五章 満月の下で
湖の岸辺に這い上がったラドは、じっとりと重たい視線をエリオスにぶつけていた。
その場に正座したエリオスはうなだれている。
ラドはさっそく文句を言った。
「お前のせいで、木椀だけでなくお玉まで流されちまっただろ。あれ、気に入ってたのに」
「すみません、弁償します……」
「当然だ。――で?」
ラドは服の裾をしぼりながら、エリオスに問う。
「何でまた追いかけてきたんだ。それに、どうして私がここにいるって分かった?」
もうエリオスは来ないだろうと思っていただけに、ラドは正直驚いている。行先を告げていないのに、辿り着いたことも不可解だ。
「居場所は分かりますと前にお話したでしょう? 失せ物探しの魔術です。ラドの本名を知っているのでそちらは楽でした」
「……神官と魔術師には名乗るもんじゃないな」
魔術を扱える人間なんて滅多といないが、ラドは次からは気を付けようと肝に銘じた。
そこでラドはエリオスの顔色に気付いた。目の下に隈が出来ていて、どこかげっそりしている。
「まだ体調が悪いのか? 病人みたいな顔をしてる」
「いえ、病み上がりで無茶をしたせいです。ラドが私を置いていかずに、ゆっくり休ませてくれれば治ります」
「……言うようになったな」
強気に出てきたエリオスに、ラドは苦い顔になる。そして後ろ頭をかく。
「あのなあ、あんたには家族がいるんだ。もっと自分を大事にした方がいい。私のことは気にするなと言っただろ。放っておいてくれ」
「嫌です。めいっぱい気にします」
エリオスは不機嫌そうに答えた。
ラドは苦笑を深くする。エリオスは、自分が体調不良で倒れている間に、ラドが出ていったことを怒っているのだろうと予想がついたせいだ。ちょっとは気にしていたので、ラドはあっさり折れた。
「分かった、悪かった。挨拶もなしに出て行って申し訳ないことをした。あれだけ世話になっといて、一言も言わないなんてそりゃ誰でも怒るよな。でも、この呪いは解ける見込みがないって師匠が言うから、これ以上負担になりたくなくてだね」
「挨拶がなかったことや置いていったことを怒っているわけではありません!」
エリオスはきっぱりと言った。
「私はですね、ラド。あなたのその小心者のくせに意地っ張りで頑固で、寂しがり屋な癖して、人と距離を置きたがるような訳の分からない性格も全部含めて、人として好きなんです。あなたが嫌がろうが知ったことではありません。私は関わりたいと思えば関わります。めちゃくちゃ気にしますし、責任も感じます。だからそうやって、自分には価値がないんだって決めつけて、諦めるのをいい加減やめて下さい!」
ものすごい勢いでまくしたてられて、ラドはぽかんとした。
「わ、訳の分からない性格……」
じわじわと言葉の意味を飲み込んでいると、エリオスは湖の方に目を向けた。
「あ! 満月!」
衝撃を受けているラドを放置して、エリオスは声を上げた。
つられてそちらを見ると、東の空に浮かび始めた白い満月が、水面に光を反射させている。
エリオスは嬉しそうにガッツポーズをした。
「良かった、間に合った! ああ、そういえば、あなたを追いかけてきた理由を話していませんでしたね。呪いを解く方法を見つけたんですよ!」
「……見つけたのか?」
ラドはエリオスをまじまじと見つめて確認する。最悪の事態を覚悟していただけに、なんだか拍子抜けだ。エリオスは深く頷いた。
「ええ。あなたはコーエン様の話を鵜呑みにして、私の話なんてちっとも信じてくれていませんでしたが、方法はちゃんとありましたよ。苦労しました」
「……悪かったって」
笑顔なのにチクチクとした言葉を口にするエリオスに、ラドは渋々謝る。でもとエリオスは断る。
「解けるかどうかは五分五分なんですけどね」
「どういうことだよ」
ラドは怪訝な顔で問う。すると何故かエリオスは気まずそうにして口ごもった。
「それは……イエスかノーしかないので」
「は?」
「とりあえず!」
急にエリオスが大きな声を出して、ラドの質問を遮ったので、ラドは目をしばたたかせる。彼は真面目な顔で切り出した。
「一緒に来て頂けませんか? それで、出来れば怒らないで頂けると嬉しいです」
「よく分からないが、行くのは構わないよ。怒るかどうかは、後で考える」
「うっ後でですか?」
ラドの返事に、エリオスはひるんだ様子を見せたが、ややあって頷いた。
「……まあいいでしょう」
覚悟を決めた様子のエリオスを、ラドは首を傾げて見やる。いつもと違って、歯切れの悪い返事だ。
「で、どこに行くんだ?」
「湖の真ん中の方です」
「え? 船なんかないのに、どうやって行くんだ。悪いけど、私は泳げないから……」
「私も大して泳げませんよ。神殿で生活をしていて、泳ぐ必要がありませんからね」
エリオスのその答えに、ラドはほっとした。ではどうするのだろうと辺りを見回していると、エリオスは湖の縁に膝をついて呪文を呟いた。
「うるわしい水の竜よ、ここに顕現せよ。――〈水竜〉」
すると目の前の湖の表面にさざなみが立ち、渦を巻いて水の竜が頭を持ち上げた。それはそのまま水の中へと潜ってしまう。
「おい、いいのか、エリオス。今の蛇みたいなの、どこかに行ってしまったぞ?」
ラドの問いに、エリオスは首を横に振る。
「いえ、そこにいますよ。船の代わりをしてもらうので。それから蛇でなくて竜です」
「そうそう、竜な。船の代わりか……?」
「ええ。こちらです、ラド」
