第一章・第八話 「評価」
「いい年した女が結婚してないってだけで、欠陥品みたいに扱われる場所があるのよ。段々自分でも、自分が無価値な人間に思えてくるのは辛かったわ。それで、えいっと思って留学したの。一応短大は英米文学科だったからさ、語学力を付けて、せめて自分で認められる自分になりたかったのね」
「来て良かったじゃないか。セールスの仕事も好きなんでしょ?」
「それは本当にそう。旦那と会えて、結婚もしたしね。だから、ハワイに住んでいられるんだし。留学に来て、予定通りきっちり勉強して、仕事に役立てている友達もいるわ。ただ、私達は軌道に乗れた部類なのよ。断っておくけど、自慢じゃないからね」
何か言いたい事があるようだ。誠は首を傾げた。「乗れない部類てのは、何さ?」
「えいって日本を飛び出して、でも思うように行かない人達。大学に入ろうとして、試験に合格しなかったり、良いパートナーや仕事と出会いたいと思っても、見付からなかったりね。上手くいかないままで日本に帰りたくはないんだけど、じたばたしている内に、お金やビザが切れてきちゃう」
君代の瞳は珍しく、きつい色に染まっていた。誠の見えない何かを見ているようだ。
「大概の人は、仕方ないから日本に帰るよね。でも、ごくごく一握りの人は、違法で働いたり不法滞在しちゃうのよ。どうしても失敗したまま、日本に帰りたくないってね。自分でも訳が分からなくなっちゃうのかも」
「話には聞いたことがあるけど」
誠が違法でなく働けるのは、アメリカの市民権を持っているからだ。
商社勤めの父が、二十四年前にシアトル在駐だったため、アメリカ国内で生まれた誠には自動的に市民権が下りた。
本来ならば二重国籍者は、十八歳になった時点でどちらかを選択しなければならないが、国同士で戸籍の照会などはしない。システムの抜け穴を甘受しているわけだが、誠も立派に、法律違反を犯している。
「無理矢理何とかしようとしても、むしろ悪くなる事が多いよ」
「悪くなった人、知ってる?」
溜息とともに、君代は「うん」と頷いた。
「こっちの大学に入るつもりで来たのに、入学する語学力が身に付かなくてね。『こんな筈じゃない』って焦るばっかりで、お金はなくなっちゃうし。こっそり働き出して、勉強には身が入らないし、悪い薬も覚えて、おしまいには強制送還。最低でも五年か、下手すると一生アメリカには入国出来ないわ。そういう人がいた」
ありそうな話だ。君代は、どこかが痛いような顔で続ける。
「まこちゃんは学校にちょっとしか行かなかったんでしょ? 私は結婚した後もしばらく行ってて、合計二年半位かなぁ、だから色んなケース知ってるよ。でもね、法外な借金とか犯罪に関わったんでない限り、大抵の事は日本に帰る事で解決が着くの」
「そういうものなの?」
「そうよ、まこちゃん、何とかしてその人捜してあげて。きっといい状態じゃないから、捜して日本に帰るように言ってあげなよ。本当は、自分の価値を認めることなんて、海外に出なくたって出来るんだよ」
思いの外に強い調子で君代は言った。今話した事の他にも、思い入れでもあるようだ。
三年ハワイに住んで、随分色々な経験をしたが、まだまだ誠の知らない事の方が多いのだ。「分かった、努力してみるよ」と素直に返事を返した。
君代と話したせいかもしれない。妙に急いた気持ちになって、誠は昼休みに、塩田綾のコンドミニアムを持つ不動産会社に電話した。
塩田綾の代理人だと言って、担当者に電話を回して貰うと、誠が何も言わない内から「家賃の連絡が届きましたか」と質問された。
「家賃と言うと、払ってないんですか?」
面食らいながら発した質問に、相手の男性は甲高い声で答えた。
「あれぇ、その件じゃないんですかぁ。ええっとね、五月分は四月の末迄に払って貰わなきゃなんなかったんです。それがまだなもんだから、手紙も出したし、電話もね、何回もしたんだけど」
怒っている口調ではない。誠は手短にかつ少々一方的に事情を説明した。様々な相手に何度か説明しているので、大分慣れて来た。
「そういう訳で、一応私が正式な代理人なんです。家賃は払いますから、コンドミニアムの部屋を確認させて貰えませんか? 合い鍵はお持ちでしょう」
拍子抜けがする程あっさりと相手は承諾した。
「いいですよ。正式な委任状をお持ちなんですよね。でも、そんなんなら警察に届けた方がいいけどねぇ。それで、いつがいいですか?」
誠は自分のスケジュールを思い出して、明日の昼時ではどうかと提案し、ついでに家賃の金額を聞いた。
