまま逮捕されてしまいまして。で、私はすぐに学校目がけて走り始めたんですけど、さすがに間に合わなくて、こうして今に至っているという事なんです。だから、遅刻したのは仕方がない事なんですよ。その辺を考慮して頂けないでしょうか?」
瑞穂はそう言って頭を下げる。が、宇垣はなぜか薄く微笑みながら言った。
「なるほど、それは確かに遅刻しても仕方がないかもしれないわね」
「でしょう?」
「あなたの言い分は理解しました。私の言いたい事は一つです」
直後、たまりにたまっていた宇垣の雷が派手に落ちた。
「もっとましな嘘を考えてきなさい! あなたは後で生徒指導室に来る事! あと、明日までに反省文を五枚書いてもらいます! いいですね!」
その怒鳴り声たるや、同じ階にある他のクラスの生徒たちが思わず廊下の外に顔を覗かせるほどだったという。
「瑞穂……さすがにあの言い訳はないと思うなぁ」
一時限目終了後、机の上で突っ伏している瑞穂に向かってクラスメイトの磯川さつきが同情気味に呼びかけた。一方の瑞穂はぐったりした様子で虚ろな視線をしている。先程生徒指導室でたっぷりとお叱りを受けてきたばかりで、話す元気もないらしい。ついでに、机の上には宇垣から渡された反省用紙が五枚ほど散らばっている。
「いくら私でももうちょっとましな言い訳をするよ。そうねぇ、例えば道に迷っているおばあちゃんの道案内をしていました、とか。風邪気味で病院に行っていました、でもいいかな」
すると、瑞穂は虚ろな視線のまま顔を上げた。
「一体、何が駄目だったんだろう? 全く怒られる理由が思いつかないんだけど」
「あのねぇ、そりゃいくらなんでもあんな荒唐無稽な言い訳されたら誰だって怒るって」
周囲のクラスメイトたちも一斉にうんうんと頷く。が、瑞穂はそんなクラスメイト達を見ながら、相変わらず不思議そうに首を捻ってこう呟いた。
「だって……全部本当の事を包み隠さずありのままに言ったのに怒られるなんて、ちょっと理不尽だと思うのよねぇ」
「何が銃撃戦よ! 何が銃を突き付けられたよ!」
職員室で宇垣はカッカしながら瑞穂の生徒指導記録に赤ペンで「要注意! 平気に遅刻した上に、荒唐無稽な嘘を言う傾向あり! 素行不良の前兆あり!」などと言いたい放題を書いていた。
「大人を馬鹿にするにもほどがあるわ。大体、あの子は前からいけ好かなかったのよね。ミス研で殺人があった時も、何を考えたのかあんな殺人部を存続したいなんて言い張って。しかもたまに『ミス研の活動の一環です』とか言って意味不明な欠席をするし……」
日頃の鬱憤を晴らすべく、宇垣はひたすらに愚痴りながら瑞穂の生徒指導記録を真っ赤にしていく。このままでは瑞穂の内申の危機である。さすがに周囲の教師たちも気まずそうな表情を浮かべ、恐る恐るという風に宇垣の気を静めにかかる。
「ま、まぁ……本人も悪気があったわけではないでしょうし……」
「先生方は生徒に甘すぎるんです! そんな事だからゆとり教育だのなんだので批判されるんです! もっと教育というのはビシビシとやっていくべきで……」
「ちょ、ちょっと落ち着いてください」
そう言いながら、教師の一人が気を紛らわそうと何気なく備え付けのテレビをつける。どうやらニュースをやっているらしく、アナウンサーの緊迫した声が画面の向こうから聞こえてきた。
『次のニュースです。本日午前八時十五分頃、品川区内のコンビニに拳銃を持った強盗が押し入るという事件が発生しました。犯人は現金五万円を奪って逃走しましたが、逃走中に住宅街で警官隊との激しい銃撃戦になった末、逮捕されたという事です』
その瞬間、宇垣も含めた全員の視線がテレビにくぎ付けになった。その間にも、アナウンサーはニュース原稿を読み上げていく。
『本日午前八時十五分頃、品川区大崎駅近くのコンビニエンスストアに拳銃を持った男が押し入り、店員に向かって『金を出せ!』と現金を要求しました。男はレジから五万円を奪って逃亡しましたが、近隣を巡回中の警察官がこれを発見し逃亡。途中で通学途中の女子高生に銃を突き付けて人質にしてさらに逃亡を続けましたが、その後逃亡先の住宅街で駆けつけた警官隊との銃撃戦になり、事件発生から四十分後に緊急逮捕されたという事です。逮捕されたのは無職の海野内介容疑者、三十歳。調べに対し海野容疑者は「金に困ってやった。拳銃は知り合いの暴力団員からもらった」と供述しており、警察は余罪や拳銃の入手経路などを慎重に捜査しています。なお、銃撃戦による負傷者は出ておらず、品川署署長は「適切な拳銃の使用だったと思っている」とコメントしています』
職員室の中が別の意味で気まずい空気になっていく。その直後、テレビのアナウンサーがとどめとなるコメントを発した。
『また、人質になった女子高生に関してですが、海野容疑者が逮捕された後、「このままだと古典の授業に遅れて先生から雷を落とされちゃうんです! 今頃クラス全員ネチネチ小言を言われているだろうし、私だって生徒指導室に強制連行されて叱られた上に反省文書かされちゃうんですよ! こんなくだらない事件にかかわっている暇はないんです! そんなわけで失礼します!」と捜査陣にまくしたてるように叫んだままどこかへ走り去っていったという事です。警察は事件の事情を聴くためと、この恐るべき古典教師に事の事情を説明するためにこの少女の行方も追っているという事です。では、次のニュース……』
直後、バタンという音が職員室に響き渡った。教師たちが振り返ると、先程はあれだけヒステリックにわめいていた宇垣教諭が、自分の間違いと自分の所業を全国ネットで大々的にお知らせされてしまったショックのあまり、白目をむきながら床に仰向けに倒れて気絶しているところだった。慌てて周囲の教師たちが駆け寄る中、事務員の一人がひょっこりと顔を出し、さらに追い打ちをかけるような一言を放った。
「あの……今、警察の方が見えていらっしゃいますが。何でも今朝の事件に関して聞きたい事があるとかで……」
宇垣が今日中に再起できる可能性は、これで完全に断たれてしまったのであった……。
なお、翌日宇垣が瑞穂の前で土下座をして彼女を慌てさせ、以降の授業で以前ほど厳しくなくなってしまったというのは、この話の些細で愉快な後日談だったりするのである。




