第一章・第四話 「コンドミニアム」
退屈していたのか、若い警備員は誠が質問に答える前に、さらに質問を投げて来た。
日本人だね、その格好は学生じゃないね、何の仕事だい、給料はいいのかい、ここの家賃は高いよ、基本は分譲型だから、まさか買おうってんじゃないよね。
ハワイアンかサモアンと思しき彼は、やたらとニコニコしているので、誠もつい釣り込まれて笑った。
「ここに住むなんて、とんでもない話さ。俺の給料じゃとても。ここに住んでる人を、捜しに来たんだ」
肩を竦めて見せると、彼は深々と頷いた。
「こんな所、住むもんじゃねぇって。高い上に、あんた、出んだよ」
ホーンテッドという単語に誠はぎょっとしたが、彼は笑顔のままで続けた。
「夜中に見回りしてっと、声が聞こえたり変な影が見えたり、さぁ。こないだなんか、でっけぇハワイアンの男が槍持って歩いてたっけ」
「怖くないのかい?」
「俺ぁ、ハワイアンだもの。ハワイアンの幽霊は怖くねぇ。それにあんた、幽霊が出るビルなんか掃いて捨てる程あるしよ。ま、警察官の試験に受かるまでの辛抱よ」
あっけらかんと笑う彼に好感を感じて、誠は手短に事情を説明した。ついでに昨夜プリントアウトした綾の写真も見せた。
「ああ、そりゃ親御さんは心配だね。どれ、おや別嬪さんだ、な。ううん、一度か二度見かけた事があったかもしんねぇ。俺は分かんねぇが、マネージャーなら分かるかも、な。よし、一緒にマネージャーのオフィスへ行こうぜ」
彼の名前はキモといった。
紹介されたマネージャーは、アジア系の初老の男性だった。誠が説明をするまでもなく、キモが横から早口で伝えてくれた。
「て訳だからよ。ロナルド、助けてあげなよ」
考え込む風にしたマネージャーに、誠は素早くPDFファイルを印刷した手紙を示した。
「怪しい者じゃないんです。まだ塩田さんの部屋に入りたい訳でもないですし。ただ部屋は賃貸だったと聞いていますが、どこの不動産会社か分かりますか? それと最近、彼女を見かけた事はありませんか?」
そう尋ねて、誠は取って置きのセールス・スマイルを浮かべて見せた。威圧の利かない外見でこの笑顔を浮かべると、少なくとも相手の警戒心だけは削ぐ、とジョージに教えてもらった。
それでもマネージャーは、渋い顔を崩さない。
「この人は住人のお父さん? もしも非常時の連絡先に、名前が入っていれば……」
言いながらデスクの後ろから、台帳を引っ張り出した。
「ええっと、3102の塩田さんの非常時連絡先は、学校だね。どこの学校か知ってるんなら、そこに行って聞いてみたらどうだい? 申し訳ないが、最近見かけたかどうかも答えられないね」
首を振りながら言ったが、決して冷たい口ぶりではない。マネージャーの懸念も分かる。
非常時の連絡先に父親の名前がなく、手紙も正式ではない以上、誠がただのストーカーでないと証明できるものがない。はじめから期待していなかった分、失望もしなかった。
「学校で聞いてみます」
軽く答えると、マネージャーは腕を組んで言った。
「変な事を言うようだけど、彼女が部屋で亡くなっているって事だけは、心配しなくていいよ。そんな事だったら、とっくに匂いがして、近所から苦情が出てる筈だからね」
そうですね、と言いながらも誠は、その可能性を考えていなかった自分に呆れた。
人が亡くなったとして、近所が匂いで気が付き、部屋を開けてみて騒ぎになり、不動産会社から日本に連絡が入るのに、一か月は掛かるまいと思ったからかもしれなかった。
それまで黙っていたキモがふいに口を開いた。
「そういう事があったのかい?」
「このビルじゃないよ。私が前に勤めていたビルだが、あれは参った。独り暮らしのお年寄りで、気の毒だった。本当に気の毒だったが、本当に参った」
分かるだろう、という口調でマネージャーはまた首を振った。この人の癖かもしれない。
当面、このコンドミニアムで拾える情報はこんなものだろうと判断して、誠は切り上げる事にした。二人に丁寧に礼を言い、万一、塩田綾を見かけたら日本に連絡するように伝える事を頼んだ。
まだ話したそうなキモと駐車場で別れてから、出勤時間が迫っている事に気が付いた。
店は昨日と同じ様な混雑振りだった。
しかし、今日は一階担当になった誠に昨日ほどのツキはなく、お陰で塩田綾について考えを巡らす余裕もあった。
彼女がどんな性格かまでは、兄のメールにはなかったけれど、ボーイフレンドが出来て彼の所へ入り浸りになり、実家からの連絡と擦れ違い続けている、というのはありそうな話だ。
