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第十四話 「史上最大の覗きというもの」

 警視庁捜査一課一の検挙率を誇る捜査班のブレーンと言われた榊原恵一警部補にとって、その事件ほどわけがわからないものはなかった。何しろ、事件の第一報を告げる警視庁のアナウンスからして、今まで聞いた事のない当惑の声だったくらいだ。

『えーっと……警視庁から各局、警視庁から各局。あー、台東区上野において、そのー……何というか、立てこもり事件が発生。捜査員は至急現場に急行せよ』

 始まりからしてこんな調子だったもので、刑事たちは首を傾げながら現場に到着したのだが、現場に到着してその原因が何なのか嫌でも認識する事になった。

『鶴の湯』

 そこは、銭湯だったのである。

「えー、一時間ほど前に猟銃を持った男が女湯に突入し、入浴中の女性客数名を人質に女湯に立てこもっている様子。人質の数等は不明なるも、全員そのー……何というか、入浴中の姿のままである様子。犯人は現金一億円と逃走用の自動車を要求。要求が受け入れられない場合は人質を殺すと宣言しています」

 現場に先着していた初動捜査犯の刑事がこちらも当惑気味に無線通信を送っている。

「……これはジョークか何かか? 犯人はそこまでして女湯を覗きたかったのか?」

 榊原と同時に現場入りした橋本隆一警部補がそんな事を聞くが、榊原は首を振った。

「残念だが、犯人の方はいたって真面目に占拠事件を起こしているつもりらしい。所轄の情報では、犯人の名前は喜馬寺目太郎きまじめたろう。暴力団構成員の一人だ。喜馬寺は先日対立する暴力団に対して発砲事件を起こしていて、指名手配が行われていた矢先の出来事だった」

「つまり、本人は覗きのつもりはなく、あくまで真剣に占拠事件を起こしているつもりなのか。入浴中の女性相手に」

「らしいな。逃げ出した女性客の話では、喜馬寺は女性客のその……入浴中の格好に対して一切コメントせず、別の意味での悲鳴がほとばしる中、全くの無表情で何事もなかったかのように女湯を乗っ取ったらしい。逃げ出した女性曰く、それはそれで逆に傷ついたとの事だ」

「……それが本当なら、俺はその犯人を心の底から尊敬するぞ。男なら少しは反応しろよ」

 橋本は皮肉なのかどうなのかわからない事を言うが、榊原は答えようとしない。

「それより、その逃げ出した女性というのはその……」

「安心しろ。ちゃんとタオルは巻いていたそうだ。今は警察から提供された服を着て所轄署で事情を聴かれている」

「いや、それも結構問題だろう」

「とにかくそんな状況なので、人質が自力で逃げ出す可能性は絶望的だ。逃げ出したが最後、自分のあられもない姿を全国ネットで大公開する羽目になってしまうからな」

「おい、お前もそんな事を真顔で言うなよ」

 こいつも大概おかしい、と橋本は言いたげのようだったが、榊原は気にする様子はない。

 と、そこへSAT隊長の高橋正義警部が近づいてきた。榊原が高橋に尋ねる。

「どうですか? 突入できそうですか?」

「正直馬鹿馬鹿しいが、犯人は猟銃を持っていますからね。最低でも現場の状況……人質の数や配置、犯人の位置がわからないとどうにもなりません。ですので、突入前に何とか現場をこっそり偵察したいのですが……」

 ひどく深刻そうに話しているが、それはいわゆる覗きというやつではないのか、と橋本は突っ込むのを我慢した。

「偵察はうまくいっていないのですか?」

「それが、現場を覗こうとすると人質が敏感に反応して即座にお湯をぶっかけてくるんです。ひどい場合だと桶が飛んできた事もありました。現在SAT隊員三名がお湯による火傷で病院送りになっています」

