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第四章・第三話 「悪夢の名残り」

 目が覚めた時の気分は最悪だった。

 あまりにも分かり易い夢を見る自分は、それだけ単純なんだろうとは思った。とにかく妙に質感がリアルな夢だった。ここ数日見る夢はまずそうだ。塩田綾に触れた時の感触も、息が苦しくなった時の感覚も覚えている。

 何よりも塩田綾を奪った生き物への殺意は、震えが来る程に残っていた。

 あの生き物は鮫だろう。いつだったか、ジェームスが言っていた。サーフィンのポイントに向けてボードの上に腹這いになって水を掻いていた、そのすぐ下を巨大なタイガーシャークがすうっと泳いで行った事があり、その日は即座に戻ったそうだ。

 サーフィン歴の長いローランドも、タイガーシャークは水の中で顔を合わせるのは御免蒙りたい相手だと言う。そういえば塩田綾の遺体はどうなっただろう。そこまで考えて、鳥肌が立った。体温が一気に下がった気がする。

 寝汗を吸ったTシャツを着替え、誠はキッチンへ行った。昨日、一昨日に比べればずっと体は軽い。冷蔵庫から昨日の残りのスポーツドリンクを出して、一気に飲む。冷蔵庫の扉にジェームスからのメッセージが貼ってあった。

「ライス・スープの残りがあるから、温めて食べるといい。夕食は好きなものをテイクアウトするから、電話してくれ」

 ライス・スープというのは、トレイシーが鍋一杯に作っていったおじやの事だ。誠は肩を竦めた。そうそう続けて食べたい物でもない。夕食を楽しみにした方がいいと思いつつ、携帯を充電していなかった事を思い出した。当然メールもチェックしていない。

 さぞかしどうでもいい広告が溜まっているだろうが、兄や塩田文美からのメールが届いているかもしれない。兄なら急用があれば、自宅に電話も出来るが、塩田文美はおそらく誠のメール・アドレスしか知らないだろう。

 もっとも塩田文美からの急用というのも考えられなかったし、第一今は彼女にどんなメールを送ることも心苦しかった。

 メールをチェックする前に食事を済ませる事にして、渋々おじやの残りを温めた。テレビを見るともなしに見ながらスプーンを口に運んでいる所に自宅の電話が鳴った。兄だった。

「ああ、いた。今日は遅番か?」

 タイミングの良さは誠を驚かせた。

「いや、ちょっと、今日は具合が悪いから休み」

 怪我の事実と理由をどこまで話すか、あるいは全く伏せて置くか決めかねて、歯切れの悪い返答になった。

「何だ、風邪か? ちゃんと食べてるか?」

 呑気に聞こえる兄の声に、誠はやはり怪我の事は黙っていようと思った。兄に告げた所で、彼を心配させる外はどうなるものでもない。「大した事ないよ、半分サボりだから」と明るく言うと、兄は少し笑ってから本題を切り出した。塩田綾の父親が、ハワイに来る事を計画しているらしい。

「まだ、院長先生自身が行くかどうかは決めていないようだけど、娘婿(むすめむこ)さんは行くそうだ。綾さんの妹さんの旦那って人だな。妹さんは妊娠中だから、飛行機に乗らない方がいいだろうってよ。それでお前、悪いんだけどさ……」

 暗澹(あんたん)たる思いに捉われながら、誠は努めて明るく言った。

「分かってる。案内すればいいんだろ? 彼女のコンドミニアムとか、学校とかね。俺の車は古いから、レンタカーでも借りようかな?」

 瞬時、脳裏にぴかぴかのレンタカーで塩田綾の家族をコンドミニアムに案内し、白々しく「御心配ですね」などと言っている自分の姿が映り、いっそ兄に何もかもぶちまけたい気分に襲われた。

「本当に今回は迷惑かけるよ。今度日本に遊びに来たら、何でも奢ってやるからな」

 心から済まながっているような声が、辛うじて誠を止めた。

 今、誠が全てを打ち明けても、兄はそれを塩田家の人々に伝える事は出来ないだろう。遺体も見付かっていない、警察に立件もして貰えない状況で「お宅のお嬢さんはお亡くなりに」とは、言えたものではない。

 ジョージが立案した計画が上手く行けば幸いだが、最悪でも、塩田綾の父なり義弟なりが彼女の失踪を確認することで、一応の収まりは着くだろう。

「で、いつ頃来るのかな?」

 三日後とか五日後というのは好ましくない。兄はええっと、と間延びした声を出した。

「三週間くらい先だと思う。詳しい日程が決まり次第知らせるから」

 電話を切って、誠は複雑な思いに捕らわれた。

 塩田綾の家族が彼女の失踪を確認すれば、それで事件は誠の手を離れる。しかし実際に彼女の身に何が起こったかは、彼らは知りようがない。

 仮にジョージの計画が上手く行ったとしても、ゴールデンの連中は過去に遡って塩田綾の事まで喋りはしないだろう。緑か誠が口を開かない限り、塩田綾の最期は闇の中というわけだ。誠は溜息を吐いてカウチに体を預けた。

 もし自分が事故か何かで死んで、両親や兄は、次男坊がゲイだったという事を知っても、知って良かったと思うだろうか。そんな事は知らなければ良かったと思うのではないか。誠は頭を振った。

 少し違う。塩田綾の家族は、彼女が既に鬼籍の人だという事も知らないのだ。但し、亡くなっているという事実に、何故、どのように、という大きなおまけが付くのだ。

 煙草を二本、立て続けに灰にした上で、誠はある結論を出した。ジョージの計画がどうなろうとも、いずれ塩田文美に本当の事を伝えよう。一年先かもっと、緑が落ち着いた頃を待って、彼女を誘って塩田文美に会いに行ってみよう。

 その結論は決して誠の気持ちを軽くしなかったが、何となく踏ん切りが付いた。携帯ではなくパソコンでメールをチェックすると、やはり塩田文美からメールが来ていた。

 捜索が進展しない事には一切触れず、短く丁寧な文で、自分の夫がハワイに行く事になったので、どうか宜しく、というような事が書いてあった。

 少し考えて簡潔に、ご心配なく、という内容の返事を書いた。

 兄の電話と塩田文美のメールとで、すっかり疲れたような気分になってしまった。やはり自分は弱っているのだと思う。

 リビングルームのカウチに横になると、開け放してある窓から風が吹き込んでキリンのような顔を撫で、誠は昨晩の夢を思い出した。水に漂う塩田綾は、怖しい程美しかった。

 性愛の対象ではないのだが、綺麗な女性は好きだ。一種の芸術品を見るような気持ちがする。夢の塩田綾は正に芸術品だった。その美しさと、それを奪った生き物への殺意は、まだ胸の中にくっきりと残っていて、誠を驚かせた。

 もっとも自分が息苦しくなって、力尽きようとした時には「誰か、誰かあいつを殺してくれ」という祈りにも似たものになっていたけれど。

 塩田綾の死と、ナナウエやゴールデンの関係からそんな夢を見たのは確かで、自分の単純さに苦笑が洩れたが、一方で自分の中には案外強い感情があるのだと何かを発見した気もした。

 塩田綾の遺体は、海流に乗って流れてしまったのならいい。


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