思い返してみれば、依頼の電話で「我が儘で気まぐれな所がある」と、彼女の父親の評を聞いた。何か腹の立つ事でもあって、わざと連絡を取らないでいるのかもしれない。
実は両親の方も、それが分かっていたから敢えて放置しておいたというのは考えられる。
電話は当然、留守番電話にしたままなのだろうし、インターホンにしても、一人暮らしの女性の事だ。誰かの訪問の予定がなければ、無視するだろう。
もしそういう気楽な状態でないのなら、何かのトラブルに巻き込まれた可能性が高く、誠の手に負える問題ではない。
アパートを当たった次は、学校に行ってみなくてはならないが、明日は土曜だ。月曜まで出来る事はなさそうだ。
そこまで考えて、誠は塩田綾について考えるのを止めた。
何かの理由でわざと彼女が両親と連絡を絶っているというのが、至極妥当な所だと思えたからだ。
彼女について考えるのを止めると、あとは仕事の後にジェームスと過ごす時間の事しか頭に残らなかった。
ジェームスと知り合ったのは、同性愛者が集うバーだ。彼の控え目で丁寧な物腰と、すぐベッドに誘わない所を気に入った。
もっとも、後でジェームスが告白した所によると「本当はすぐにでも誘いたかったさ。でも日本人は初めてだったし、すぐに寝て、すぐにさよならじゃ嫌だったから、慎重になったんだよ」だそうだ。
女の子じゃあるまいし、とは思うけれど、そんな風に気を遣ってくれる彼が好きだ。
身長は誠よりも三、四センチ高い程度だから、百八十センチくらいだが、体重は優に十キロ以上重いだろう。茶色の髪で瞳も茶色。
整った顔立ちというよりは、味のある顔だと誠は常々思っている。
閉店後、スーパーバイザーのティムが「一杯やってかないか」と誘って来たが、誠は丁寧に辞退した。
アパートに帰ると、ジェームスは大量の資料に囲まれて誠の帰りを待っていた。
「お帰り、腹減ってる? 一応夜食を用意してあるけど」
ナイト・シフトの夕食休憩は五時から六時だ。店が終わって閉店作業の終わる十一時半から十二時には、すっかり空腹になってしまう。
「寝る前に食べると太っちゃう」とはトレイシーの言で、誠も気を付けなければと思うのだが、空きっ腹を抱えて眠るのは辛い。まして仕事の後のビールの魅力には抗い難い。
「寄り道せずに帰ったからね、飢え死にしそうだよ」
急いで着替えを済ませてキッチンを覗くと、ジェームスがチキンを温めなおしていた。
彼の自慢のショーユ・チキンだ。ハワイ名物、プレートランチのメニューで最もポピュラーなこの料理はジェームスの自慢だ。
どういう手順で、どういう調味料を使っているのか、料理の下手な誠は分からないが、「俺のチキンはオアフ島一美味い」と彼が得意気なのも、あながち嘘ではない。
続いてジェームスは、冷蔵庫からポケを出した。地元でアヒと呼ばれる鮪の肉を犀の目に切り、玉葱やオゴという海藻と一緒に、醤油をベースにしたたれに漬けて食べる。このたれもジェームスは一家言持っている。
お得意の料理を二品も作った所を見ると、何か良いことがあったに違いない。誠はビールにも手を伸ばした。
「何があったんだい?」
リビングルームのカウチに座って、やわらかいチキンを口一杯に頬張りながら、誠は尋ねた。
「例のケースが解決した、と言いたい所なんだが、実は法廷で争う事になった。また当分忙しくなりそうだから、君の好物で前払い」
外の分野の訴訟問題もそうなのだろうが、離婚問題、子供の親権を巡る争いが法廷に持ち込まれる場合は大抵長引く。依頼人からのプレッシャーも大きく、ジェームスのような駆け出しは、一回々々が大事な勝負だ。
「ああそう、仕方がないね。負けねぇでよ」
「君の恋人は無敵だ。ところで昨日のPower of Attorney の事だけど」
誠が、コンドミニアムに行って来た経緯を、自分の推察も含めて話すと、ジェームスは少し眉を顰めた。
「本当に君の思っている通りならいいが、そうでないようなら関わり合いになっちゃいけない」
「俺が首を突っ込んで危ないような事に、日本人の女の子が関わってる訳がないじゃないか」
誠がハワイに来たのは三年前ほどだ。暫く語学学校へ通ってから、働き出した。
笑い飛ばした誠を、ジェームスは真剣な声で窘めた。
「君はまだ三年しかハワイにいない。確かに本土よりも治安が良いし、犯罪の質もひどくないが、狭い島なんだ。色々な人間が、肩をぶつけ合って生きてる。それだけに人間同士で、思わぬ摩擦が出来るんだ」
忠告には素直に頷いたものの、誠の頭の中には、この後ジェームスを押し倒すことしかなかった。