迷宮レベル26 『眷顧隷属』
盗賊達にエールの代わりとして、特別性の薬品を与えた後、最深部に戻ったフィルはある準備に取り掛かっていた。
フィルが行うその行為は、端から見ればただ地面に紫色のペンか何かで、適当に落書きをしているだけの様にも見える。
しかし、単純な作業のように思えるそれは、実際はそれとは真逆に酷く繊細さが求められる、云わば非常に精神に負担を掛ける必要があるものだ。
ただしそれは、もしも一般人が行おうとすればの話であって、今現在フィルはなんら精神的負担を抱えてはいなかったのだが。
「……こんな、ものか」
フィルが描こうとしているのは魔法陣。
もちろん魔法陣とは云っても、そんなもの数だけ見れば文字通り山ほどある。
そんな中で、フィルが選択した陣は、まずある地点を軸とし、その回りを一分の誤差も無いように、円を描く。
そしてその内部に様々な術式を更に描く。といった、聞いただけならば至極簡単そうなものだ。
しかしそれは完全なる間違いであり、その難易度は異常に高い。
その上内部に書かれた呪文の一文字でさえ、どれ一つとっても普通の魔術師ではまず描くことすら不可能なものばかり。
その理由に、描く際の精密さ、術式の難解さといったものももちろん上げられるが、第一の理由はその術式の秘匿性にあるからだ。
そもそも魔法陣とは、そこに予め術式を組み込んでおくことで、戦闘時に無詠唱で強力な魔法を放つ事を目的とした短縮型の魔法陣と、様々な術式を組み合わせ、召喚や結界、創造などに使用する持続型の二つに分ける事が可能だ。
短縮型の魔法陣は、主に魔法武器などに内装されており、強力な一撃で魔力が切れ、充填までに暫くの時間が掛かる単発式。
もしくは細やかな攻撃だが連撃が可能な連発式。
この二つのタイプが短縮型の魔法陣で代表とされるものだ。また短縮型の特徴として、製作にそこまでの労力と時間を掛けなくても済む。
だが持続型の魔法陣は、短縮型のものとは完全に異なり、魔法陣を地面に書き込むため、その場に留まる必要が出てくる。
また労力と時間も必要で、臨機応変がモットーである冒険者達にはあまり好まれたものではない。
更に云えば発動条件として、ある魔法が必要であり、その魔法が使えなければいくら努力して魔法陣を完成させたところで無意味、といった場合もある。
その必要となる魔法は様々で、下級魔法の部類に入るものから、最上である超越級魔法の部類に入るものまで。
しかし例え上級魔法まで使えたとしても、自然に使えるわけもなく、習得にはそれなりの時間をようするために、専門的な分野として確立されているのが現状だ。
この持続型魔法陣に共通していることは、召喚、結界、創造など、どれであっても、その後発動者は魔力を一定量供給しなければならない供給式。
発動してからは魔力を供給する必要のない自動式の二つが存在することだ。
「……これで完成か。漸く、だな」
暫くの間延々と描き続けてきた魔法陣が完成すると同時にフィルは、溜め息と共にそんな言葉を口にする。
そして、感動の間もなく呪文を唱え始めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――――悪魔とは。何か。
突然としてこんな事を聞かれれば、顔をしかめる人の方が多いだろう。
フィルも、いや、以前にフィルの肉体に宿っていた健全な精神の者も、そう聞かれれば同じ反応を示した筈だ。
だが、現在のフィル、この世界について詳しい今では違う。
悪魔とは、『魔界』と呼ばれる異空間に住み着く人ならざる者。
そして強力にして凶悪な、憎悪される生命体である。
だがフィルはそれを恐れなどはしていない。何故ならフィルは、それを自らの手で召喚しようとしているのだから。
「……来い。――『黒術師』」
すると、魔法陣が周囲を強烈な光で覆い尽くした。
そして光が徐々に収まると、そこには穴が開いていた。
魔法陣があった場所に開いた穴からは、ドロドロと、ヘドロの様なモノが小さく蠢いているのが見える。
そこから部屋全体に、この世のものとは思えない、嗅いだだけで失神してしまいそうな臭いが充満するも、フィルは顔をしかめることもせず、無表情に穴を見つめ続けていた。
突如、その穴から一本の黒い腕が伸び、地面を掴む。
その後すぐにもう一本、その腕が追加される。
地面を掴んだ二本の腕は、それを支えとし、自分の体を持ち上げた。
そうして、ソレがヘドロを這い出し、フィルを睨む。いや、睨む、という表現は間違いだろう。
ソレは体の一部なのかそれは不明だが、禍々しい、不気味さを感じさせる黒色のローブにより、顔が見えないのだから。
しかし普通とは違い、ソレのローブは覗き込んでも決して素顔は見えない。
