七章 星を一つ、胸に抱えて
「コーエン殿はもう出立されたよ」
翌朝、朝食の席に現れたラドに、シグエンが言った。
「へっ」
寝耳に水とはこのことだ。驚くラドに、シグエンは説明を付け足す。
「あなたによろしくと言付かっているよ。次の仕事場が決まったそうでね、すぐに発たなくてはならないからと」
「そうか……」
朝食を食べたら、二日酔いでゾンビと化しているだろうオーラクシルの面倒を見るつもりでいたから、肩すかしだ。
「師匠、元気でした?」
「ピンピンしておられたが」
「昨日、恐ろしく飲んでいたからな、いつもなら潰れてる頃合いなんだ」
「相変わらずの酒豪ぶりだな」
シグエンはたまらないとばかりに笑った。
その声が、神官達が一堂に集まる大食堂に思ったより響いた。アーチが組み合わされた柱の間に、テーブルが並んでいる。天井が高い為、声が響くのだ。シグエンは慌てて口を閉じ、気まずげに咳払いをする。
「どうしたね、その微妙な顔は」
「いや、久しぶりに会ったのに、酔っ払いの世話をして別れるって、なんか師匠らしくて。あの人は、こういう微妙な気持ちにさせる人なんだ」
普段は清々しく格好いい女性なのだが、ときどきみっともないというか情けないというか……。そこもオーラクシルの魅力なのだろうけれど。
ラドは小さく微笑み、シグエンに一礼する。
「伝言ありがとうございました。私は食事に行ってきますよ」
その場を離れようとして、ラドはまた足を止めた。
「そういえばシグエンさん、エリオスを見ませんでした? 話があるんですが……」
「いや、私はまだ会っていない。食事中にすまないね、君達。エリオスを見たか?」
シグエンはすぐ近くで食事をしている神官に問う。彼らは首を横に振った。
「いえ、私どもは食堂が開いてすぐからここにいますけど、まだ見ていませんよ」
「まだ書庫では?」
彼らに礼を言い、シグエンは眉尻を下げる。
「まったく困ったものだな。言い出すと聞かない上に突っ走るからな、エリオスは。きっと書庫だろう。呼んでこようか?」
「お構いなく。食事を終えたら、私から出向くよ」
「分かった。だが、書庫での大声は厳禁だ」
しっかりと釘を刺し、給仕係のいるテーブルへと歩いて行くシグエン。
(もう伝わってるのか……)
ラドがエリオスを探す為に、書庫で大声で名前を読んだのは周知のことらしい。
(名前を呼ぶのは最終手段にしておくか)
エリオスならともかく、シグエンに注意されては仕方がない。
ラドは広い書庫を思い浮かべて、今からうんざりしながら、食事を調達するべくシグエンに続いた。
*
書庫は相変わらず迷宮のようであったが、思っていたよりもすぐにエリオスを見つけた。
出入り口から程近い閲覧席にいる。机には本が積まれて塔を築き、メモに使っているらしい羊皮紙が散乱して、その間にエリオスは突っ伏していた。
「すごいな。本の間で遭難してる奴は初めて見た」
それか本の海に溺れているといえばいいのか。
ラドはエリオスの肩を揺さぶる。
「おい、エリオス。起きろ。お前に話がある」
何度か声をかけたが、返事は無い。
怪訝に思って、エリオスの顔を覗き込む。肌が赤くなっていた。額に手を当てると、かなり熱い。
ラドは溜息を吐いた。
「無茶しやがって……。ほどほどで良いと言ったのに、馬鹿な奴」
口では悪態を吐いたが、ラドの胸には温かい火が灯ったような感じがした。
ラドを助けようと、宣言通り全力を尽くしているエリオスの懸命さは、ラドの頑なさを生ぬるく包んで、ゆっくりとほどいていくようだ。
「ありがとう」
口元に薄らと微笑みが浮かぶ。
ときどき面倒だが、良い奴だ。
だが、ラドの為にここまでする必要はないように思える。エリオスなら、同じ力で、もっと多くの人を助けることが出来るだろう。
(潮時かな。良い合図だ)
ここを立ち去るにせよ、先にこの男を医者の所に連れていこうと考えて、ラドはエリオスの右腕を掴む。
ささやかな嫌がらせに姫だっこでもしてやろうかと思ったが、あいにくそんな力は左腕にはもう残っていない。
諦めて背負う。
ラドはそこまで力はないが、それでも剣士だ。女だが、背負うくらいの力はある。それにエリオスは男にしては軽い方だろう。聞いたら怒るか落ち込むかしそうだから言うつもりはないが。
廊下に出たところで見つけた神官に声をかけると、部屋まで案内してくれた。
エリオスの部屋は殺風景だ。
樫材の家具は立派だが、物が少ない。ベッドと書き物机、本棚やチェスト、クローゼット以外は、レミアスの部屋で見たような、二人掛けのテーブルがある程度で、その上に置かれた花の入った花瓶が、唯一の鮮やかな色彩を持っていた。
エリオスをベッドに寝かせたラドは、椅子に座って医者の到着を待っていた。だが医者より先に、報せを聞いたレミアスが駆けつけてきた。
「失礼します。お兄様が熱を出して倒れたって聞きましたが」
「ああ、その通りだよ。書庫で寝込んでたから拾ってきた」
「そうなのですか、ありがとうございます、ラド」
