第四章・第八話 「チャンス再来」
ジョージとのやり取りの後フロアに立ってから、誠はもう一つの懸案事項を思い出した。
塩田綾の家族が来る。
まだ具体的な日程は知らされていないが、遠からず連絡があるだろう。塩田綾の父その人と顔を合わせるのは遠慮したかったが、一方で彼に塩田綾の事を心から心配して欲しい気もした。
彼はこの先知る機会がないかもしれないが、彼と娘がもう少しましな関係だったら、塩田綾は日本で幸せでいられたかもしれない。
塩田綾の家族関係などを考えていると、例によって、自分の家族の事などにまで考え事が及び、すっかり取り留めもなくなった頭を持て余してしまった。
客が声をかけて来て、やっと現実に返るという有様だった。
予想通り二日ほどして、兄から電話があった。
塩田綾の父親は時間が取れず、文美の夫が一人で二週間後に来るそうだ。
「今まで時間がかかったのは、失踪届を出すか出さないかで揉めてたみたいだ。それがやっと出すって事で落ち着いたってさ。そういうのは地元の警察に出せばいいんだろう?」
ああ、と答えた声に溜息が混じっていたのを聞き取られなかったかと思いながら、誠は後を続けた。
「そういう事なら、まず警察へ案内すればいいんだね?」
「いや、先にコンドミニアムの部屋と、学校の方を確認したいそうだ」
航空券やホテル、レンタカーなどは既に地元の旅行会社を通じて手配してあり、本人も多少は英語が喋れる。誠は仕事の合間を縫って、塩田綾の部屋や学校などに案内すればよいと兄は付け加えた。
「名前は、ええと塩田徹さんだ。テツって字。いなくなったお嬢さんと同い年で、よく知ってるらしいよ」
生返事を返しながら、誠は素早く考えた。
塩田綾をよく知っていて、身内でありながら肉親ではない。もし彼が物の分かった人なら、塩田綾の死をこっそり告げる事も可能かもしれない。一旦は、いつか緑と行こうと決心はしたものの、やはり何か重い荷物を背負っているような気がする。
塩田徹という人がどんな人物かは分からないが、少しだけでも荷物を持ってくれないだろうか。
「兄貴、その人に会ったの?」
探りを入れる質問に、兄はのんびりと答えた。
「心配すんな、いい人だよ。ちょっと気が弱いように見えるけど、娘婿って立場があるからじゃないかな? 病院の薬局に勤めてるんだよ」
気が弱いという事は、気が優しいに繋がるだろうと誠は勝手な判断を下した。上手くすれば話をする事が出来るかもしれないし、下手を打っても召使い扱いはされないだろう。
近くなったらまた話そうと言って、兄は電話を切ったが、切る前に「今度はいつ帰ってくるんだ?」と尋ね、誠は笑って分からないと答えた。
兄から電話があった翌日、ナイト・シフトの始まる三時前に誠は出勤した。
トレードウィンドと呼ばれる貿易風がすっかり止まって、ひどく蒸し暑い。店内に入れば涼しいのだが、建物の中は当然禁煙だ。誠は従業員用入り口の階段に腰を下ろして煙草を吸った。間もなくトレイシーがやって来た。
「ああ、誠、来たよ」
いつになく興奮した面持ちで、トレイシーは手に持った携帯電話を振って見せた。
「来たって、何が?」
「友達から電話あったの。その子、アラモアナの店に勤めてるんだ。今日、日本のシンガーが来たんだって、それでゴールデンに泊まってるんだって」
トレイシーの友人は、アラモアナ・ショッピングセンターの中にある、有名なジュエリーショップに勤めているそうだ。そこに日本の歌手が買い物に来たと言うのだが、トレイシーの挙げた名前を誠は知らなかった。
「最近人気が出て来たバンドのヴォーカルなんだ、って友達は言ってた。その子日本人でさ、こっちにいても詳しいの」
「アイドルだったら、ドラッグなんかには手を出さないんじゃないか?」
そう言ったものの、誠は日米を問わず芸能界には疎い。
「ううん、ワイルドを気取ったバンドなんだって。だからむしろ、積極的に試したがるんじゃないの?」
頭の回転が早いトレイシーの事だ。友人に怪しまれずに、どういう類の芸能人なのか聞き出すのは簡単だったに違いない。頬を少し紅潮させて、トレイシーは続けた。