「要するに犯人よりも人質が壁になっていると?」

 そりゃ誰だって自分の入浴中の姿を覗かれたくはないだろう、と突っ込みたいのを橋本はまたしても我慢した。だが、高橋はぐっと拳に力を込める。

「ここまで来たらもう後には引けません。我々は何としても現場の偵察を成功させ、犯人を必ず逮捕してみせます! たとえ、どんな手段を使っても!」

 非常に格好いいことを言っているが、それは警視庁最強のSAT部隊が、警察の総力をもってして全力で女湯を覗くと宣言した瞬間だった。


 それから一時間後、現場は混迷を極めていた。

「隊長、またやられました!」

「ええい、何をやっているんだ!」

 頭からお湯をぶっかけられ前身ずぶ濡れになった隊員を目の前にして、高橋が激昂する。それを見ながら、榊原たちは手持無沙汰にパトカーにもたれかかって大欠伸をしていた。

「まだ終わりませんか?」

「もう少し待ってください。やつら思った以上に手ごわくて」

 ここで言うやつらというのはもちろん犯人の事ではなく、人質になっている女性客たちの事である。というより、犯人は人質が逃げないようにするのに手一杯のようで、主に抵抗しているのは入浴姿を見られたくない一心の女性客たちの方だった。

「犯人も犯人だ! せめて人質にタオルの一枚でもまかせてやればいいものを!」

「脱衣所に出られると逃げられるかもしれないという事で、浴場から出るのを許していないみたいですね」

 高橋の怒りに、橋本が面倒くさそうに言う。

「犯人に羞恥心というものはないのか!」

「いや、そんな事を我々に言われましてもね……」

 と、その時高橋の元に無線が入る。

『狙撃部隊、配置につきました!』

「ご苦労。スコープで中を覗けるか?」

『難しいですね。湯気が凄くてはっきりと中の様子がわかりません』

 橋本や榊原も多少の出来事ではひるまない程度の経験は積んでいるつもりだったが、まさか狙撃銃のスコープで女湯を覗くなどという事が行われるなどもちろん初めての経験だった。どこまで真剣に女湯を覗こうとしているのかという話である。

 だが、ここまでくるともはやSATも意地になっているようだった。

「サーモグラフィはどうなっている! 影だけでも見られないのか!」

「駄目です! 湯気のせいで判別できません」

「そんなものまで持ち出していたのか……」

 橋本はもはや茫然とする他なかった。一方の榊原は何を考えているのか……というか何も考えていないのか、黙って現場を見据えているだけである。高橋はそんな榊原に助けを求めた。

「榊原警部補、何か考えはありませんか?」

「うーん……要するに中が見られればいいんですよね?」

 榊原の言葉に高橋は頷いた。

「その通りです」

「いっその事ラジコンヘリみたいなもので中を覗くというのはどうでしょうか。あと、確か原発事故とか人質事件専用のキャタピラロボットのようなものがあったんじゃないですか? ほら、カメラが取り付けられていて人が入れないところに入っていく……」

「それだぁ!」

 高橋が叫んだ。だが、榊原はさらにアイディアを出していく。

「それでも駄目なら、いっその事壁に穴をあけて光ファイバーか何かを差し込んでみるというのもありかと思います。あるいは夜になるのを待って電気を切り、パニック状態になっているときにスターライトスコープで中を覗くとか……」

「よし、全部やってみるぞ!」

 高橋が駆けていく。橋本は榊原をじろりと睨んだ。

「お前、ほとんど適当に言っているだろう」

「さぁね。お手並み拝見だ」

 榊原はそう言うと、パトカーの助手席に戻ってそのまま目を閉じてしまった。


 結論から言えば、榊原の策はすべて失敗した。

「ラジコンヘリは浴場に突入したところで複数のシャワーにお湯をかけられて湯船に墜落。ロボットは突入と同時に大量の桶をぶつけられてカメラが故障し、そのままひっくり返されてお釈迦。光ファイバーは穴をあけたところで桶をかぶせられて何も見えず、スターライトスコープ作戦も、電気を消したにもかかわらず相手が的確に隊員の居場所を突き止めてきて、お湯をかけられた隊員五名が病院送りです」