確実に、影以外でも顔を隠しているのが分かる。
ゆっくりと、フィルが手をソレ――『黒術師』に近付いけて行く。そしてその手が触れるか触れないかの所で、フィルが後方に吹き飛んだ。
いや、正しくは黒術師の突進により、壁に叩き付けられたのだ。
更に黒術師と呼ばれたソレは、右手にバチバチと、電流を迸らせる。
そしてフィルの頭目掛け、それを容赦なく――放った。
その結果、フィルの体に電撃が叩き付けられ弾ける。その余波と飛び散った電撃で、部屋の内部が破壊されていく。
通常ならば、食らっただけで致命傷を通り越して消し炭になっていもおかしくはない一撃にフィルは、
「……はしゃぐな。誰が、部屋を直すと思ってる」
無傷。であった。
あれだけの攻撃を受けたというのに、その漆黒のローブにさえ、傷一つついていない。
それどころかお返しだとばかりに、フィルは掌底を黒術師に放つ。
それを食らった黒術師は、直線上にある壁まで吹き飛び壁にめり込んで漸く止まる。
しかし黒術師は、膂力を駆使してすぐにそこから脱出する。
その黒い顔面部分は、やはりフィルを見つめたままだ。
このまま膠着状態が続きそうな空気の中で、それを破り動いたのは黒術師であった。
フィルに向かって駆ける。駆ける、とは云ってもその速度は人間を遥かに越えた速度。
そこに先程の電撃を撃つ構えを取り、それに応えるように電流が再度迸る。
狙いは再度頭。
黒術師が頭を狙うのが、そこが急所と知っていてか、それとも本能でなのか、それは分からないが、結局攻撃が迫っているという事実は変えられない。
フィルは手袋をしたまま手を開くと、黒術師の拳を丁度飲み込む様な形で受け止めた。
そこから電流がフィルに流れるも、フィルに動じた様子はない。
逆に左手を握り締め拳を作ると、黒術師に向かって拳を振るう。
フィルの拳が黒術師の胸に吸い込まれると、爆発音にも近しい音がなり、それとほぼ同時に黒術師は後方に勢いよく吹き飛びそうになる。
が――先程受け止められた拳をフィルが握り締めているため、そうはいかない。
代わりに衝撃が逃げようと横方向にズレると、それを利用して黒術師を先程フィルが叩き付けられていた場所へと、今度は逆に叩きつけた。
その衝撃故か、今までの活発的だった姿は見る影もなく、動かせないのか随分と大人しくなっていた。
念のためか、更にそこへと今度は蹴りを入れた後、黒術師に近寄る。
そしてフィルは、衝撃により動けない黒術師の頭を手で掴むと、口を開く。
「……私に、従え」
この世界には、『スキル』。と、そう呼ばれる正体不明の才能がある。
持つかどうかは運次第。種類は非常に多く、その効果も様々だ。
大人数が持つスキルもあれば、極少人数しか持たないスキルもある。
その中に、世界でただ一人。そう、ただ一人しか持ち得ない、特別なスキルをがある。
――ユニークスキル。
絶大な効果を持つこのスキルだが、この世界では未だ一般的には知られてはいない。
その理由として、スキルそのものを持つ者の絶対数が少ない事などが上げられる。
また、スキルの効果自体が異質なものが多いのも理由の一つであろう。
そんなユニークスキルを、フィルは持っていた。
そしてそれは決して幸運などではない。本来、ユニークスキルを持つかどうかは運の要素が最も大きい。
しかし例外的にある統計は物語っていた。
――異世界からの者がユニークスキルを持つ可能性が、圧倒的に高いことを。
そして、それをフィルは知っていた。いや、正確にはフィルの迷宮核の記憶の持ち者が。
だから、そのために、フィルを召喚したのだから。
「――【眷顧隷属】」
――【眷顧隷属】。
フィルの持つユニークスキルの名だ。
その効果は、対象を自身に忠誠を誓わせ思いのままに操り、そしてその対象にユニークスキルを与えるという、破格の能力。
しかし制約として、その能力の使用回数は無限ではなく三回のみ。更に知能が一定以下、言語能力を持たない生物にのみと制限がかかっている。
また自身には能力は使用出来ず、他者にのみ。
フィルの知る限り、この能力は大して良いのではないが、それでもフィル自身はこの能力を最大限に生かせたと思っている。
「……では、貴様には名前をやろう。――――物事の始まり、起点を意味する『ゼロ』と。……跪け」
その言葉に従い跪いく黒術師――ゼロを前にフィルは溜め息を吐く。
「……それにしても、僅かに魔法陣の構成に失敗していたな。面倒だが、後で少しばかり、調整するか」
魔法陣に、僅かに入ったズレ。これが召喚されたゼロがフィルに襲い掛かった理由。
本来であれば、あのまま大人しくしている筈だったのだが。
「……まあ、今のところではあるが、計画は順調だ。取り敢えずは、良しとするか」