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第一章・第七話 「メール」

 予定を変えるつもりは無かったので、誠はバックパックを掴んでアパートを出た。いつも行くビーチは決まっている。

 平日のアラモアナ・ビーチパークはほどよく空いていた。

 ちょうど干潮時で、浜辺から七、八十メートル先のリーフが、海の上に顔を出している。手前の波打ち際の水はエメラルドグリーンだが、その先は藍色に光っている。リーフを越えた沖の方には高めの波が立ち、サーフィンを楽しむ人の姿も見える。

 普段は狭さにうんざりする事もあるハワイ、というかオアフ島だが、こういう景色がいつでも味わえる場所は、世界にもそう多くあるまい。

 珊瑚礁までゆっくり泳いでから浜辺に帰り、シャワーで海水を流して、またバスタオルの上に転がる。数回それを繰り返すと眠気が差して来て、読みかけの本を脇に落として眠り込んでしまった。

 夢の中で写真の塩田綾が微笑んでいた。

 五時になって、仕事を上がるというライフガードに揺り起こされた時には、日焼けで体が痛かった。

 車に入れっ放しにしておいた携帯電話を確認すると、塩田文美(ふみ)なる人物からメールが入っていた。「ご迷惑をおかけします」というタイトルからして、綾の母親かと思ったが妹だった。


 突然のメールで、すみません。私はお兄さんを通してお願いをしている、塩田勝一の娘で文美と言います。綾は私の姉になります。

 このたびは面倒なことをお願いしてすみません。きっと面倒臭がり屋の薄情な家族と思われていることと思います。私も直接ハワイへ行くべきでしょうが、つわりがひどくて飛行機に乗れません。

 大変失礼とは思いますが、私からもお願いがあります。

 もし姉が問題や悩みを抱えているようでしたら、まず私に連絡をくれるように言ってください。とにかく日本に帰れ、と言ってもかまいません。

 こんなことを書くと、桜井さんは驚かれるかもしれませんが、私は姉が心配で仕方ありません。姉は私と違って美人だし、頭もいいのです。

 でも、ハワイに行く前には色々辛い思いをしていました。

 うちの町はすごく考え方が田舎で、三十近くで結婚していないのはおかしいし、恥だと言われます。親戚にも近所にも言われていました。

 姉はずっと父の病院で事務の手伝いをしていましたけど、仕事場でも言われていたと思います。

 姉は器用な人ではないのです。

 私もとろい方ですけど、もし姉が何か困っているようなら、まず相談してほしいのです。両親、とくに父には、悩みごとなどとても言えないはずです。

 実はこんなメールを出したことも、父には知らせないで下さると、嬉しいのですけど。桜井さんのアドレスは、お兄さんが置いていったメモをこっそり見て覚えました。

 父はすごく外聞を気にする人で、自分をまるで、殿様かなにかだと思っているのです。

 結婚しても私が塩田姓でいることもそのせいです。

 長々と身内の恥を書いてしまいました。ごめんなさい。

 でも、どうか姉に会って下さい。そして、もし父に報告出来ないようなことがありましたら、私にメールを下さい。


 読み終えて画面から目を離すと、誠はシートの背凭れに身体を預けた。

 塩田綾の父親の考えている事は分からないが、人となりは何となく掴めた。彼自身はともかく、文美という妹がこうして誠に直接連絡を入れる所は常識的だ。わざわざ綾の性格について書き送って来たのは、気合いを入れて事に当たれという意味だろうか。

