二章 彼女は未だそれを知らない
森の間の道を、幌付の荷馬車がゆっくりと進んでいく。
荷が空なので、その歩みは速い。
ゴトゴトと揺れる荷台の端に座ったまま、ラドは梢の向こうの空を見つめた。鈍い灰色をした雲が垂れ込めているが、雨は降っていない。
今夜も天候は荒れるだろうかと考えていると、ふとこちらを見つめるアナベルの視線に気付いた。
「何?」
「ラドって傭兵なのかなって思って」
アナベルはラドの腰に下がる剣を見つめていた。
ラドは何となく愛用の剣の鞘に触れた。女でも扱える重さの、中型の剣だ。
「いや。剣は多少は使えるけど、これは自衛用だ。私の仕事は運び屋だよ。各地を転々とするついでに、手紙や軽い荷を運んでる」
「そうなの? なんか意外。その包帯、戦に行ってきたみたいだわ」
アナベルの指摘に、ラドは今度は左目の包帯に手で触れた。
「ああ、これか? これは怪我じゃないんだ。知人の神官を助けた代わりに、呪いを拾ってしまってね」
「呪い!?」
グランのぎょっとした声に、ラドは失言だったと口元を手で覆ったが、出てしまった言葉は取り消せない。妙な騒ぎになる前にと、急いで付け足す。
「安心して、周りには何の害もない。ただ、私の目が見えすぎて変なものが見えたり、ちょっと体が動かしにくくなっただけだよ」
「そ、そうか。すまん」
首をすくめて謝るグランを、アナベルが笑う。
「兄さんはこの図体でお化けが怖いのよ! 笑っちゃうわよね!」
「自分の力でどうしようもないものが嫌いなだけだ」
グランは取り繕ったが、さっきの態度を見る限り、本当に怖いのだろうなとラドは思った。しかも彼は小声で神に祈りまで捧げている。
呆れた目を兄へと向け、アナベルはラドに問う。
「〈セイラン〉から来たってことは、その知人はあの町の神官?」
「ああ。そこで数日世話になったが、呪いが解ける見込みは薄いというんで出てきたんだ」
「え、何で? 可能性があるなら賭けるべきよ」
「そいつが無理して倒れちまってな。潮時だと思ったのさ。もともと私はただの旅ガラスだ。神殿で世話になるなんて勿体ない話だよ」
ラドは苦笑した。
口うるさかったが、エリオスは良い奴だった。男嫌いのラドにしては、かなり長い時間一緒に行動出来たのだから、その点だけでもすごいと思う。
(あいつの調子が戻るまでは一緒にいれば良かったかな……)
体調を崩していたエリオスの様子を思い出しては、大丈夫だったかと考えてしまうとは予想外だ。こんなことなら、元気な時に堂々と出てくれば良かった。
「ねえ」
「うわ、何?」
声の近さに驚いた。アナベルがこちらに身を乗り出して、目を輝かせて断言する。
「その神官って男でしょ」
「え? ああ」
「やっぱり!」
アナベルは指をパチンと鳴らす。そして胸の前で両手を組んで、ほうっと溜息を零した。
「倒れるくらい頑張っちゃうなんて、愛としか言いようがないわ! ああ、素敵。ごちそうさま」
「はあ……」
何を言ってるんだ、この人。ラドにはアナベルの考えが理解出来ず、気の抜けた返事になった。するとグランが前の向いたままぼやく。
「ったく、何で女ってのは、すぐに恋だの愛だのに話を持っていくんだ? 恩人へのお返しだろ」
「うるさいわねえ。ね、ラド。その知人はあなたの性別を知ってるの?」
「ああ、女って知ってるよ」
「やっぱり! これは愛よ! 私、応援してるからね」
「いや……」
頬を上気させて言い募るアナベルを見ていられず、ラドはそっと目を逸らす。
(応援されてもな……。それ以前に、私の先が長くないんだ)
そんなことを打ち明けるわけにもいかない。
ラドは苦笑を浮かべるにとどめた。
裾を朱色に染めた空に、鐘の音が鳴り響く。
イグリッツの広場から聞こえているのだろう。少し遠いそれから、この町の大きさが分かるというものだ。
町を囲む分厚い城壁、その門を通り抜けると、朱色の屋根をした家々の向こうに、尖塔がそびえるのが見えた。鐘楼のようだ。
「閉門に間に合って良かったわね~」
アナベルがほうっと息を吐いて言った。
石畳の上を、荷馬車がガタゴトと音を立てているけれど、隣にいるラドには聞こえた。
「そうだな。あやうく門の前で野宿になるところだった」
ラドは先程通り抜けてきた門の方を見やる。衛兵達が門の大扉を閉め始めていた。重厚な見た目通りのようで、数人がかりで扉を押している。
彼らの頑張りを心の内でねぎらいながら、ラドは視線を町へと向ける。