 夜七時頃になって、高橋がげっそりした風に榊原に報告しに来た。

「もはや犯人をどうするというより、人質をどうするかの方が大変ですね」

 榊原はどうでもいいという風に言った。一方、高橋はますます切羽詰まった表情になっている。

「どうしましょうか? このままでは埒があきません」

「あの……こうなったら、中の様子がわからない状態で突入するしかないんじゃないですか? ぶっちゃけ、時間もない事ですし」

 と、ここで橋本が口を挟んだ。高橋はその言葉を真剣に検討する。

「……それしかありませんか」

「大丈夫。犯人は今までの経緯から人質たちが自分を守る盾になると考えています。ちょっとやそっとでは人質を殺さないでしょう」

「でもどうやって突入を? 下手に突入すると犯人……というか人質の抵抗が予想されます。その隙に犯人に人質を殺されたら目も当てられません」

 客観的に聞くとわけのわからない発言だが、確かにもっともな意見である。言い出しっぺの橋本はしばらく考えると半ばやけくそ気味にこうアドバイスした。

「この際、犯人も人質も予想もしない方法で突入してはどうでしょうか? で、呆気にとられているところを間髪入れずに確保する」

「というと?」

「つまりですね……」

 橋本は何事かを高橋に耳打ちした。


 その三十分後、銭湯の前に真剣な表情の機動隊やSAT部隊が整列し、さらにその前に重厚な重機の数々が整然と並んでいた。パワーショベル、ブルドーザー、さらにはかの「あさま山荘事件」で使用されたあの鉄球付クレーン。どれもこれもが物々しい雰囲気を醸し出している。さらに、機動隊の手にはハンマーやドリルなどが握りしめられている。

 その様子を、さすがの榊原も唖然とした様子で眺めていた。

「こ、これは?」

「えーっと……要するに、犯人も人質も、まさかこっちが堂々と壁を叩き壊して覗いてくるとは思わないだろうから、壁を破壊して相手が唖然としている瞬間にスタングレネードを投擲。その瞬間を狙って逮捕すればいいんじゃないか、と……まぁ、そんな事を言ったわけなんだが……」

「おい橋本、お前、私以上に適当な事を言っただろう!」

「いや、まさかこんな冗談を真に受けるほど高橋警部が追いつめられていたとは……」

 当の提案者たる橋本さえ呆れてものも言えなくなっている中、かくして史上最大の覗き作戦は実行された。

「やれ!」

 高橋の号令で重機が一斉に動き出す。パワーショベルのバケットが唸り、ブルドーザーが壁に体当たりし、鉄球が壁に叩きつけられる。その合間で機動隊やSATがハンマーやドリルを今までの鬱憤と言わんばかりに壁に向かって振り下ろしている。

 たちまち銭湯の壁は崩壊し、中から大量の湯気と黄色い悲鳴が噴き出した。その瞬間を狙って、SAT隊員たちがこれでもかと何発もスタングレネードを戦闘に投げ込む。直後、まばゆい発光が銭湯を包み込み、完全武装の機動隊とSATが銭湯の中に突入していった。

 最初に出てきたのは犯人だった。壁が崩された時点で諦めたのか割合素直な様子で機動隊に引っ立てられ、そのままパトカーに乗せられて所轄署に連行されていく。幸い、彼の銃による死者は誰もいないようだ。

 だが、それでもなお銭湯内ではSATと人質との間で熾烈な戦闘が繰り広げられていた。壁を壊され、外にいるマスコミに自分の姿を見られてなるものかと必死に暴れる人質たちを機動隊たちが必死に確保しているのだ。

「ええぃ、くそ! おとなしくしやがれ!」

「確保! 確保だ!」

「今までさんざん苦労させやがって!」

「何でもいいから、さっさとタオルを巻けぇっ!」

 そんな銭湯からの絶叫を聞きながら榊原と橋本は肩をすくめると、そのまま無言でパトカーに乗り込んでほぼ同時にこう呟いた。

「付き合っていられるか」

 そして、彼らは犯人の事情聴取を行うべくパトカーに乗って最寄りの所轄に向かった。一刻も早く、この馬鹿げた茶番から逃れるために……。


「……という事があったんだよ。ちなみに当の犯人は無事に逮捕されて今は刑務所にいるはずだ」

 数年後、榊原探偵事務所で榊原恵一は、その事件のファイルを捜し出してきた自称弟子の深町瑞穂に向かってそう説明していた。瑞穂は事件ファイルを見ながらしばらく固まっているようだったが、

「……馬鹿ですか? 馬鹿なんですか、警察って?」

「知らんよ。ちなみに問題の人質たちは、その腕っ節の強さを買われて自衛隊にスカウトされたという話を聞いたな」

 榊原も何とも微妙な表情をしていたが、瑞穂はさらにそこに追い打ちをかけた。

「あの、一ついいですか?」

「何だね?」

「ここまでやっておいて今さら突っ込むのは何なんですが……素直に婦人警官に覗いてもらうっていう手はなかったんですか? それなら人質もそこまで抵抗しなかったと思うんですけど……」

 そう言われて、榊原は思わず瑞穂の顔をまじまじと見つめた。

「……その手があったか」

「先生……」

 事務所の上で、カラスが「アホー」と鳴くのが瑞穂の耳に聞こえた。

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