四章 湖で再会
イグリッツで三日滞在した後、ラドはイグリッツの商業ギルドで荷運びの仕事を引き受けて、断崖の町サラエリへ向けて旅立った。
北へ続く石畳の街道はサラエリへの一本道だ。その上を歩いていると、前方から三騎の馬がこちらに向かってくるのが見えた。ラドが道の端に寄ると、三人はラドの傍で馬を止める。一番後ろの馬に付けられている旗を見るに、彼らはこの領の衛兵のようだ。
「旅の者か? こんな時期にサラエリに何の用だ」
衛兵は不審そうに問う。サラエリは春祭りが有名だが、その時期は過ぎているので、訪問客は少なくなっている。
ラドは事情を察して、愛想良く笑って返した。
「これは衛兵様、お仕事お疲れ様です。ええ、私は運び屋でして、これからサラエリへ手紙や小包を運びに行くんですよ。そのついでに、おいしい魚料理を食べていこうかと」
サラエリの町のすぐふもとには、エレオラ湖がある。魚料理が評判だとイグリッツのギルドで噂に聞いたのだ。ラドの答えに彼らは納得したようだ。
「そうか。今の時期は比較的安全だが、盗賊が出ることもある。気を付けて行きなさい」
衛兵達は忠告すると、馬を駆って移動を再開した。彼らを見送ると、ラドは石畳の上に戻る。
(巡回か……。真面目な騎士様だな)
衛兵にも色んな者がいる。領主の目が届かない範囲なら、サボっている者の方が多い。この辺は治安が良いのだろうなと思いながら歩みを再開した。
そして途中で野宿を二回したところで、ようやくエレオラ湖に到着した。
夕日でオレンジ色に輝く湖は美しい。対岸には切り立った崖があり、その上に町が見えた。鐘の音が微かに聞こえてくる。
船の渡し場まで来たのだが、船頭の姿はない。湖を迂回する道もあるが、この時間帯では町に着く前に夜になるだろう。
(今日はここで野宿するか)
ラドは辺りを見回して、寝床に良さそうな場所を探す。
(街道から少し外れた……うーん、この辺りなら安全かな?)
渡し場から少しだけ奥に入った平地を野宿場所に決めて、背中の荷物を下ろす。暗くなる前にと急いで近場に落ちている木の枝を拾ってきて、焚火をおこした。
虫除けになる野草を見つけたので、枝と一緒に火に放り込むと、つんとした独特な香りが漂った。
ラドは火の世話をしながら、ふとエリオスのことを思い出す。
(そういやあいつ、このにおいが嫌いだったな)
結局、しかめ面をしながら慣れていたが、野草を燃やしている時は火の傍から離れていた。
「はあ。何でまた思い出してんだ、まったく」
ラドは嫌な気分になって溜息を吐く。
(これだから、誰かと関わるのは嫌なんだ……)
ラドは人嫌いだが、師匠オーラクシルの元を旅立ってから、ずっと一人きりだったわけではない。時に隊商と旅をしたり、芸人の一座と共に進んだりすることもあった。そもそも一人旅は危険なのだ。ほとんどの者は集団で動く。
だがラドは結局、一人を選んだ。
集団の中には気の良い人もいるけれど、嫌な目に遭わされることもある。自分の身を守る為とはいえ、常に誰かを警戒しているのは疲れるものだ。相手が嫌な奴だったらまだ良いが、人の好い者の時は、疑っている自分に嫌悪感を抱くことになる。
そういった感情とともにい続けるのは、ラドの性に合わなかった。それならば危険でも一人でいる方が気が楽なのだ。
「暗くなる前に、食事の用意をしておくか」
気を取り直し、ラドは鞄から小鍋を取り出して、湖の水を汲んだ。適当に石を積んだ炉に鍋を置いて火にかける。
水辺にいる時は、簡単なスープを作るようにしている。調味料と干し肉、乾燥ハーブを放り込めば、ささやかなご馳走の出来上がりである。
今日はイグリッツで買ったパンがあるので、スープに浸して食べれば充分だ。安いパンなので、すっかりカチコチになっているからちょうどいい。
早めの夕食を終えた頃には、夕日は沈み、地平線に淡いオレンジの光を残すのみとなっていた。
使い終えた食器と鍋を水で洗おうと、ラドは湖の淵にしゃがみこんだ。いつもの調子で左手を使おうとして、鍋を取り落す。
「……うわっ」
慌てて右手で鍋を掴むが、今度は木椀が水に落っこちた。
「ああ……何やってんだよ、私」
水面に浮かぶ木椀を見やる。
鍋を片手で持つのもつらい状況になっていることに初めて気付いて、右手で何となく左腕を撫でてみる。
「厄介な呪いだな、まったく」
溜息を吐くと、軽く鍋を水で洗ってから、焚火にとって返してお玉を拾う。幸い、木椀は近い場所に浮いたままだったので、お玉を伸ばして引っ掛けた。手元に手繰り寄せようとした時、背後で茂みの鳴る音がした。
「やっと追いつきましたよ、ラド!」
「え!?」
驚いた拍子に、体が傾いた。
バシャンと激しい水音が耳に届いた時には、ラドは頭から湖に飛び込んでいた。
水に落っこちたと気付くや、ラドは慌てた。
この湖の深さがどれくらいなのか、確認していなかったせいだ。
(あれ、足がつかない! 待て待て、落ち着け)
ラドは実をいうと泳げない。水に恐怖は無いが、水底が見えるかどうかで気の持ちようは大きく変わる。
軽いパニックになってもがいていると、左腕を引っ張られた。一歩ずれた辺りの岩に足が届いて、水面に頭が出る。ラドは必死に縁にしがみついた。
「げほっげほ、ごほっ」
飲み込んだ水のせいで咳き込んでいると、焦った様子でエリオスがラドの背中を叩いて謝る。
「すみませんすみません、本当に申し訳ありませんでした。驚かせるつもりはなかったんです、ようやく追いついて嬉しくてつい!」
息つく間もなく謝罪の言葉を並べる彼を、ラドはぜいはあと肩で息をしながらにらむ。
「……エリオス」
「は、はい。何でしょうか」
ラドの目が据わっているのに気付いたのか、エリオスの顔が引きつる。
「この疫病神! いい加減にしろよ、エセ神官!」
思い切り怒鳴りつけると、エリオスは肩をすくめ、そして気まずそうに目を逸らしたのだった。