「今日到着した訳じゃないみたい。でも、買い物に来たのはお昼前だって言ったから、昨晩派手にパーティーしたんじゃないだろうね。そうなら、昼前に買い物なんて出来ないでしょう」
「今晩か、明日あたりパーティーかもしれないって事か?」
トレイシーが頷くのを見て、誠は煙草の火を揉み消した。「ジョージに言ってくる」と言い置いて店内へ入る。
ジョージはモーニング・シフトの筈だった。一階に姿が見当たらなかったので二階へ上がると、彼はつまらなそうにショウ・ケースに凭れていた。客の影はない。
誠は物も言わずにジョージをフロアの隅に引っ張った。本当ならキャッシュ・ラップへ行きたい所だったが、二階にはキャッシャーが常にいる。
眠たげな顔をしているジョージに、トレイシーからの情報を伝えると、たちまち生気を漲らせた。
「よし、今度こそ奴らのケツを蹴飛ばしてやろうぜ」
元気良く肩を叩かれて、完治していない脇腹に響いたが、誠も釣り込まれるようにその気になった。塩田綾の義弟が来る前にゴールデンの件に片が付けば、少しはマシな気分で彼を案内出来るだろう。
「奴らって誰の事?」
同じフロアにいて好奇心を露わにしたマークを「何でもないよ」と誤魔化して、誠とジョージは簡単に打ち合わせをした。ナイト・クルーが仕事に入り次第、ジョージは休憩を取って、例の友人に電話をすると言う。
「ナナウエはどうしようか? 俺は電話してみるのも一つかと思う」
気にかかっていた名前を出すと、ジョージは一瞬宙を睨むようにしてから聞き返した。
「お前はあいつに電話した方がいいと思うんだな? あいつ、信用できるか?」
改めて信用出来るかと問われると、即答は難しかった。
日本人の女の子から大金を搾り取っていい気になっていた人間は、確かに信用ならない。しかし、誠が塩田綾の最期をぶちまけた時の表情は人間らしいものだったし、常識を遙かに逸脱してはいるが、指を切ったのも彼なりの誠意だったのだろう。
彼と関わる度に味わう、多少の不快感は仕方がない。塩田綾の義弟が来る前に、事を成し遂げられる誘惑には勝てない。
「この件に関しては、信用してもいいかと思う」
考え考え言うと、ジョージは二、三度首を縦に振った。空振りに終った前回を気にしてのことだろう。誠はランチ・ブレイクにナナウエに電話をする事にした。
その後は、さすがに多少興奮気味で、ミーティングで一階担当と言い渡されたのも誠は気にならなかった。
塩田綾の件に関わるようになってから、売り上げを以前より気にしなくなっている。セールスとしては良くない傾向だが、それももうじき終わるだろう。
フロアに入って間もなく、打ち合わせ通りジョージが携帯電話を握って、外へ出て行った。煙草を吸いながら電話をするつもりらしかった。
少々時間をオーバーして戻って来た時には、何本吸ったのか知らないが体中から煙草の匂いをさせていた。
「話しておいたぜ。一寸腰が引けてたのが気になるけど、まあ伝えるって言ったからには伝える奴だから、大丈夫だろう」
ジョージの言葉に誠は頷くしかなかった。彼の知人があまり当てに出来ないのであれば、残りはナナウエしかない。この際、以前ナナウエが言った言葉が只のはったりでない事を期待したかった。
ブレイクの時間が来るまで、誠は百回以上腕時計を覗いた。意識した動作ではなかったから、一度などは客の前で隠すこともなく左腕を傾けて視線を落としたので、不愉快そうな顔をされてしまった。
電話をするとなると、事の成否もさることながらナナウエの事も気になった。もう傷は塞がっただろうとは思う。
あんな真似をした上で「電話しろ」と言った位だから、まさか今になってそんな事は知らないとは言わないだろうが、白ばくれられたら誠の面目は丸潰れだ。
時間になると、誠は真っ先に店から飛び出した。ランチ・ルームでは誰かに聞かれるかもしれないと思ったためだ。ジェームスと付き合い始めた頃だって、こんなに緊張して電話をかけた事はない。
店の裏手へ行き、付近に人がいないのを確認してから登録してある番号を呼び出した。呼び出し音が二回鳴って、誰かが出た。
「何だ?」
ひどく嗄れた声で、ナナウエだと断定は出来なかったので、誠は彼の名前を出した。
「ナナウエと話したいんだけど」