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第十三話 「ある夜の渋谷にて」

 深夜の東京・渋谷駅前。警視庁刑事部捜査一課の榊原恵一警部補と橋本隆一のコンビは、駅前のスクランブル交差点を渡りながら、さりげなく周囲を歩く若者たちを観察していた。もちろん警視庁捜査一課一の検挙率を誇る捜査班に所属する彼らが何の目的もなくこの東京有数の繁華街に姿を見せたわけではない。すべてはある殺人事件の捜査のためだった。

「しっかしなぁ、世の中は一体どうなっているのかねぇ。まだ高校生のくせに殺人なんてどうかしてる」

 その手には一枚の写真が握られていた。先日、渋谷区内で発生した殺人事件の被疑者の写真であるが、そこに写っているのは、まだ高校生くらいと思しき少年である。現場の痕跡などからその少年の犯行である可能性が高くなり、さらなる捜査の結果、その少年が近日この渋谷界隈で目撃されているという事がわかって榊原たちが直接出向いてきたのだった。

「犯罪の低年齢化とか凶悪化何とか言われているが、実際のところはどうなんだろうな。働いている俺たちにはよくわからないが」

「犯罪白書の報告では件数自体は戦後と比べると圧倒的に減っているらしい。ただ、その分メディアは派手に報道するようになっているが」

「そりゃ、あの混沌とした戦後と比べる方がどうかしているだろう。まぁ、俺らはそんな事を気にせず、目の前の事件を解決するだけなんだが……」

 周辺をうろつく不良めいた格好の若者たちを見て、橋本は深いため息をついた。

「こういう光景を見ていると、日本の将来が不安になってくる」

「愚痴を言っても仕方がない。とにかく、ああいう連中の中にこの写真の少年がいないかチェックしていくぞ」

「お前は真面目だな」

「私だって愉快な気分ではないが、状況いかんではこの先連日渋谷の街をうろつく事になる。愚痴を言ったところでどうにかなるものではないだろう」

「指名手配すればいいだろう」

「すでにしているが、相手は未成年だ。未成年の指名手配は氏名や顔写真が非公開の状態で行われる。だからこうして私たちが出向く必要があるんだ」

「はぁ……今夜も徹夜になりそうだ」

 そんな軽口を叩きながらも、榊原たちは油断なく周囲に目を配っていた。


 同じ頃、この渋谷界隈にある不良グループの一つのリーダーである鰐淵壮馬わにぶちそうまは、ついさっき叩きのめした他グループのメンバーから巻き上げた財布の中身を確認しながら舌打ちしていた。

「チッ、しけてやがるぜ」

 鰐淵は渋谷にたむろする不良グループの間では恐れられている男だった。一応都内の工業高校に籍はおいているが、ほとんど出席した事はない。喧嘩の腕も相当なもので、先日など渋谷の空きビルの一つで対立するグループのリーダーと派手な決闘を引き起こし、その中で相手のリーダーをほぼ一方的に叩きのめしていた。全身血まみれで虫の息になっている相手をそのまま放置して引き上げたのだが、鰐淵にはどうでもいい事である。かなり手ひどくやったので助けが来なければ間違いなく死んでいるはずだが、鰐淵にとって怖いものはない。たとえ警官が相手でも、逆に叩きのめせるだけの自信が鰐淵にはあった。

 そんな鰐淵は、次の標的を探して周囲を睨みつけていた。が、先日の抗争で敵対グループのリーダーを叩きのめした事が伝わっているのか、あえて鰐淵にかかわろうとする人間はいない。それだけに、鰐淵はますます不機嫌になっていた。

「つまらねぇな」

 そう言ってもう一度繁華街の通りを見回した鰐淵の目に……その少女は飛び込んできた。

 地味なセーラー服を着た長髪の少女である。その態度はどこかオドオドとしていて、伏し目で辺りを警戒しながら繁華街を歩いている。その態度や格好はこの渋谷の繁華街では明らかに浮いていて、どう見ても家出してきたとしか見えない。そして、鰐淵にとってこの少女はある意味絶好の獲物だった。

「おあつらえ向きにいいカモがいやがるじゃねぇか」

 鰐淵はそう言って舌なめずりすると、ゆっくりとその少女に向かって歩き始めていた。


 榊原と橋本はゆっくりと繁華街を歩き続けていた。時折不良と思しき少年たちが嘲るような笑いを浮かべて榊原たちに近づいてくるが、その格好に反して全く笑っていない鋭い視線にビビってはすごすごと引き上げていく。リーダー格と思しき何人かは、榊原たちが警察関係者だと直感でわかっているのか手出しさえしようとしない。

