迷宮レベル35 糾激のトロール
揺れた。
明らかに揺れた。
『クライシス』、『レッドクラブ』、『ベェネ』。この三組は、たった今起こった揺れに対して、何か違和感を感じ取っていた。
「揺れた、な」
「……揺れましたね。地震、でしょうか?」
「迷宮で地震か。そういえばそんなこと初めてかもな」
「…………」
調査隊として編成されたこの三組であるが、あくまでも別々のパーティとして、ベェネを先頭に、その次を『クライシス』が、更に最後尾を『レッドクラブ』と、若干の距離を取りながら歩いていた。
お互いに会話はなく、そこにあるのは妙な空気と沈黙だけである。故に、『クライシス』のアデルとハデルバートの二人の会話は響く。他の二人であるが、イガルデは目を瞑ったまま歩き、話に参加する意を見せず、バルドゥルはつまらなそうに自分の髪の毛を弄っている。
二人とも何かを感じ取っているのか、それともこの微妙な空気が気に食わないのか、どちらにせよ、いつもの探索とは違った雰囲気が二人を包んでいた。
そんな中、広場の出口に位置する二つの分かれ道で、先頭を歩いていたベェネの足が止まる。それに合わせ、『クライシス』、『レッドクラブ』も足を止める。
「おい案内係、何を止まっている? もしかして道を忘れたか? あ?」
「び、びびったなら帰ってま、ママのミルクでもの、のんでな」
先ほどからベェネに殺気を向けているアオカが、最後尾からそう叫ぶ。
そう、ベェネはアオカが云ったように案内係でもある。ボス部屋の位置を知っているベェネは、そこまでの案内を担当させられている。これはギルド長が出した条件であり、これが出来なかった場合、ベェネの参加は認められない。
それが分かっているアオカとキラは、だからこそベェネを挑発しているのだろう。
「……やはりな」
「あ?」
「やはり、ですか?」
しかしベェネはその挑発に乗ることはなく、静かに一人納得したかのような声を発する。
それに後ろに控えるメンバーの殆どが顔をしかめる。イガルデに関しては目を瞑ったままだが、明らかに体勢が戦闘に対応出来るものに変わっている。
「ああ……これは違う。やはりこの道は違う」
「んだと、道を間違えたとでも云いてえのか?」
「……道は間違えてねえ。俺の通った道筋は完璧だった。何より俺は三回、既に道を確認している」
「では、何が違うのですが? 道筋が完璧ならこの道も間違いではないはずですが」
その問答にベェネは小さく舌打ちを一つ。
アデル達に振り向き、その鋭い眼光を向ける。
「察しのわりぃ。よく聞けよ、俺は道を間違えてねえ。これは確実だ。だがそれなのに、今いるこの道は俺の知らねえ道だ。ここまで云ってもまだわかんねえのか?」
「…………」
「迷宮が変わっている……いや、変わったというべきだな。恐らく、さっきの揺れは地震じゃねえ。迷宮が何かしらかの原因で変化しやがった、ってとこか」
「迷宮が変化する……? 一体……」
ベェネが発した一言。それはあまりに突拍子もないことではあったが、しかし先ほどの揺れと合わさって、どこか信憑性が感じられた。
だが迷宮が突然構造を変えるなど、聞いたことがない。では一体何なのか。
それともベェネの狂言と断じるか。
ふと、三組の面々が後ろに気配を感じ取る。
魔物であろうか。一瞬緊張が高まるが、目を凝らせば、そこに見えるのは灯り。そしてその光源は松明。
人であろう。冒険者であればここにいるのはおかしい話ではない。
しかし不可解なことに、その人の気配が嫌に多い。
五人、六人に留まらず、その数は二、三十人に届きそうなほどで、通常では考えられない大所帯。
それが視認できる距離にまで来たとき、『クライシス』の面々が見慣れた顔がそこにはいた。
「おお、これはこれは。『クライシス』じゃねえか。それも他のパーティも一緒に。一体あんたらがこんな低ランクの迷宮で何やってんだ? ええ?」
「オルガン……それは俺の台詞だ。こんな大所帯連れて、何やってんだお前は」
「何をやってる? ただ迷宮を探索しているだけだよ。たまたま人数でやることになったが、大人数ならそれだけ安全だし、変な話ではないだろう? で、そっちこそ何をやってるん――って、ベェネ?」
