第四章・第一話 「消沈」
氷を代えたり、誠の寝汗を拭いたりで、ほとんど睡眠を摂らないまま、ジェームスは仕事に行く羽目になった。済まながる誠にウインクして「鍛えてあるから平気なんだ」と、意外と元気そうに出て行った。
しばらくベッドでまどろんだ後、誠はリビングルームに移動した。
枕と毛布を持ってカウチに横になる。思い立って煙草を吸ってみたが、煙は傷に沁みるという事を痛感しただけだった。
体の表面に劣らず、口の中もひどい状態になっていた。口腔も舌も傷だらけで、おまけに元々噛み合わせの悪かった、右犬歯の奥の歯が欠けてしまっている。それだけで済んだのは幸いかもしれないが、嬉しくはない。
本来なら今日はクロージング・シフトだったのだが、無論行ける訳がない。ジェームスが仕事場から店に電話を入れてくれると言っていた。午前中一杯、誠は見るともなしにテレビを付けたまま、カウチでうとうとして過ごした。
静寂が破られたのは、電話の音だった。
気が付いて時計を見ると、午後の一時半になっている。僅かな動作でも、体のどこかしらが痛む。表示を見ると店からだ。誠は唸りながら電話を取った。マネージャーのポールだった。
「おお誠、起きて大丈夫かい? ジェームスから聞いたよ、大変な災難だったな」
ちっとも大丈夫じゃない。あんたが電話なんかしなけりゃ起きる必要はなかったんだよ、と言ってやりたかったが、喉も口の中も痛い。嗄れた声で「ああ」とか「うう」と言うのが、精一杯だった。
「暫く休まなけりゃならないだろう。当分休めるようにしておくよ。後で医者の診断書を提出してくれればいいよ。病欠手当は一週間分だけど、スタッフのスケジュールはやりくりするから」
事務的な事を一方的に喋ると、それじゃお大事にとポールは電話を切った。ジェームスが何と説明したのか知らないが、ポールの口振りからして症状を誇張して伝えたのは間違いない。
もっとも誠自身、どれ程休めば職場に復帰出来るのか分からなかった。体の向きを変える度に脇腹は恐ろしく痛んだし、トイレに行った際、鏡を見て愕然とした。熟れた夏みかんのような顔は、ちょっとしたホラー映画のようだった。こんな顔では、とてもフロアに立てない。
何よりも精神的に、店に出るような気分ではなかった。よってたかって殴られ、蹴られた、その経験が誠をすっかり萎縮させていた。
泥の上で体中を蹴り飛ばされながら、誠が何よりも感じていたのは恐怖だった。
暴力が理屈抜きで人の心を操作出来るという事実を、身を持って感じた。緑は実際に体を傷付けられた事はなかったようだが、彼女が恐れていたのも、詰まるところは同じものだ。
食欲は全く無かったが、薬を呑む為に何か胃に入れなくてはならなかった。ジェームスが指示していったように、ヨーグルトを口腔中の傷に触れないよう、スプーンで喉に流し込む。続いて処方された痛み止めと、化膿止めを服用した。
大きな錠剤が喉に遣えて噎せかえり、涙を流しながらやっと水と共に呑み込んだ時、急に全てが馬鹿々々しくなった。
兄に頼まれるまま塩田綾を捜し回り、偶然と行き掛かりでゴールデンに辿り着いて得たものは、塩田綾の死を確認した事と、ぼろ雑巾のようになったこの体だ。殺されなかっただけましなのかもしれないけれど、一方で、自分がこんな目に遭うのは割に合わない気もする。
負け犬だろうが何だろうが、肉体の痛みは精神の高揚を邪魔する。ゴールデンで行われている事を糾弾しようという気持ちは萎えかけていた。殴られて逆に意気軒昂になってしまう、ハードボイルド小説の主人公とは違うのだ。
もう一つ、誠の気持ちを暗くさせている理由もあった。
