第一章・第五話 「プレッシャー」
週末の二日間は塩田綾に関する調査は何も出来なかった。
誠は彼女の事を頭から追いやり、ひたすらセールスの成績を上げる事に努めた。
普段の土日は、観光客の出発と到着日になる事が多いため、比較的暇だ。日本へ出発する便は午前中に集中しているから、出発日の買い物は難しいし、また到着したその日に、高価な買い物をする客も少ない。
しかしこの週末はゴールデン・ウィークとあって、いつもとは違い、セールス達は接客に追われた。誠は二日ともナイト・シフトに入ったが、日曜の夕食休憩の際に、思い立ってスケジュール表を覗くと、翌日が休みとあった。時々、こういう事がある。
帰宅後、メールを確認すると兄からのメールで、先日と同様PDFファイルで正式な委任状、Power of Attorney が添付されていた。
翌日、せっかくの休日だから遅寝を楽しもうという誠の目論見は、午前九時半には破られた。インターホンのベルに朦朧としながら起き上がって行くと、宅配便の配達人が届け物だと言う。国際速達便で送られて来た小包は、兄からだった。
受け取りのサインをしながら、思わず「早いな」と日本語が出た。
中に入っていた数冊の推理小説と地方の名菓は兄の心遣いで、茶封筒に入った手紙と写真が本題だった。
木曜にPDFで送られて来た手紙の原物に、役所で発行した実印証明書が添付されている。委任状がPDFでも届いた以上は、こちらのオリジナルがあっても、役に立つ事は少なそうだ。
写真は一般的なサイズの物が三枚。いずれも塩田綾の顔がはっきり分かるものだ。綾の父親からの手紙はなかった。もっとも、貰っても誠は何と返事をしたものか分からない。
同封されていた兄の手紙には、「そういう訳なので一つ宜しく」という意味の事が書いてあった。
寝起きの機嫌の悪さで誠は、「一つも二つもあるもんかい」と独りごちたが、追伸として「経費とお礼を、別便のマネーオーダーで送りました」と書いてあって、誠は気が重くなった。
今は円が高いとはいえ、塩田綾の父親から出た物ならばともかく、先に電話で話した通り、兄が自腹を切ったのだとすれば受け取りたくなかった。大きな金額でない事を、祈るしかない。
誠はもう一本煙草を灰にした後立ち上がった。
すっかり目が覚めてしまった今は、出来る限り早く塩田綾の件を片付けるべく何かしようと思った。昨夜のメールと言い、尻を叩きまくられているような気がする。
塩田綾の学校名は覚えていた。誠が語学学校に通っていた頃、名前を聞いたことがあった。インターネットで検索すると、すぐに立派なウェブサイトが見つかった。場所は、アラモアナ・ショッピングセンターに近いビジネス・ビルだ。
シャワーを使い、軽い食事をして誠はアパートを出た。
ビジネス・ビルという事は有料駐車場があるには違いないが、僅かでも金を使う事が業腹に思えて、誠はアラモアナ・ショッピングセンターに車を停めた。
少し歩いてカピオラニ・ブールバードに出る途中、強い日射しに照り付けられて、誠は舌打ちした。こんな事ならビーチへ行く支度をしてくれば良かった。
しかし、カピオラニ・ブールバードを歩く時には、日射しは気にならなかった。広い道路の両脇には、等間隔で大きな木が植えられている。
両面合わせて六車線の広い道路を、緑のトンネルのように感じさせてしまう木は、モンキーポットツリーという。正確な学名や種類は知らない。ただ土地の人達はそう呼んでいる。
昔何かの本で見た、バオバブの木にも似ていると思う。
ワイキキまで歩けるほど近いのに、南国の町という雰囲気は同じでも、カピオラニ・ブールバードの方が静かな感じがするのは、この木のせいかもしれない。
目指すビルのエントランスの前には植え込みやベンチがあり、一目で学生と分かるアジア人達が談笑したり煙草を吸ったりしていた。