ハデルバートの質問にニヤニヤとした笑みで答えていたオルガンが、急に態度を変える。
「お、おいベェネ、何やってんだあんた……? なんで、『クライシス』なんかと一緒に歩いてんだ……?」
先ほどまで挑発的な笑みを浮かべていたはずだと云うのに、ベェネの姿を見た瞬間、明らかに動揺している。
対するベェネは、まるで苦虫を噛み潰したかのような、はたまた怒りを抑えるかのような表情で、オルガンを睨み付ける。
「先に行って待ち合わせてのはず……おい、まさかベェネ、お前――――」
しかしその問答はベェネの背後から来る重音によって中断された。
――――ドスン。
オルガンを初め、経験豊富な『クライシス』、『レッドクラブ』、オルガンに連れられている数人の冒険者、そして数日前に対面したベェネには、その振動が、果たして何から来るものなのかを理解した。
ベェネが後ろの通路から静かに距離を取る。
「まさか、まだランクが上がってから数日の迷宮……なんであんなのなんかが」
「厄介だな。だがずっと驚いてる訳にもいかねえ。イガルデ、バルドゥル、任せたぞ」
「ウム。隊長よ、任された」
「あいよー」
「二人とも、分かっているとは思いますがくれぐれも……」
「だいじょーぶ、外さねーよ」
「任せました。ですが外した場合は保険があるのであくまでも無茶はしないように」
アデルがイガルデとバルドゥルに念を押す。
振動が大きく、近付いてくるに連れ、場の緊張が高まる。
――――ソレが現れた。
一言で表現するなら巨人。三メートルという巨体。醜悪と云ってなんら差し支えない不気味な顔は、まさにトロールそのものであった。しかし違う。トロールを知る者はその違いに容易く気が付いた。まず、全身が薄黒い。通常の白とはかけ離れている。加えて筋肉が通常の個体よりも明らかに発達している。
「なんだこのトロールは……。亜種? いや、そうだとしても何故こんなところに……」
オルガンが顔をしかめ、そう呟いた瞬間、トロールの顔が歪む。
それはまるで、獲物を見つけた喜びを表現しているかのように。
「バギャアアアアアアアアア――――」
疾走。手に持った何百キロにもなりそうな棍棒を軽く振り回しながら、冒険者に向かって突っ込んでくる。普通であればそんな巨体が圧倒的なスピードで突進してくれば、恐怖で体が動かないだろう。
そう、普通ならば。
「久々に、手強そうであるな!」
「帰りてー」
だがイガルデとバルドゥルは慌てずそれに対応する。
通常の個体よりも数倍も速い速度にすら臆せず反応出来るのは、やはり並外れた実力からくるもの。
イガルデはまず最大の武器である自身の拳に魔力を流す。そして狙うは一点。頭部――否、その下にある喉である。
跳躍、完璧なタイミングでトロールに接近、拳を目標へと叩き込む。
拳、と云ってもそれはただの打撃に留まらない。素の状態ですら魔物を容易に殺せるだけの圧倒的な破壊力を持つイガルデの拳に魔力を流したのだ。
その拳は衝撃波を生むほどに強烈な威力を保有しうる、当たったならば肉を抉り血の雨を周囲に降らせるだろう。そしてその威力に比例するように、その速度は残像すら見せるほど速い。
だがトロールはその高速の拳を、頭を横にずらすだけで避ける。
まさに紙一重。この個体、どれほどの技量を持つのか。イガルデの背筋を凍らせる。
直後、トロールの口がミチミチと音を立て、人の頭を丸かじり出来るほどの大きさに開くとイガルデ目掛けて迫る。
「フハハハハッ! 素晴らしいぃいい、ぞッ!」
だがイガルデは焦ることなく、迫るトロールの頭部に手を添え、そこを基点に体を捩る。体を横に回転させ、トロールの噛み付きを今度はイガルデが紙一重で避ける。
イガルデが反撃とばかりに手刀をトロールの頚元に放つ。確実に当たると思われたそれは、トロールの頚が不気味に横へとずれ、失敗に終わる。その不気味な動きは頚を無理やり筋肉で動かしたようなものであった。果たしてどれほどの筋肉を持っているのか。
次の瞬間、トロールがイガルデとは無関係の後ろへと向かって、身体ごと回転させるように棍棒を振るう。
