迷宮レベル36 悪意ある分断
「また、揺れましたね」
これで三度目だ。最初の揺れを合わせれば四度目だろうか。
アデルは額に皺を寄せながら、そう呟く。不吉さを感じさせる揺れだ。この揺れが起きてから、何か嫌な予感が止まらない。
「揺れもそうだが、なによりこの迷宮……」
ハデルバートが真剣そうに言う。確信を持てないのか、それとも言いたくないのか。
「ああ、明らかに変化してんな、こりゃ」
バルドゥルがそうボヤく。
そう変化だ。洞窟の通路が広がっている……などの、目に見えた変化ではない。だが確実に変化している。
出口が見えない。
あれからかなり歩いた。トロールの方に引き付けられた魔物を倒しながら、しかし着実に。だが辿り着かない。とっくに出口に辿り着いてもいいはずの時間は経っている。いくら初めての通路を通ったからといって、そう簡単に迷うはずがない。
そして極めつけがこの地震。
迷宮に地震という、聞いたことのない現象と、いつまで経っても辿り着かない出口。これらから推測できるのはそう多くない。
トロールに遭遇する前、ベェネが言っていた迷宮が変化している、という言葉。あれが本当だと言うことだ。
現在、他の冒険者とは離れてしまった。今一緒にいるのは、『クライシス』のメンバーだけだ。後ろについていた筈のCランクパーティ『レッドクラブ』も、後ろにいた魔物を任せ、その後ほんの少し目を離した隙に消えてしまった。
忽然とだ。
「その通りです。これは明らかに異常事態。試験は中止にするべきでしょう――出口が見つかれば、ですが……」
死屍累々。
そこら中に転がる大量の死体。
かつては人を襲い、食らい、殺戮を繰り返していたはずの魔物が、全滅していた。
トロールに呼び寄せられた数百にも上るであろう魔物の軍団。それがあろうことか人一人殺せず、呆気なく殲滅された。
そこに立つ唯一の生存者。
――ベェネ・オルグレリア。
返り血すら浴びることなく、手負いとは言え『クライシス』が苦戦したほどのトロールと、熟練の冒険者であっても危険と判断した魔物の大軍を、たった一人で殺戮していた。
手に握られた一本の剣。刀身が太い。どこに隠していたのかと言うほどに、大きいその剣。禍々しい。不気味、そんな言葉では表現しきれないほどの禍々しさを持っていた。
「呆気ねえなぁ。つってもまあ、つい興奮してコイツを使っちまった俺もわりいんだが」
つまらなそうに頭をがしがしと掻くベェネ。これだけの大軍を殺戮しながらも、彼の欲求は未だに収まることを知らない。
「ここまで手間取らせやがったんだ。獲物は全部頂かねえとか」
ベェネ・オルグレリア。彼の欲求は凄まじい。体の内側から、ソレを求めて止まない。
ただ純粋に。
ひたすら望む。
――殺戮を。
魔物?
そんな単調な相手ではない。人だ。人間という、知能を持った生物。これを殺したい。
ただの雑魚では駄目だ。警戒心が強く、頭が回り、そして強かな獲物がいい。
以前はただ人を殺しているだけで満足出来た。だからパーティを組んでくれと言って来た奴らと片っ端から組み、片っ端から殺していった。しかし今ではそんなものでは足りない。彼の――が満足してくれない。
故にこの迷宮を見つけたとき、強き冒険者――『クライシス』を誘き寄せるチャンスだと踏んだ。ベェネからすれば彼らの出向く迷宮に潜み、そこで殺しをかけても構わなかったが、どうせならば前菜を添えたかった。故に『オルガン』を使い、複数の冒険者という前菜を用意させた。
若干予定していた段取りとずれてしまったが、それでも問題はない。『クライシス』と『レッドクラブ』を上層まで運んだあと、彼らを舞台に上がらせて、美味しく頂こうと思っていた。
迷宮の変化、そしてトロールの襲撃があったのは驚いたが、それはそれで上手く活用できたと思っている。
恐らく今この迷宮には何かが起こっている。そして重要なことは、迷宮の形が変わっているということ。故に、彼らはそう簡単には出口に到達できない。ならば、分断したところを徐々に摘まんでいこうと。ベェネは判断した。
無論出口が見つからない保証などない。だがそれでも、チャンスが無いわけではない。もし逃げられたのであれば、その時はまた別の機会を窺えばいい。
転移結晶を使われれば逃げられることは確定だが、それでもいくら彼らとは言えこのような迷宮で簡単に使うほどの資金的余裕があるかどうか。まだその心配はない。
「――狩りの始まりだ」
ベェネ・オルグレリアの本性が、解き放たれた。
彼は眠る。
彼は干渉しない。あくまで自分のみを優先し、何があろうと襲い掛かったりはしない。
他の同族のように、人間を殺すために生きている訳ではない。故にトロールの叫び声にも理性で抑える。
知性があるわけではない。あるのはただ一つ。守りたい、ということのみ。
彼は平和を望む。平穏を好む。決して好戦的ではない。以前も簡単に殺せるであろう輩が近付いてきた事があった。しかし彼は干渉しない。自分に干渉してこなければ、決して干渉しない。
彼はその巨躯をのっそりと動かし、快適な体勢へと変える。
――最高だ。
この何もない一時が、これ以上のない至福の時である。
他の同族のような事はしない。彼らは人間の血肉を好む。食すことなど不要なのにも関わらず、食べる。殺さなくとも平和なのに、殺す。徘徊などしなくとも生きているのに、徘徊する。
なんと、なんとなんとなんと不幸なことか。無知とは罪である。
彼は最強だった。この迷宮の王者と言えるほどの強さを持つ。しかし動かない。人を察知しようが攻撃しない。
そう、彼の願いはただ自分の領域を侵されないこと。ただそれだけ。