目黒太の憂鬱【文学】
目黒太の通勤風景を描きました。
目黒太は、新オフィスのある東京駅に向うため、東海道線に揺られていた。
しかし、その混み方はハンパではない。
自宅のある藤沢駅から乗り込んだ時は、新聞を広げられるスペースが確保されていた。
ところが戸塚駅から、どっどっと足音とともに大勢の人が乗り込んできた。辺りを見渡すと、人、人、人ばかりで彼の心を和ませるのは、金融会社の広告に写っている女性タレントの笑顔だけだ。
目黒の前に、通学中の女子高生二人が立っていた。静かな車内に、その二人組のヒソヒソと話す声が聞える。と思っていたら、突然二人して目黒の方を振り向いた。
――ホールド・アップ。
慌てた目黒は、吊り革が下がっている鉄パイプをつかむ。これで冤罪対策完了。
しかし、二人は目を合わせて笑い、何事もないように前を向いてしまった。
釈然としないながらも、この体格と極端に突き出たお腹を苦々しく思った。子供時代は健康優良児で通っていたが、三十路を過ぎればただのメタボ親父にしかない。そのせいか、体温は急上昇して、額に薄っすらと汗が滲み出している。
電車は横浜駅に停車すると、女子高生二人組は、「降ります」と、大声を出しながら降りて行った。
これでやっと一息吐けると思いきや、そうではなく、大挙して人が押し寄せて、気がつけば目黒は座席側へと移動させられてしまった。座っている人の足を踏まぬよう注意を払いつつ、ポケットからハンカチを取り出して汗を拭った。
しかし、拭うのが精一杯でポケットにハンカチを仕舞うことなく、電車が動き出した。
次の瞬間、目黒めがけて体がぶつかってきた。
「うー、痛い」と叫びたい心境をぐっと堪え、ひたすら我慢する。ここで、叫んでしまえば静かな車内を乱してしまう。
その静かな中で至近距離でシャカシャカ音がする。彼の正面に座っている二十代前半ぐらいの女性が携帯音楽プレイヤーを聴いていた。ただでさえ参っているのに、この音にはほとほと困り果てる。しかも、本人は眠っているから始末におけない。
またしても人の波が押し寄せ、目黒はガンと車窓に手をついた。その先には多摩川が広がっている。もう既に汗だくになっている彼にとっては、飛び込んで泳ぎたいほどだ。
結局、ヘッドホーンのOLは品川駅で下車した。目の前の席が空いたが、隣りにいた五十代ぐらいの女性に先に取られてしまった。
(まあ、いい。どうせ自分には座れない席だ)
それに、握っていたハンカチが仕舞えた。
(後少し、後少しで東京駅に着く)
本当に長い長い道中だった。終点近くになり、ようやく光が見えてきた。
しかし、目黒太は忘れていた。
明日も、あさっても、地獄のような通勤時間が繰り返し訪れることを……。
(了)