ベッドの傍へと近寄るレミアス。赤い顔をして眠るエリオスの様子を心配そうに見つめる。
「もうすぐ医者が来るから安心しろ、レミアス」
「はい……」
「悪いけど、話があるんだ。そっちに座ってくれないか?」
「お話ですか?」
ようやくこちらを振り返ったレミアスは、素直にラドの向かいに腰掛けた。ラドは頷いて、ちらりとエリオスを見やる。
「ああ。本当はエリオスに話すつもりだったんだけど、このザマだから、あんたに話しておく。――今日、ここを発つよ」
「え!?」
レミアスは大きな声を上げた。
そのことに驚いたように、慌てて口元を手で覆う。
「そんな……何故です? お兄様がこんなになってまで、呪いを解こうとしてますのに」
「昨日、師匠に言われたんだ。私の呪いは解ける見込みが低すぎるってね」
ラドの言葉に、レミアスは凍りついた。さっと青ざめた彼女は、頭を勢いよく振って否定する。
「そんなの嘘です! 呪いについては、私達神官の方が詳しいわ。何故、あの方の言う事を信じるのですか。時間ならまだあります、何も今すぐ旅立たなくても!」
悲鳴のような声を遮り、ラドは左手をゆっくり持ち上げる。
「実は黙ってたんだが、こっちの腕は、もうあまり自由に動かせないんだ。特に指はね」
「……え?」
レミアスの間の抜けた声が、部屋の中にぽつりと落ちた。彼女は信じられないという顔をして、震える手を伸ばして、ラドの左手に触れる。袖を押し上げ、包帯を解いた。
そこには、虎の毛皮のような、紫色の紋様が浮かび上がっていた。
「そんな……そんな……っ」
レミアスはぎゅっとラドの左腕を握った。爪がくいこんでいる様子を眺めたラドは、その感覚が無いことに気付いて、薄く笑う。
「どうやら痛みも鈍くなってるようだ」
「あ……すみませんっ」
慌てて手を離すレミアス。ラドは構わないと言い、右手で器用に包帯を巻き直す。結び目は歯を使ってとめた。
レミアスの青い目に涙が浮かび、頬を伝う。
はらはらと泣く天使のような少女に、ラドは告げる。
「なあレミアス。私は旅ガラスなんだ。自由に飛んでいてこそ、生きていると感じる。私は最後の旅に出るよ」
「嫌です」
レミアスはラドの左手を握りしめる。どこへも逃がさないという意思をこめて。
「私はあなたの手をここで離すのが怖い。ラド、あなたは糸の切れた凧のようだと感じていました。どこへ向かうか分からない。私は、兄とともに、あなたを地上へ呼び戻す糸になりたいのです」
レミアスはひたひたと涙を浮かべて、けれど強い光を宿した目でラドを見た。
その強さに、ラドはたじろいだ。
儚げでか弱い娘だと思っていた。それがどうだ、柔らかそうな彼女は、内に強さを秘めていた。この娘の美しさは外見ではなく、心の強さが表に出ているせいではないか、そんなことを思う。
「何故、そんなことを思う? 私はただの旅人だよ、レミアス。たまたまあんたを助けただけで、何か誤解しているんじゃないか?」
「何故? 悲しいことを言わないで。友を引きとめたいと思って何がいけないんです」
「……友?」
「そうです。あなたは私の友です。先にそう言ったのはあなたです!」
ラドは驚いていた。
あの祭りでふいに零れ落ちた言葉を、レミアスが思ったよりも大事に受け止めてくれていたことに。
「それに、それに。お兄様はあなたのことが好きです。ラドが他者を受け入れがたいと思っているのは分かってます。でも、お願いだから、私の、兄の気持ちを無視しないで」
涙を零すレミアス。
ラドの目蓋が熱くなり、気付けば雫がほろほろと落ちていた。
そのことに驚いて、テーブルの上に落ちた雫を凝視する。ややあって、口から飛び出したのは笑いだった。
「ひどいな、レミアスは。ひとまずエリオスの気持ちとやらは聞かなかったことにしておいてやる」
レミアスの顔がパッと希望に輝く。
「じゃあ、ここにいて下さるんですか?」
「いいや、それは駄目だ」
ラドはきっぱりと否定する。
そして、レミアスの頭に手を伸ばして、ポンポンと軽く撫でた。
「あんたの気持ちはとても嬉しかった。この心があれば、どんな暗い中を旅しても、胸の中に星があるのが分かるだろう」
じゃあ何で駄目なのだと言いたげに、口をへの字にして見上げるレミアス。悔しげな様子は可愛らしい。
「私のことは忘れろ、レミアス。エリオスにもそう伝えてくれ。あんた達はちょっとカラスに突かれただけさ。日が経てば忘れる。傷口がゆっくりと癒えるようにね。そして、あれは夢だったと思えばいい」
ラドは席を立ち、レミアスに一礼する。
「――では、失礼しました、レミアス嬢。私は旅に戻ります。もう二度とあなた方に会うことはないでしょう」
丁寧な言葉で壁を作って、ラドは部屋を出る。
そして客室に向けて廊下を歩いていると、後ろからレミアスの叫ぶ声がした。
「絶対に忘れません! あなたがどんなに嫌がったって、私はあなたの友達なんだからっ!!」
ラドは小さく吹き出して、聞こえなかったフリをして立ち去った。
星を一つ、胸に抱えて。