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第四章・第十三話 「花束」

 兄からは、会わなくてもいいと言われたが、誠はハワイにやって来た塩田徹に会った。

 大きな体に童顔を載せた印象の彼は、年下の誠にもしきりと恐縮していた。挨拶の後は明るい話題が出る訳もなく、誠はただ事務的にコンドミニアムを引き払う手続きなどを手伝った。

 英語を話すと兄から聞いていたが、違っていた。終始おろおろしたり、或いは愛想笑いを浮かべているだけで、誠がいなければ書類にサインも出来なかっただろう。ただ仕事は出来ないのかもしれないが、人は良いと誠は思った。

 義父から託って来たという厚手の封筒を渡す際にも、あくまで固辞しようとする誠に、終いには涙ぐんで、受け取ってくれと懇願した。


 事務的な事を全て終了させた翌日、彼のたっての希望で、二人は小型船をチャーターした。

 普段はハネムーナーや小グループの観光客にチャーターされる船は、アラモアナ・ビーチパークよりも少し西のハーバーに係留されてあった。

 ケワロ・ベイシンという名のハーバーは、小さな入り江になっていて、実はそのすぐ外側は鮫が多い事で有名だ。帰港する漁船が捨てる雑魚や内臓を目当てに、鮫が寄って来るそうだ。

「タクシーで行きますから」と言う塩田徹の言葉を受けて、誠は直接ハーバーへ車を向けた。

 今日も上天気だ。トレードウインドが戻って来て、雲の流れが早い。

 午後二時の約束に、少し遅れて塩田徹はタクシーでやって来たが、車を見て誠は仰天し、同時に納得した。典型的な幅広のアメリカ車の後部シート一杯に花が積んであった。

 助手席から降りて来た塩田徹は、「女房がどうしてもって言うもんですから」と複雑な照れ笑いを浮かべた。

 幸い船のクルー二人もタクシーの運転手も、文句一つ言わずに花の積み込みを手伝ってくれ、二時二十分過ぎには出航する事が出来た。

 バラや蘭やフリージアに加えて、ひまわりやバード・オブ・パラダイスといった野趣の濃い花まである。花束だけでなく、レイまであるのには驚いた。船の前部にあるシートの部分をほとんど占領してしまった花の影に、誠は自分がこっそり持って来た物を置いた。

 航路については誠がクルーに事情を説明し、見当を付けて船を走らせて貰うことにした。

「桜井さんには、本当に何から何までお世話になっちゃって」

 船がハーバーを出た頃、塩田徹が口を開いた。風があるため大して暑さは感じないが、日射しはきつい。サングラスを忘れて来た彼は、目を細めていた。

「いや、僕は何も出来ませんでしたよ」

「あの……綾さんのボーイフレンドって、どんな人でした?」

 思ってもいなかった質問に、誠は答えあぐねた。良い人と言っても悪い人と言っても、角が立ちそうな気がする。

 実はキャプテン・サトーの言っていた事が気になって、ネットで検索してみた所、飛んでもない事実を見つけた。昔の遊女が惚れた男に心を示すのに、指を切り落として渡したというのだ。

 キャプテンは日系だから、その事を言っていたのかもしれないが、まさかナナウエがそんな事を知っていた筈はないし、そのつもりもないだろう。

 持っていろと手紙にはあったが、誠は今日それを持参していた。あの男には何もやらなかったし、彼の何かを欲しかったのは、誠ではない。

「癖のある人で、僕はよく分かりませんでしたけど、正義感はあったんでしょう。あんな事をした位ですから」

 困惑しつつそう言うと、塩田徹は感慨深そうに目をしばたかせた。

「僕は昔から彼女を知っていたんです。中学が一緒でね。ちょっと憧れたりもしたな、綺麗な人でしたからね。女房が桜井さんにはメールで言ったでしょう? 不倫していて、相手は病院のドクターでね。その人もちょっと癖のある人でしたよ」

 相槌を打つのも妙な気がして、誠はただ頷いた。

「あんな人がこんな事になるなんて、思ってもみなかった。絶対、幸せになるだろうと思ってたのになぁ……。女房がね、馬鹿みたいだけど、いっぱい花を投げてやってくれって言うんです。こんなの、生きてる人間の自己満足なのにね。僕が出来る事なんか、こんなもんです。彼女が生きてる時は、何もしてあげられなかった」

 ホワイト・ジンジャーのレイを指で弄びながら、塩田徹は淡々と言った。誠が慰めの言葉を探している内に、船が速度を緩めた。いつの間にか大分岸が遠くなっている。

「そろそろですかね」

 シートに手を突いてバランスを取りながら、塩田徹が立ち上がった。デッキに上がり、一番近くにあった花束を掴む。瞬時、愛おしそうに顔を近付けてから、茎を縛ってあった輪ゴムを外して海面に放り投げた。

 赤とピンクの花が青い水面に咲き乱れ、誠はいつか見た夢を思い出した。花柄のワンピースを着た塩田綾が流れて来る夢だ。

 ゆっくりと少しずつ花を流して行く塩田徹は顔を伏せていた。泣いているのかもしれなかった。ふいに船尾の方から歌声が聞こえた。

 有名なハワイアンの歌だ。別れを悲しむ美しい歌詞で、メロディーも切ない。塩田徹の行為を見て、クルーの一人が歌い出したのに、船の前部にいたもう一人も唱和し始めた。二人ともそっぽを向いたまま、トレードウインドに歌声を乗せている。

 誠は思い切って持参して来たナイロンのバッグに手を入れた。中にはアイスパックと一緒にナナウエの欠片が入っている。

 変色して硬くなっているそれを、誠は手近にあったバード・オブ・パラダイスの茎に輪ゴムで括り付けた。今度は本当の鮫に生まれ変わるのも良かろうし、この指が塩田綾の元に届くならそれも良かった。

 塩田徹は今や盛大に涙を流しながら、愛おしむように花を少しずつ水面に咲かせている。午後の強い陽を浴びて、海面は花畑のようだった。

 誠は手すりから身を乗り出して、バード・オブ・パラダイスを海面に落とした。

 船はごくゆっくりとした速度で動いて行く。クルーは繰り返し、切ないハワイアン・ソングを続けていた。

 誠はしばらく自分の落とした花から目を離さないでいたが、その内塩田徹の流す花に紛れて分からなくなってしまった。


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