第四章・第十話 「占拠」
ジョージが計画したように静かなのは、ナナウエの好みではなかったらしい。
彼に情報を与えた事を、誠は心底後悔した。一体、何が目的で乗り込んだのかは分からないが、これで誠も、事によっては緑もえらい騒ぎに巻き込まれるのは必定だ。
瞬時、ナナウエの背中の大きく牙を剥いた鮫に呑み込まれる自分のイメージが湧き、身震いが起きた。
何やってやがるんだ、ナナウエ。誠は腹の中で吐き捨てた。
パトカーはアラモアナ・ブールバードからニミッツ・ハイウェイを飛ぶように駆け抜けた。けたたましいサイレンに周囲の車が次々と道を譲る。サンドアイランド・アクセスロードからハーバーへ続くと思しき細い道へ入ると、警察の車が目立った。
普段は関係者以外入れないようになっているらしいハーバーのゲートは、開いたままになっていた。ゲートを越えた所が駐車場になっており、その一画でパトカーは停まった。
アジア系の警官に促されて車を降りる。
小走りに近寄って来たのは、これまたアジア系の男だった。私服を着ている所を見ると、制服警官よりも階級が上なのだろう。
「あなたがマコト? 私は犯罪捜査課のキャプテン・サトーです。状況は聞いていますね? あなたに訊かなければならない事は沢山ありますが、それは後で。今は私の指示に従って下さい」
駐車場の周りは木々が生い茂っている。こんな事がなければ夜間はさぞかし静かな場所だろう。そこに何台ものパトカーが停まり、緊張に満ちた喧噪が溢れている。
誠は更に、体の芯が硬くなるのを感じた。
「私に会いたがっているハワイアンの男というのは、おそらくナナウエという男だと思うんですが、一体彼は何をしようとしているんです?」
精一杯冷静さを保ちながらの質問に、キャプテンは苦々し気に首を振った。こんな状況でなければ、どこにでもいる日系の中年男性に見える。
「分からない。彼の言動は理解出来ません」
キャプテンが言葉を切ったときに、すぐ後ろに停めてあったバンの横腹が開いた。これまたアジア系の中年が顔を出す。
「キャプテン、向こうは『彼』を直接船尾に連れて来いの一点張りですよ。危害は加えないって言ってますがね」
「分かった、オーウェン」
少し顔を向けて返事をしたキャプテンは、再び誠に向き直った。
「あれは警察の人質交渉チームです。船の中と電話が繋がっているんですが、犯人はあなたと電話で話す気はないと強硬に主張しています。ともかく船に近付く前に、防弾ベストを着て下さい」
言うなりキャプテンは後ろを向いて、他の男達に指示を出した。白っぽい物を持った制服警官がやって来て、誠に上着とシャツを脱ぐように言う。
馴れたつもりでもやはり母国語ではないためか、それとも非常事態に脳が対応していないせいか、誠は言うべき言葉も思い付かず、黙って指示に従った。防弾ベストは意外ときつく体を締め付ける。
「船は桟橋に接岸されたままです。彼らは出航寸前の所を狙って押し入ったらしい。妙なのは、自分で警察に連絡して来た事です」
釦をかける手が止まった。
俯いて防弾ベストの上からシャツを着ていた誠は、キャプテンの説明にぎょっとして顔を上げた。多分強張った顔をしていた筈だが、キャプテンも顔を引きつらせていた。
「そう、人質を取って船を乗っ取ったから、要求を呑めと言って来たんですよ。幾つかの要求があったんだが、その最後にあなたを連れて来いと言った。実は人質の数も、犯人グループの数も定かではないんです。人質は船室に押し込められているようだし、犯人達は当然、狙撃を恐れて甲板には出て来ない。首領格の男だけは後甲板に出てきますがね。あなた、彼の名前をナナウエだと言いましたね?」
オレンジのぼんやりした常夜灯の下、キャプテンの表情は鬼気迫って見えた。誠は額の汗をシャツの腕で拭った。
「はい、でも名字は知らないんです。ハワイアンと日本人のハーフという事だけ。あの、怪我人は出たんでしょうか?」
「それすらも分からないんです。奴は要求を呑めば、あなたも人質も傷付けないと言っています」
突如銃声が響いた。駐車場の空気が一瞬凍り付き、更なる緊張を伴って動き出した。
「行きます、彼に会わなくては」
心臓の鼓動が苦しい程になった。
ナナウエは自分に会いたいと言っている。
どういう理由かは知らないけれど、何か言いたい事があるのかもしれないし、最悪、自分を殺したいかもしれない。それでも銃声を耳にしては行かない訳にはいかない。
キャプテンに導かれるまま、ハーバー内の細い道路を誠は急いだ。ナナウエの乗っ取った船は直ぐに分かった。
船が横付けにされている桟橋の袂に、かなり強引な形で、パトカーが二台停めてあり、車のライトが船尾を照らしている。パトカーを楯にして、ライフルを持った警官が三人、様子を窺っている。黒い繋ぎを着込んでいるから、SWATかもしれない。
当の船は周囲の船よりも二回りも大きく、後部甲板は覗く事が出来ない。
ライトに照らされた船尾の手摺りを見て、誠の胸が軋んだ。塩田綾はあそこから落ちたのだ。
パトカーの脇に回り込むような形で、誠は船に近付いた。