第四章・第七話 「通報」
普段ならそのまま客の悪口を始める所だが、タイミング良く別のグループが入って来て、ジョージは別人のように表情を変えた。二十代の女の子が五、六人だ。
「女性物は二階にございます」君代が歌うように言ったかと思うと、マークと先を争って二階へ駆け上がり、一階は再び静かになってしまった。
「おい誠、奴らが挙げられるのは今夜だぞ」
急に声を潜めてジョージが囁いた。
「何の話だい?」
「馬っ鹿だな。さっきの客、ゴールデンに泊まってるんだ。オーナーの友達だってよ」
ジョージの言わんとする事は分かった。会計を済ませる際に、ホテル名を聞き出したのだ。しかしオーナーの友人だという事まで何故分かったのだろう。
疑問を口にすると、ジョージは鼻を鳴らした。
「簡単さ。『ゴールデンですか、いいホテルですよねぇ。小さいけど結構高いんですだそうですね』なんてお世辞くれてやったら、自分からオーナーの友達だって自慢しやがった。金田って名前も言ってたから、ハッタリじゃないだろう」
素直に感心して、誠はジョージを誉めた。
「ラッキーなんだ。俺の死んだ爺さんが助けてくれてるって事だぜ。よし、ちょっとフロアを見ててくれ」
言うが早いかジョージはキャッシュ・ラップへ入った。忙しくなる夕方からしか、一階のキャッシャーは開けない。ちらりと覗くと、ジョージは誰かと頻りに電話で話していた。以前言っていた警察の知り合いだろう。
一度だけ顔を出し、電話を持ったままゴールデンのボートがどこに係留されているかを尋ねた。
「サンド・アイランドの近くだよ。詳しい場所までは分からない」
緑が詳しい場所を知らなかったのだ。いつも車で連れて行かれたからと言っていたが、自分で確認しなかった事を後悔しながら誠は答えた。
サンド・アイランドはワイキキよりもずっと西に位置している。空港のやや手前で、大型貨物船などが停泊する場所だ。名前の通り島になっていて、一本の道路でオアフ島とは繋がっている。
その近くに個人がボートを係留しておける場所があるのだと、緑は言っていた。
目顔で頷くと、ジョージは再びキャッシュ・ラップの中に隠れた。微かに洩れて来る声を聞きながら、誠は窓越しに外を眺めた。
きつい日射しがアスファルトを灼いている筈だが、冷房の効いた店内にいると熱気は感じない。一階からでは店の前に植えられている椰子の葉は見えないが、シャワーツリーの花は見える。
丸い葉の間から黄色やピンクの花の房が覗いている。明るい色が光を受けて、風に揺れている。この先、シャワーツリーを見る度に塩田綾を思い出すのかと思いつつも、誠は今夜の事を考えた。
怪我をしてから、というかさせられてから、どうも物事が自分の手から離れて動いているような気がする。
ナナウエは支離滅裂なことを言って指を切るし、今回の計画の立案はジョージだ。今もその為に誰かと電話をしていて、自分はフロアにぼんやり突っ立っているだけだ。
今日、彼らが船でパーティーをするとは限らないが、上手くいってくれればいい。
ナナウエにも連絡すべきかと誠は迷った。彼の指の一件があってから、連絡は取っていない。ただ電話番号は登録したから、電話しようと思えばいつでも出来る。傷はもう塞がったのだろうか。医者に行って何と言ったのだろう。
「連絡、済んだぞ」
いつの間にか、ジョージがブースから出ていた。
「上手く行きそうかい?」
「直接警察の人間と話した訳じゃないが、話した友達は請け合ってくれたから、大丈夫だと思う」
口振りは慎重だが、笑みを浮かべている所をみると自信があるようだ。誠がナナウエの名前を出すと、少し考えて首を振った。
「どうしてもってんなら止めないけどな。ただ俺はやっぱりあいつが嫌いだよ。あいつ、おかしいぜ。ドラッグか何かで脳をやられてんじゃないか? あの指どうした?」
