アパートの一室で【ホラー風】
彼氏に自分が見えていない。そんなお話です。
アパートのドアが開く音を聞き、私は急いで玄関へと出向いた。
「お帰りなさい」
声なき声を発し、笑顔で彼を出迎える。
疲れきっている彼の顔は生彩に欠け、ぐったりしている。彼は黙り込んだまま背広を脱ぎ、ネクタイを緩め、ソファにどっかりと腰を下ろした。
そして、ふうと大きく息を吐くと、目を閉じて瞼を軽く押さえる。
私は一連の動作を隣りで眺めていて、底知れぬ強い違和感を覚えた。
彼の背後に、そっと回って、さらに観察を続ける。顔の輪郭も、体格も、全てにおいて痩せ細ったような気がしてならない。
そんな彼にスタミナがつくものをと思い、彼の好物である牛丼を作ることにした。
「ねえ、夕飯は牛丼でいい?」
座っている彼に声をかけて、冷蔵庫の扉を開けた。先日、買った牛肉が入っていない。
その上、常備してある卵、牛乳、マヨネーズがなくなっている。
冷蔵庫の前で茫然としている私を差し置いて、彼の長い腕が伸びて缶ビールを掴んだ。
「あれ? どうして、冷蔵庫が開けっぱなしになっているんだろう」
扉をパタンと閉め、再びソファに腰を下ろし、コンビニの袋からお弁当を取り出した。
「なんだ。ご飯、買ってきたの。そのまま食べるのも味気ないでしょ」
食器棚からお皿を取り出そうとしたが、力が入らず落として割ってしまった。
どうしよう。彼にまた殴られてしまう。
音に気付いた彼が上半身を伸ばし、こちらを見る。
「なんだよ。全く……」
腰をすっと浮かせて、やってきた。
恐怖のあまり身を震わせながら、「ご、ごめんなさい」と謝ったが、目の前に手がちらつき、殴られるのを覚悟して目を瞑った。
しかし、一向に手が飛んでくる気配がない。
私がそっと目を開けると、割れたお皿を片付けている。
ホッとして頭を上げると、食器棚のガラス越しに目が合い、彼の手が止った。
私が微笑みかけると、彼の顔が見る見るうちに青くなっていく。
次の瞬間、「ぎゃあー」と大きな悲鳴をあげた。
それから数日後、彼はこのアパートに僧侶を連れてきた。
私は同棲していた彼に殴り殺されたのだった。その彼はドメスティック・バイオレンスで、私はしょっちゅう殴られていた。
でも、私には相談できる家族や友人がなく、彼しかいなかった。
僧侶がお経を唱え始め、ずっと彼だと思っていた彼はガタガタ震えながら、目を瞑って手を合わせている。
その光景を眺め、刑務所にいる本当の彼は、私と面会してくれるかしらと考えていたら、意識が薄れていった。
(了)