 ともかく心配なのは分かったし、彼女は綾がトラブルを抱えているだろうと予測している訳だ。

 誠は綾の写真を思い出した。

 家は金持ちで、美人で、しかも学歴があっても、必ずしも幸福だとは限らない。学校の事務員は、入校した頃は影があったと言っていたが、そういう背景があれば影も出来よう。

 もっとも独身でいる事は、本人の気の持ちよう一つだ。少しも悪い事ではないのだし。

 綾自身がどの程度それらを気に病んでいたかは、妹のメールからは、伝わって来ない。「辛い思いをしていた」と言っても、状況から妹が憶測しただけかもしれない。

 次なる方法として、明日は綾のコンドミニアムを周旋した不動産会社に電話をしようと誠は思った。

 アパートに帰ってシャワーを使い、スケジュール表を確認すると、翌日はモーニング・シフトだった。

 米を炊いて肉を焼いただけの、ジェームスが見たら眉を顰めそうな夕食を摂り、テレビを眺めながら水割りを舐めている内に、カウチで眠りこけてしまった。

 ほんの仮眠のつもりが、気が付くと朝だった。

 起こしてくれたジェームスは呆れ果てて笑った。

「俺が帰って来る前から寝ていて、今まで寝てた訳かい。言っておくけど、ベッドで寝た方がいいから起こそうと、そりゃあ涙ぐましい努力をしたんだぞ」

 寝付きが良いのと、放って置かれればいつまでも眠るのが誠の体質だが、さすがに頭を掻いた。狭いカウチで寝たせいで体が痛い。

 誠がシャワーを使っている間に、ジェームスはさっさと出勤してしまった。余程忙しいようだ。

 昨日の事などを話してアドバイスの一つも貰おうと思っていた誠は、僅かに気落ちしたが、時計を見て出勤時間が迫っている事を知り、大急ぎで支度をした。朝食を食べている暇はない。

 それでも五分前には、タイムカードを押す事が出来た。

 始業前のミーティングの締め括りに、フロア担当を言い渡される。今日は君代と二人で一階担当だ。マーク、トレイシーと雪子が二階。

 人のセールスを奪うのが生き甲斐のような雪子が一緒なので、マークは早くも諦めが入っている。警備員のジョシュアがやって来て、大きなガラス扉の鍵を開けた。

「まこちゃん、今日は暇かもね。天気いいから皆、ビーチやアクティビティーに行っちゃってるよ」

 君代がさらりと言う。

「嫌だな、君代さんが言う事って、当たるんだもん」

 これは本当だ。彼女が忙しくなると言えばそうなるし、逆の時も同じなので、誠は、彼女が自分で商売でもすればいいと思う。

「いいじゃん、のんびりしようよ。私、雪子さんと一緒じゃないだけでほっとしてるの」

 そういう日があってもいいかと、誠は同調した。

 適当にディスプレイの埃を払ったり、専用クリームで革のブリーフケースを磨いたりしながら客を待ったが、君代の言った通り実に少ない。たまに入って来る客は女性物を探していて、二階に誘導するだけで仕事はなくなった。

 自然、君代とお喋りばかりをした。

 君代は三十五歳で、ハワイに来て六、七年になる。市の環境課に勤務する日系の夫がいる。取り立てて美人というのではないけれど、いつも明るいし、よく思いも寄らぬおかしい事を言って、皆の人気者だ。

 確か彼女は語学留学に来て、今の夫と知り合ったのではなかったか。以前聞いた事を思い出し、誠は話題を変えた。塩田綾の事が頭にあった。

「君代さん、ハワイに来たのは学校に行くためだったよね?」

 入社した当初は敬語を使っていたが、暫くして君代から止めてくれと頼まれた。

「そうよ、何でそんな事聞くの?」

 実はさと、誠は塩田綾の事について話した。今朝ジェームスに、聞いて貰えなかったせいもあるかもしれない。妹からのメールについても喋ってしまった。

 君代は兄の住む町の辺りの出身ではないから、問題ないだろう。年齢的にも塩田綾に近い。考えを聞いてみたかった。

「留学に来る人は、それぞれ違うからね」

 ゆっくり君代は口を開いた。考えながら言葉を選んでいるようだった。

「でも、彼女の事情は私とちょっと似てる」

「似てるって、結婚してなかった事とか?」

「うん、その頃結婚を考えていた人と、上手く行かなくなった事もあって、自分の人生はつまんないなぁって思ったの」

「仕事は何してたの? それもつまらなかった?」

「うん、中堅の会社で事務員。うちはその塩田さんみたいにお金持ちじゃないから、そこの所は違うんだけど、やっぱり段々結婚してない事も、周りから言われた。同期の子はほとんど結婚退社しちゃってたし。だから彼氏と駄目になった時には、お先真っ暗だと思った」

 誠の顔を見て君代は少し笑ったが、いつもと違って少し寂しそうに見えた。


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