戸惑っているラドに左手の平を差し出すエリオス。ラドが湖とエリオスを見比べて動かないでいると、結局エリオスはラドの右手を取って引っ張った。
「だから私は泳げないって!」
「船の代わりだと言ってるでしょう。ほら、満月が雲に消えてしまうではありませんか! 急いでください」
エリオスは湖へと踏み出した。ラドも再び飛び込む覚悟で前進したが、何故か足の裏に地面があった。
「何だ、どういうことだ。水の上に立ってる!」
仰天するラドに、エリオスは笑い混じりに説明する。
「水の竜の背中ですよ」
「いや、何で水で出来てる竜の上に立てるんだよ。水なんだろ?」
「魔術で呼び出した時点で、ただの水ではなくなるからです。詳しく聞きたいなら後でじっくり教えてあげますから、今は急ぎますよ」
「わっ」
急に足元の地面が動いたので、ラドは慌ててエリオスの腕にしがみついた。
「そんなに構えなくても落ちませんよ。背中が広いので」
「どこまでが背中か分からないから困ってるんだろう! 私には普通の湖にしか見えない!」
「そうですか、少しも見えないとなると、ラドには全く魔術の素養がないのですね。それは失礼しました。……あ、着きましたよ」
ラドの抗議を、エリオスはどこか上の空で聞き流した。真面目な顔を見るに、考え事に忙しいらしい。
ひとまず動きが止まったことでラドはほっとする。二人がいる場所は、ちょうど満月の光が水面に映り込んでいる所だった。
「膝辺りまで水に浸かる必要があるので、少し沈みますよ」
エリオスがそう断ると、足元の見えない地面がゆっくりと下がり、膝辺りでぴったりと止まった。
「これでどうするんだ、エリオス。そもそも何で満月が関係してるんだ?」
「満月の光は強いパワーを秘めています。空からの光だけでなく、水面に映った満月の光も使うことで術の効果が増幅します。あの魔物に呪いを受けてから、あなたの左目の色が金色に変わったでしょう? 同じ金の色の力で呪いを相殺するんです」
「相殺? 何となく分かったけど、それで私はどうするんだ。ここでじっと座ってればいいのか?」
説明を聞いたところでラドにはパワーだの術の効果だのはよく分からない。要点だけ分かればいいかとずばり聞いてみると、エリオスがまた微妙な顔で黙り込んだ。
ラドは眉を寄せる。
「さっきからなんなんだよ、お前。なんだか知らんが、さくっと終わらせてくれよ」
「……分かりました。あの、怒らないで下さいよ」
「だから、場合によるって言ってるじゃないか、さっきから」
首をひねって返事をする。エリオスはうつむいて深い溜息を吐き、顔を上げると真剣な表情になった。
ようやく呪いを解くらしい。ラドもまた身構える。
「ラド――いえ、ラディア。愛しています」
「へ?」
エリオスの言葉にきょとんと瞬いたラドの口に、柔らかい感触が落ちて、すぐに離れていった。
ラドは唖然とエリオスを見たまま、ぱちりと大きく瞬く。
「……今、何した」
「言わないと分かりませんか」
やっぱりどこか気まずそうに、でも耳を赤くしてエリオスが問う。
ラドは混乱していたが、表面上は冷静に問う。
「質問を変える。何でキスしたんだ?」
「憎悪の呪いは、愛によって溶けて消えるのです。昔からよく言うでしょう、王子のキスで、姫が目覚めるとかなんとか」
「それはお伽噺だろっ」
ラドはがっくりした。呪いを解く方法がお伽噺に由来しているなんて、期待して損をした気分だ。
「まあまあ、ちょっと確認させてください」
眉を吊り上げるラドを宥め、エリオスはラドの右目に巻いている包帯を解き始める。
「いや、絶対に嘘だろ」
ラドは気恥ずかしさを誤魔化す為にぶつぶつと呟きながら、眩しさに目を細める。まじまじとラドの目を見た後、エリオスは今度はラドの左手に触れた。
「ちょっとすみません、こちらはどうですか? 力を込めて握ってもらっても?」
「握手ってことか? ――ん?」
エリオスの右手を握ってみて、ラドは違和感を覚えた。力いっぱい握ってみる。エリオスが悲鳴を上げた。
「いたたたっ」
「嘘だろ、普通に動けるようになってる。え、本当にこんなんで呪いが解けたのか?」
「痛いです、ラド。もういいです、分かりました!」
「あ、悪い」
ラドは謝って手を離した。
感激のあまり、容赦なく握ってしまった。ラドは剣を扱う為、普通の女性よりも握力が強いのだ。
「まったく、加減ってものを……。はあ、もういいです。それより喜ばしいことがあります」
右手を軽く振ってから、エリオスは心から嬉しそうな笑みを浮かべる。
「この解呪は、両想いでないと無理なんです。ラド、あなたは私のことを少しは好きでいてくれたのですね!」
「……はあ? 両想い? 好き?」
ラドはぴしりと固まった。
さっきの会話をふと思い出す。
「イエスかノーしかないって、そういう意味かよ!」
「ええ、ええ。その通りです」
何度も頷いて、エリオスは肯定する。ようやく意味を飲み込むと、ラドは流石にうろたえた。
「ちょ、ちょっと待て。私は別に、お前のことなんか好きじゃなっ」
「これ以上の告白の答えはありません。ありがとうございます、ラド。私はとても嬉しいです!」
「おい、人の話を聞けって……うわっ」
感極まっているエリオスは、ラドの言葉を遮って、ラドをぎゅっと抱きしめた。
さしものラドも顔を赤くして慌てる。
「ちょっ、おい! ――調子に乗るなっ!」
焦った挙句、ラドは思い切り右手を振り上げた。