その先にいたのはバルドゥル。イガルデを囮にする形で意識外からの一撃を与えようとしていた彼だったが、それは既に察知されていた。
「ちぃぃいい――めんどすぎくっ、ねーか?」
バルドゥルの長剣とトロールの棍棒が勢いよく衝突する。一見すれば確実に長剣が折れてしまいそうな絵だが、そう簡単に折れることはなく、むしろ防御側であるバルドゥルはその攻撃を一瞬持ちこたえ、瞬時に受け流す。弧を描くように離れていく棍棒。
敵の咄嗟の行動に自身も咄嗟に合わせる。バルドゥルは瞬時に敵の行動を理解していた。
バルドゥルは自身のイメージ通り、背後スレスレでトロールの攻撃を避けることに成功する。
「あっっ、ぶねえぇえー。ちょっと舐めてたあー」
冷や汗を一滴額に流しつつ、バルドゥルは間合いを取り直す。
即死級の一撃が、自分の数ミリ程度の先を通過して行くなか、恐怖を感じない者など何れ程いようか。しかしその恐怖を最小限にまで抑え込む二人。突出した才能は、肉体面だけには留まらない。
一瞬の空白。互いに戦闘能力の高さを理解したのかトロールも、そして二人も、どちらも攻めあぐねていたその瞬間に、ソレは発動した。
「――『フレイムブレイド』!」
呪文を唱えたのはアデル。僅かな隙間を狙い発動したその魔法は、小型の円型の炎を発現させる。それが五つ。
放たれたそれは、トロールの喉を目掛けて高速で飛来する。通常の魔物であれば、間違いなくその五つの刃に八つ裂きにされていたであろう。
しかしこの魔物――明らかに、通常ではない。
アデルの奇襲に僅かな動揺さえ見せずに紙一重で刃を避け、それどころか棍棒で壁を粉砕し、その欠片をイガルデとアデル、そして後ろに控える冒険者達に放つ。
「フンヌッ!!」
「――『簡易防壁』!」
イガルデは魔力を全身に巡らせている故に、礫ごときでは掠り傷すらつかない。アデルは咄嗟に防壁を張り、散弾を後ろの冒険者にも行かないよう配慮した防御を取る。
――その直後、イガルデが痺れを切らしてトロールに突進する。
「フハハハハハハハハ、いいぞぉおおお! もっと、もっとだ!!」
死を目の前にしてもなんら揺るぐことのないその戦いへの欲求。正面から正々堂々とトロールに挑むのは、イガルデとは言え無謀にも程があった。
だがその無謀を想定し、備え、利用する事が出来るからこその『クライシス』。
そしてそのリーダーであるハデルバートは、既に動いていた。
「――『スカイライン』」
ハデルバートが、空を駆ける。
両手は大剣を握り締め、トロールを空中から両断しようと突進する。
「――『マッドバインド』」
トロールの足元が沈む。
バルドゥルだ。この時のために密かに構築していた拘束魔法。
この手の魔物は基本的に視覚や聴覚、嗅覚などで攻撃を察知している。鋭すぎる感覚を駆使し、高速で飛来する物体すら容易く避ける。そしてそれを可能にするだけの並外れた身体能力。
しかし逆に突然発生するこのような拘束魔法には得てして弱い。
そして正面切って上下から迫るイガルデとハデルバート。どちらかを迎撃すれば確実にどちらかの攻撃を食らう。この短い戦闘中にイガルデの拳の破壊力は尋常ではないと本能的に理解していたトロールだが、空から向かってくる敵が明らかに危険だと、こちらも生存本能が叫ぶ。
――ならば同時に叩き潰せばいい。
そう思考したのかは分からない。しかしトロールは棍棒を振り上げ、上下の二人共々叩き潰すべく動く。
「バカが……!」
振るわれた棍棒。それをハデルバートは振り上げる様に大剣を棍棒に叩き付ける。それだけではない。絶妙なタイミングで威力を別方向に受け流す。
ハデルバートの威力は削がれ突進は止まるが、イガルデは止まらない。放つはその巨大な拳。ただの拳ではない。その拳は鋼鉄の盾すら容易くへし折り、魔物をあまりの威力で爆散させるだけの威力を持つ拳。
特大の弾丸だ。
「ギャィエエエエエエエエエ」
魔物の咆哮と疑いたくなる様な叫び声を上げるイガルデ。それは自身の渾身の拳が炸裂したことによる歓喜。そして確実なる殺意を籠めて。
「ジャアアアアアッッ……」