山小屋から三日かけてやって来たイグリッツは、大きな商業都市といった雰囲気だ。城壁が立派なのは、裕福な商人が多い証拠だ。神殿都市としての清廉なたたずまいのある〈セイラン〉と違い、どこか雑多で、そして活気に満ちていた。
「アナベルが途中で休憩したいって駄々をこねなきゃ、もっと早くに着いてた」
御者をしているグランが、振り返ってアナベルに苦言を口にする。それに対してアナベルは嫌そうに眉をしかめた。
「うわっ、地獄耳ね。それに小言が多くて、姑みたいだわ。ヤだなあ、こんな男」
「分が悪くなると、話をまぜっかえすのをやめろ!」
グランはキッと振り返るが、家路に着く人で通りは溢れているから、すぐに前を見た。その背中に、アナベルはベッと舌を出している。彼女は荷馬車の後ろの縁に腰掛け、足をぶらぶらさせていた。
この通り騒がしい兄妹であるが、旅の供としては面白かった。
憎まれ口の叩きあいをしながらも二人は仲が良いので、朗らかな雰囲気がある。
しばらく大通りを進むと、グランは馬車を脇に寄せて停めた。
「ラド、宿ならここがオススメだ。安くて清潔、食事も美味い」
「そうよ、それに私の友達のお母さんの店なの。私の名前を出せば、良くしてくれるわ」
人の好い兄妹のすすめに、ラドは素直に従うことにした。見知らぬ町で、夜に宿を探し回るのは避けたい。
「ありがとう、ここにするよ。二人とも、同乗させてくれてありがとう」
「どういたしまして。物入りの際は、リコッツ商会をどうぞよろしくねっ」
アナベルはパチッとウィンクをした。
茶目っ気溢れる物言いに、ラドはつい噴き出してしまう。
「ああ、贔屓にするよ。ありがとう」
「あんたの言うギルドは広場の近くだから、明日はその辺を探すといいよ。それじゃあ、気を付けてな」
グランはそう言うと、軽く手を振ってから、再び荷馬車を動かした。
遠のく彼らの姿に手を振って別れると、ラドはさっそく宿に入った。
寝台とサイドチェストしかない狭い部屋だったが、清潔でベッドの毛布からは日なたのにおいがした。休むだけだから、何の問題も無い。不潔な宿だとダニがいてかゆくて眠れないから、綺麗ならば申し分なかった。
旅装を解いて、簡素な麻の寝間着でベッドに仰向けに寝転がる。
荷馬車に同乗させてもらえたお陰で随分楽だったが、ずっと座っていたから体があちこち強張っている感じがした。
手で肩をもみほぐしていると、ふいに思い出したのはアナベルの言葉だった。
「愛ねえ……」
ラドにとって愛なんてものは、過去の記憶に埋もれた遺物だ。優しい母の思い出に、温かいものがにじんでいる。
次に浮かぶのは、師匠オーラクシル・コーエンだ。彼女のひそやかな優しさは、もしかすると愛なのかもしれなかった。
「よく分からん」
男嫌いのラドに、男女の恋愛について理解しろというのが無理というものだ。
例えばレミアスへの庇護欲のようなものは分かるが、エリオスについては謎だ。その辺の男よりはマシといった判定が出てくる程度。
――それに、それに。お兄様はあなたのことが好きです。
別れ際のレミアスの言葉も思い出された。
なんとなく、聞かなかったことにして出てきた。
恋愛の機微に疎いラドでも、心の内に秘めていることを、他人が勝手に明かすのは嫌だろうなというのは分かる。
「何で私のことなんか好きになるんだ? 全くもって意味不明だな」
ラドはその辺りから不思議でならない。
自分自身が自分を嫌いなのに、そんな自分を他人が好きになるのがよく分からなかった。もしエリオスに告白されたとして、お前の目はおかしいんじゃないかと切り捨てていた自信がある。
「はあ、もうやめだやめ。終わったことだ、考えてもどうしようもない。とりあえずこの町には三日滞在して、また次に行こう。地図はっと」
鞄から地図を取り出したが、手が滑って床に落とした。途中、左手で掴もうとしたが、指がほんの少ししか動かないことに驚いて、唖然と右手を左腕に当てる。
ひやりとした恐怖が首筋を撫でていった。
自由に動かせなくなるというのは、思っていたより怖いようだ。
ラドは口を引き結び、地図を右手で拾い上げる。そしてベッドの上に広げた。
そして北にある町を選ぶ。呪いの広がる速度から考えると、その辺りでタイムリミットだろう。
断崖の町サラエリ。
深い崖があるので有名な町だ。墓にするならちょうどいい。
覚悟を決めたら、気持ちが軽くなった。
そうやすやすと死を選びはしないが、選ぶ自由があるというだけで気が安らぐ。
ラドは微笑んで、地図を仕舞った。