「明日の十二時位がいいですね。ええ、家賃は千八百ドルなんですけど、遅延のペナルティーが加算されますから千八百九十ドルですね」
苦虫を噛み潰して、誠は声だけ爽やかに「それでは明日」と電話を切った。
金額はまだ知らないが、兄が送ってくれたという為替は届き次第、現金化することになりそうだ。貯金は多少あるが、千八百九十ドルは痛い。
午後も客の数は少なく、誠は君代や、二階から暇潰しに来たトレイシーと無駄話をして過ごした。
六時の退社時間に、誠はトレイシーに声を掛けた。
「飯、食って帰らないか?」
トレイシーはダイヤモンドヘッドの北側、ハワイ大学の近くに住んでいて、大き目のアパートを二人のルームメイトとシェアしている。両親も島内にいるのだが、高校卒業と同時に離れて住み始めた。
誠の誘いに快諾してトレイシーは、行きつけのバーの名前を出した。
「あそこのピザが食べたいな」
ジョージも含めて三人がよく行くバーは、ワイキキの一番ダウンタウン寄りにあって、アラ・ワイ・ヨットハーバーに近い。バーとは言っても食べ物のメニューも豊富で、ベーコンとアボカドのサンドウィッチや、山ほど具の載ったピザは絶品だ。
バーテンのジェイソンがジェームスの古い友人なので気安い。
車をヨットハーバーの公営駐車場に停めて、二人はバーに入った。まだ早い時間なので店はがらんとしている。ジェイソンに挨拶し、奥の居心地の良いブースに腰を下ろす。
オーダーして三十秒で運ばれて来たビールで喉を潤し、ピザを待つ間、誠はトレイシーにこれ迄の経過を話して聞かせた。
家賃の肩代わりの話をし、金額を口にすると、トレイシーは大きく口を開けた。
「あんた、そんなお金持ってるんだったら、ここは奢りなさいよ」
「馬鹿言え。ちゃんと兄貴を通して請求するさ」
軽口を叩き出したと見えたトレイシーは、一瞬考え込むと大声を出した。
「そうだ、彼女の写真持ってないの?」
「メールの添付ファイルを開ければ見られるけど、なんでさ?」誠にはさっぱり話が見えない。
「彼女凄いお金持ちなんでしょ? うちの店に来た事あるんじゃない? 見せてよ」
トレイシーが素晴らしい思い付きの様に叫んだので、誠は、はいはいと携帯電話を操作した。
しかし、塩田綾が店に来た事があったら何だというのだ、と思い直してその事を告げると、彼女は肩を竦めて「ああそうか」と笑った。
「でもさ、もしここ一か月の間に来て、買い物したんだとしたら、元気でいて、経済的にも困ってないって事じゃない」
それは苦しい言い訳だと思いながらも、誠は運ばれてきたピザに噛み付いたトレイシーに、写真を見せた。
一瞥してトレイシーは叫び声を上げた。口に入っていたチーズが、誠の顔まで飛んだ。
「この人、知ってるよ。一時期よく来てたの。お得意リストに載せようかと思ったもん。でも、ちょっとして来なくなっちゃったから、載せなかったけど」
店ではセールス一人々々が自分の得意客リストを持っている。ハワイ在住、あるいはハワイに来る度に来店して、多額の買い物をしてくれる客に住所を聞き、新商品のカタログやセールの通知を送るのだ。
ナプキンで顔を拭い、トレイシーを一睨みして誠は尋ねた。
「四月中の話か?」
「ううん、去年だよ。でもいつも簡単に決めて買ってた。うちの定番商品は幾つも持ってたみたいで、新しい型のとか、日本に入ってないのを買ってた。バッグ道楽だって笑ってたけど、靴もアクセサリーも買ったよ。感じの良い人だったから、よく覚えてる」
「その割に、名前は覚えていなかったじゃないか」
「ふん、あんた、自分のリストのお客だって、覚えてるの?」
そう返されると一言もない。名前まで覚えて顔と一致する客など、ごく一部だ。これが東京やニューヨークなら違うのだろうとは思う。
ここでは、多額の金をブランド品に注ぎ込むのは、そのほとんどが旅行者なのだ。五千ドルの買い物でも、一年に一度ではなかなか名前まで覚えられない。
結局分かったのは、塩田綾はやはり裕福だったという事と、年下のセールスにも丁寧な態度を取る人間だったという事だけだ。
明日、コンドミニアムを訪れてみれば、確実に新しい展開になるだろうと誠は自分を慰め、胸焼けがする程ピザを大量に詰め込んだ。
作中、君代と誠が日本人留学生の動向に関して言及する場面がありますが、実際の日本人留学生の方達の状況ではなく、あくまでも作中人物が知る範囲での意見と受け取って頂ければ幸いです。
しかし、君代の台詞に興味を覚えられた方は、お時間がありましたら「呼ぶもの」(これも完全なフィクションです)も、ご一読下さい。