エレベーターで六階に上がる。
プレートの名前を確かめ、木製のまだ新しい感じのするドアを開けると、思ったより広く瀟洒な受付になっていた。白いカーペットに、身の丈程もあるベンジャミンの鉢植えが置かれ、隅にはソファーまで置いてある。
タンクトップやTシャツの学生が何人かうろうろしていた。
誠はドアと同様に新しい、木製のカウンターに近寄った。カウンターの中では、事務員の女性が何か書いていたが、気配を察して顔を上げた。おそらく四十代前半のその顔を見て、誠は日本人だな、と思った。
はっきりは説明出来ないが、化粧の仕方や服装が、日系のアメリカ人や外のアジア人とは違うのだ。
「 Hello. How may I help you? 」
にっこり笑って言った言葉には、やはり日本語のアクセントがあった。誠も笑顔を返し、日本語で尋ねた。
「日本語でいいですか?」
「あら、日本の方? 入学案内ですか? 今なら入学金割引期間中ですから、お得ですよ」
思わず見習いたくなるような笑顔で、彼女は言った。
日本の景気がなかなか回復しないせいで、留学生も減っていると聞いている。こういった学位の取れない語学学校は、生徒の確保が大変だろう。事務員も外部に良い印象を与え、生徒を獲得すべく頑張っているのかもしれない。
誠が用件を切り出そうとした時、カウンターに若い日本人の女の子が駆け寄って来た。「ユウコさーん」と事務員の女性を呼ぶ。
「あたし、銀行のカード失くしちゃってー。どうしよう?」
ユウコと呼ばれた事務員が、ちらりと誠の方を見たので、誠は気を利かせた。
「どうぞ彼女の方をお先に。時間はありますから」
すみませんと事務員は頭を下げて、ソファーの方に掌を向けた。
「よろしかったら、お座りになって下さいね」
すぐに銀行に連絡するように、と言う事務員に、学生は「何て言っていいか分かんない」とすがった。嫌な顔一つせずに電話をかけ始めた事務員を見て、誠は感心もしたし、幸運だとも思った。
これ程面倒見のいい人なら、塩田綾の事を尋ねてもそっけなく突っ撥ねられまい。
十分程して女の子の用件が終わると、彼女は誠を呼んだ。
「すみません、お待たせしてしまって。それで御用件は何でしょうか?」
「まずこれを読んで貰えますか? 何かのセールスじゃありませんから、御心配なく」
誠は脇に抱えていた茶封筒から、届いたばかりの委任状のプリントアウトを出した。委任状に記載の人物が、自分に間違いない事を示す為に、ハワイ州の運転免許証も差し出す。
長い文章ではないので、彼女が読み終わるのに時間は掛からなかった。
「どういう事なんでしょう?」
大きく見開かれた目が、不安気だ。
「塩田さんは、こちらに在籍中の筈なんですよ。ところが一か月も連絡が取れないので、ご両親が心配して、僕に様子を見るように言って来たんです。塩田さん、最近学校に来ていますか?」
「塩田綾って、あの綾さんの事かしら?」
彼女が少し首を傾げたので、すかさず誠は写真をカウンターに置いた。「この人です」
「あらそうよ。綾さんどうしちゃったんですか?」
「それは、僕が聞きたい事なんですよ」
苦笑気味に誠が答えると、事務員も釣られて少し笑った。
「そうでしたね。ところで綾さんとはどういう御関係なんですか?」
一瞬迷った末、誠は正直に、自分の兄が塩田綾の父と知り合いだと言った。
「ですから僕は、塩田さんにお会いした事はないんですが、お元気だと分かればお会いする必要もないんです。ユウコさんとおっしゃいましたよね、『綾さん』と呼ぶ位だから、親しいんじゃありませんか?」
出来るだけ真摯に誠は頼んでみた。彼女は一瞬眼球を上に向け、小さく溜息を吐いてから誠に向き直った。
その動作に、誠は何か嫌な予感がした。