拘束を破壊し、一メートルほどそのままの体勢で吹き飛んでいったトロール。
イガルデの拳はその激しさとは裏腹に確固たる技術を帯びている。古代より伝わる最強の武術『極技』。その武術の本質は威力は逃がさないことにある。あまりの習得の難しさから継承者が殆どいないこの武術。それを操るのが『クライシス』がメンバーたるイガルデ。
まだまだ完成の域には遥か遠い。しかしそれでもその効果は圧倒的だった。
トロールは白目を剥き、口から血の泡を噴いている。
それを冷静にハデルバートが留めを刺しに、首を目掛けて大剣を振るう。
「これで終わりだ」
大剣が横に振るわれ、勝利を確信した直後だった。トロールの腕が首と剣の間に入り込む。
腕の筋肉が膨張し、硬度を増しているのが分かる。
「なッ!」
そしてそれは立派な盾としての役割を果たし、大剣をギリギリで食い止める。
「ジィウイイイイイウイイイイウバババババババババババ――――」
「フンッ!」
ハデルバートが更に力を籠め、腕を切断するのと、トロールが絶叫するのはほぼ同時だった。
「しまっ……! 畜生が! お前ら、撤退だ!」
手負いのトロール。あと一撃入れれば容易く倒れそうな魔物相手に、撤退を命令するハデルバート。
過程を見れば、『クライシス』は善戦したと言えるだろう。
圧倒とまでは行かないが、それでもその過程に問題は殆どなかった。
しかしそれでもミスはしてしまった。そう――喉を潰せなかったというミス。トロールはオーガと同じ程度の力しか持たない。
にも拘らず、冒険者達からは非常に忌み嫌われている。それはトロールに備わる特殊能力に依る。『クライシス』が戦ったこのトロールは明らかに通常のトロールとは一線を画していたが、それでも特殊能力の危険性と厄介さは変わらない。
こと厄介さにおいては、トロールは叫ぶ事によってその真価を発揮する。人外の力でも突進でも加速でもなく、トロールの一番の武器はその声帯だ。危機を感じたその時、本能的に発するその叫び声である。
――悲鳴を上げる同胞。
助けなくては。何でかは分からない。この声を聞いたのならいてもたっても居られない。
そうでも言うように、続々と足を進める化け物ども。トロールの叫びは迷宮中に響き渡り、そして魔物を一挙に呼び寄せる。それがトロールが忌み嫌われている所以。最悪の特殊能力。
「や、や、やばいぞ!」
「オルガン、話が違う!」
「あんな化け物がいるなんて聞いてないぞ……!」
そしてそれに伴い、青かった顔を更に青ざめさせるオルガンに従ってきた冒険者達。彼らが目撃したトロール対『クライシス』の戦いは明らかに自分達が踏み込んでいいレベルを越えていた。
圧倒的な実力を目の前で見せ付けられたオルガン率いる冒険者達は、早くも瓦解していた。
「や、やめだやめだ! 俺は抜ける、抜けるぞ!」
その一言を皮切りに、集まっていた冒険者達が恐怖に駈られて一斉に逃げ出す。
一部の手練れを残して、我先にと出口へと走り出した。
「急げ、ここにいるのは不味い!」
恐慌状態に陥らなかった他の冒険者も、ここに残る愚策は選ばず、警戒を怠らずに出口へと走り出す。
――ただ一人、ベェネを除いて。
ベェネ・オルグレリア。
二本の剣を腰に携えた、凶悪な目付きの青年。
「な、何をする気だ、ベェネ!?」
その奇行を見たオルガンが叫び声を上げる。
「俺がここで敵を引き付ける。先に出口へ向かえ」
それに対して冷静な口調で返すベェネ。まるで危機を感じさせぬ雰囲気。
「だ、だが……!」
「そうです、ここに留まっては死にますよ!」
見かねたアデルが警告を発するがベェネは鼻で笑う。
「バカが。ここで向こうから来る魔物を止めねえとお前らが挟み撃ちを食らうだろうが。俺が殿を勤める。俺のことは構わず、行け」
ベェネの覚悟の籠った言葉に、アデルやオルガンは決意を固め、走り出す。
一人残されたベェネ。その表情は明るい。抑えきれない悦びが溢れ出てきているのだろう。
「俺の予想通りなら、ここから先は予定通りだ。随分と計画よりも早いが、むしろ好都合。……にしてもよぉ。二度目だな、でけえの。折角の豪華なディナーだ。ちょうどいい、前菜ついでに――摘まんでやるよ」