まだ冷凍庫の中にあると答えた誠に、ジョージは大袈裟に驚いた顔を作ってみせた。
「マジかよ、よくジェームスは平気だな。そうだ今日帰りにアイスクリーム奢ってやるよ。そんで、今夜上手く行ったら、明日はお前が俺にビール奢るんだ」
機嫌の良いジョージに誠も笑って、いいよと答えた。ナナウエがドラッグでおかしくなっているという意見には、賛成ではなかったけれど。
ナナウエがああいう事をするのは、薬物使用のせいではないような気がする。元々の性格が、思い詰めた子供のような男だ。彼と関わらずに事が上手く運べばそれに越したことはない。
その夕方は、珍しくジェームスの方が先に帰って来ていた。やや興奮気味に今夜これから起きる事について話す誠を、ジェームスは苦笑して諫めた。
「そう簡単には行かないかもしれない。失敗しても、むくれないでくれよ」
弁護士という職業の割に、ジェームスは警察関係に友人はいない。家庭問題や離婚ばかりを扱っていて、警察に知り合いなど出来る訳がない、というのが本人の弁だ。
もっとも誠が暴行を加えられた事に関しては、仕方ないと思っている訳でもなさそうで、まだ仕事に復帰出来ずにいた頃、「俺なりに考えている事もあるから」と言っていた。
翌日がクロージング・シフトという事もあって、ベッドに入ったのは遅めだったが、誠はなかなか寝付かれなかった。今夜起こっているかもしれない事を考えたせいもあるが、それ以上にゴールデンのオーナーの事などを考えたりしたせいで、何度も寝返りを打つ羽目になった。
あの金田という男がしている事は、全く理解不能ではない。ホテルの経営とは切実に関わり合いのない範囲での、ちょっとしたお楽しみだ。
若い学生達を集めて騒ぐのも、自分の知人にその中の何人かを紹介するのも、時々非合法なお遊びをするのだって、きっと彼にとってはゴルフをするのとそれ程違わないのだろう。悪事を働いているとは決して思ってはいるまい。
もしも、今夜警察に検挙されたとしても、舌打ちして弁護士を呼ぶのが精々かもしれない。
結局、誠がジョージにビールを奢る事は実現しなかった。笑える程に何も起きなかったからだ。
ナイト・シフトのために出勤した誠を待っていたのは、フグのようなふくれっ面をしたジョージだった。出勤前にラジオを聞いて、上手く行かなかったようだと察した誠は仕方ないと思っただけだったが、ジョージは不愉快さを隠そうとしなかった。
今日になってからは電話をした相手と連絡が取れていないが、相手は確かに請け負ったのだと何度も繰り返して言った。
「仕方ないさ、HPDも忙しいんだろうから」
HPDはホノルル警察の略だ。落胆しなかった訳ではないが、ジェームスに言われたせいもあって、誠は冷静にジョージを慰めた。
「お前の事だってのに、随分落ち着いてやがるな。次はもっとしっかり念を押すぞ」
やけに熱心なジョージを、誠はいささか不思議に思った。確かに誠とジョージは良い友人同士だし、今回の事にはかなり巻き込んでしまっているが、彼がそれ程熱くなる訳が分からない。
「嫌だけどな、ハワイってそういう所あるじゃないか。誰かがドラッグやってても、わざわざ通報したりしないっての。馴れ合いなんだな。でも、その影で人が死んだり、お前みたいに怪我させられたりしてるのは良くねぇよ。そういう事してもいいんだと思ってる奴がいる事が、俺は嫌なんだ」
さり気なく聞いたつもりだったが、実に真剣な答えが返って来た。彼が熱血漢だという事は知っているつもりだったが、思った以上に正義漢でもあったらしい。
「だからお前、もう諦めよう、なんて言うなよ」
強い調子のジョージに、誠も真顔で頷かざるを得なかった。