「いたか?」

「いや、今のところはどこにもいないな。もしかしたら、今日は外れかもしれない。あるいは情報そのものが間違っているのか……」

 榊原の短い問いに、橋本は小声で答える。

「上の話だと情報源は確かなものらしい。どちらにせよ、私たちはその情報に従って仕事をするだけだ」

「そりゃそうだが、この渋谷で一人の人間を闇雲に探すのは限界があるぞ。せめて何かもっと場所を絞れる情報がほしい。榊原、お前の推理で何とかならないのか?」

「残念だが、いくら私でも情報がなければ推理できない。ここは地道に探すしか……」

 と、そこまで言った瞬間、榊原の目が一気に厳しくなった。橋本もそれを敏感に察する。

「どうした?」

「右前方五十メートル先のビルの前を見ろ」

 簡単な答えに橋本がその場所を見ると、セーラー服姿の少女をニヤニヤした顔でビルの壁に追い詰めている茶髪の少年の姿が目に入った。その瞬間、橋本の表情も険しくなり、手元の写真を何度か確認すると緊張した様子で頷いた。

「……間違いない。奴だ」

「まずいな……何とかあの二人を引き離せないか?」

「難しいだろうな。とにかく、ここは尾行して……」

 と、その時目的の少年の視線がこっちを向き、少しだがハッとした表情をした。榊原が舌打ちをする。

「まずい、気付かれた!」

「仕方がない! 取り押さえるぞ!」

 その瞬間、榊原と橋本はその場を蹴り、取り出した拳銃片手に二人目がけて猛然と突っ込んでいった。


 鰐淵がその視線に気づいたのは偶然だった。目的の少女を壁際に追い詰め、どうしていいのかわからず青ざめた表情でいる少女を前にニヤニヤしていると、ふと何とも言えない寒気が背筋に走ったのだ。その瞬間、思わず鰐淵はその方向を振り返っていた。

 そこにはスーツ姿の二人の男が立っていた。一見すると会社帰りのサラリーマンにしか見えないが、その鋭い目つきを鰐淵は嫌と言うほど知っていた。あれは警察官特有の目つきだ。二人は明らかにこちらを見ており、手元の写真で何かを確認している。鰐淵が普段相手にしている交番警官などとは感触の違う相手だった。

 鰐淵は咄嗟に先日の抗争で叩きのめした敵対組織のリーダーを思い出していた。どうやらあの件で警察が動いたらしい。しかし鰐淵は落ち着いていた。鰐淵からしてみれば、この少女以上のカモがやって来たという感覚だった。

「おもしれぇ」

 鰐淵はそう言うと二人の刑事に向かって体をゆっくりと向けた。向こうもそれに気づいたのかこちらへ向かって拳銃を抜いて走って来る。が、鰐淵はひるむ気配もない。日本の警察は拳銃をほとんど撃ったことがなく、ゆえにその腕前も大したことがないと鰐淵は知り合いから聞いた事があったのだ。それに鰐淵の腕前なら、拳銃が打たれる前に相手の懐に潜り込んで相手を叩きのめせる自信があった。

 鰐淵は不敵な笑みを浮かべて刑事を待つ。周囲もその異常さに鰐淵から距離を取り始める。その瞬間、手ぐすねを引いて待ち構えている鰐淵に向かって、刑事の一人が叫んだ。


「危ない! 今すぐそいつから離れろ!」


 その思わぬ言葉に、さすがの鰐淵も一瞬意味がわからなくなったからなくなった。が、その直後、突然ドスッという音と共に、鰐淵の脇腹に激痛が走った。

 その痛みに振り返ると、先程の少女が完全に血走った眼で、どこから出してきたのか大きなナイフを鰐淵の脇腹に突き刺していた。

「くそっ! こんなところで捕まってたまるか!」

 少女は甲高い声でそう叫ぶと、ナイフを鰐淵から引き抜いて雑踏の中へと逃げ出していく。それを見た瞬間、鰐淵の意識はスウッと遠くなっていったのだった。


「畜生! やりやがった!」

 橋本はそう叫ぶと、拳銃を構えて逃げ出した少女の後を追う。榊原は駆けつけてきた巡回中の交番警官に後を任せると、自身も後を追いながら本部に無線連絡を入れた。その手には、あの少女の顔をした少年の写った写真が握りしめられている。

「こちら榊原! 指名手配中の殺人事件被疑者・灰川桃介はいかわももすけを渋谷駅前繁華街にて発見! 男性一名が刺されて負傷した! 現在刑事二名が追跡中なるも、被疑者は刃物を所持しているため周辺歩行者に危険が生じている! なお、被疑者は警官の目を逃れるために『女装』をしている模様! 応援、頼む!」

『了解。すぐに送る』

 繁華街はパニック状態だった。榊原は唇を噛みしめながら事件の事を思い出していた。

 事件は渋谷区内のマンションで起こった。マンションの一室に住むシングルマザー・灰川梅代はいかわうめよが殺害され、捜査の結果浮上したのが、被害者の息子で事件当時から行方がわからなくなっていた高校生の息子・灰川桃介だった。警察は灰川が母親を殺害した後で逃亡したとして指名手配を実施。その直後、渋谷で灰川の目撃情報が寄せられたためこうして榊原たちが出向いていたのである。

 とはいえ、まさか「女装」をしているとは予想外で、榊原たちも見つけたときは何度も写真を確認しなければならなかった。この時、灰川は何も知らない不良に絡まれていたが、一歩間違えば逆上した灰川が不良を刺す事も予想された。とりあえず尾行を試みようとしたのだが、その直前に灰川が榊原たちの尾行に気付き、結果絡んでいた不良が刺されるという最悪の事態になってしまったのである。

 とはいえ、結果的にはその女装が灰川にとってはあだとなっていた。慣れないセーラー服にローファー姿でそもそも走りにくいようで、普段から鍛えている橋本や榊原との距離はみるみる詰まっていく。やがてある程度追いついたところで、橋本はそのまま後ろから灰川に飛びかかって道路に押し倒した。榊原が追い付いたときには、灰川は橋本に押さえつけられながらも、かぶっていた長髪のカツラがずれるほどの勢いでもがいていた。血まみれのナイフは道路に転がっており、榊原はそれを慎重な手つきで回収する。

「畜生! 離せよ!」

「ふざけやがって! まだ高校生のくせして、警察をなめるんじゃねぇぞ!」

 橋本が啖呵を切る。同時に応援の警官たちも続々駆けつけてきて、ついに灰川の手に手錠がかけられる。多くの野次馬が見守る中、灰川はなおも大暴れしながら、橋本や榊原ら数名の警察官に取り押さえられながらパトカーの中へと押し込まれたのだった。


「……灰川の動機は、勉強をめぐる母親との言い争いだった。有名進学校に在籍していた灰川だったが当時成績が伸び悩んでいて、その事で母親と口論になって衝動的に殺害。文化祭の劇の時にネタで着てそのままもらっていたセーラー服を咄嗟に着て現場から逃亡し、当てもなく渋谷の街を歩き回っていたらしい。結局その後、その犯行の悪質性などが考慮されて、少年ながら懲役八年の実刑判決が下されたそうだ」

 事件から数年後、警察を辞めて私立探偵事務所を開業していた榊原は、あの事件の捜査ファイルを見つけてきた自称助手の女子高生・深町瑞穂にそんな説明をしていた。

「でも、その鰐淵っていう不良の人は災難でしたねぇ。まさかカモだと思った相手が男で、しかも殺人犯だったなんて。その後どうなったんですか?」

「意識不明の重傷だったが、何とか命はとりとめた。その後の供述で奴が数日前にやらかした敵対グループの抗争の事実も明らかになったが、叩きのめしたはずの敵リーダーはちゃんと生きていて同じ病院に入院していた。結局傷害罪で起訴されたが、執行猶予付きの判決が下されたはずだ。もっとも、この時の怪我が原因で不良グループのリーダーからは引きずりおろされたらしいが」

「じゃあ、今は何を?」

 と、その時事務所のテレビから声が聞こえてきた。

『本日のゲストは、渋谷にたむろする若者たちに説法を繰り返して改心するように勧めている渋谷区教円寺の僧侶・鰐淵壮馬さんです。鰐淵さんも、以前は彼らと同じ不良だったと聞いていますが』

 その声に瑞穂が思わず振り返ると、テレビ画面では袈裟を着た若い僧侶が穏やかな表情で質問に答えていた。

『お恥ずかしい話ですが、当時の私は何も信じられず暴力ですべてが解決すると思っていました。ですが、ある時大怪我をして意識を失った時に、私は確かに『これに懲りて悔い改めよ。悪人のあなただからこそできる道もある』という仏の声を聴いたのです。私は心のよりどころを見つけ、そこからは必死に罪を償い、ちゃんと勉強してこうして仏の道に生きる事を決断しました。今の私があるのは、仏様のお導きゆえなのです』

『今では街にたむろする若者たちに熱心に説法をされているとか?』

『彼らにも心のよりどころが必要なのです。私の言葉がそれになれればと思っています』

 瑞穂は思わず榊原を振り返った。榊原は肩をすくめる。

「ま、こういう事だ」

「……仏ってそんな都合のいい教えでしたっけ?」

 何とも超展開の結末に、瑞穂はただ唸り続けるしかなかったのだった。

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