暴行にあった直後、警官達は誠に親切だったが、ジェームスが現場にやって来て誠がゲイだと分かると、ごく僅かだが態度が変わった。「ヘイト・クライムじゃないのか?」と言ったの警官は、無神経だったけれど、正直者かもしれない。事件の被害者がゲイだったから、ゲイを嫌う人々の仕業だと簡単に判断されてしまったのが悲しかった。
いっそのこと自分もストレートで、同性愛と聞いただけで「気持ち悪い」だの「変態だ」と一刀両断に出来るほど神経の浮腫んだ男だったなら、などと滅茶苦茶な事を考えて誠は自虐的な気分になった。
人種差別や性差別、或いは嗜好、出自による差別など、差別する側はいつだって無神経でかつ幸せな人々だ。差別される側は、嫌でも繊細になる。
普段なら楽天家のジェームスが、差別って事にヒステリックになり過ぎて、差別される自分に自己を見出してるようじゃいけないよ、等と言ってくれるのだが、こういう時、隣にいないと役に立たない。
拗ねた気分を抱え込んで、誠は再びカウチで毛布にくるまった。夏みかんの顔が熱い。また熱が上がって来たのかもしれなかった。
翌朝になると顔の腫れは大分引いていた。
しかし今度は逆に青黒い痣になり始めている。ジェームスが溜息を吐いた。
「パンダっていうよりキリンかな? 目の回りだけじゃないからね」
ちっともおかしくはなかったが、少なくとも前日よりは気分が良かった分だけ、笑ってみせる余裕はあった。
昨夜帰って来たジェームスは、誠にスープを無理矢理飲ませると、自分はベッドに倒れ込んでしまった。前夜寝ていなかったのはやはり堪えたらしい。塩田綾とゴールデンの話は出来ないままだった。
測ったかのように、昨日と同じ時間に電話が鳴った。
やはり店からだったが、今度はジョージとトレイシーが交互に出た。具合を尋ねられ、それ程悪くないと答えると、有無を言わせない調子で仕事が終わったら、二人で見舞いに行くと宣言された。
夕方になって山ほど見舞いの日本食を抱えてやって来た二人は、まず誠の顔を見て絶句した。
「そんなに酷いかい?」
「その顔が元に戻らなかったら、ジェームスに振られるかもしれないぞ」
ジョージは軽口を叩いたが、トレイシーは眉を顰めただけで、スーパーマーケットの袋を抱えてキッチンに行ってしまった。何度も来て勝手は知っているので、買ってきた物をしまってくれるつもりなんだろう。カウチに落ち着くと、ジョージは急に真顔になった。
「一体全体、何をやったんだよ? まさか本当に、ただの酔っ払いに絡まれた訳じゃねぇだろう」
なるほど、店ではそういう事になっているらしい。誠が起こった事だけを並べて簡単に説明すると、ジョージは凶悪な顔付きになった。
「あのな、そこに至るまでにお前何をしたんだよ? そこから説明しろ。第一、ナナウエって奴が居合わせたのも腑に落ちねぇ」
どこから話そうかと誠が思案していると、トレイシーがキッチンから戻って来た。やけに時間がかかると思ったら、コーヒーを煎れていたようだ。コーヒーカップの載った盆を持っている。大喜びで手を差し出すと、コーヒーではなくスポーツドリンクを手渡された。
「何だよ、これ。俺もコーヒーがいいよ」
「こういう時は、カフェインは良くないの。いいじゃん、それ日本のだよ。高かったんだから」
高飛車な口調に、誠は反論を諦めてペットボトルの口を開け、緑から聞いた話と、彼女が日本へ帰る手助けをした話をした。ナナウエを掴まえて、塩田綾の件でなじってやった事まで話すと、ジョージは納得した顔をした。
「じゃあさ、ミス、シオタの事はどうなるの? 何も無かった事にされちゃうわけ? そんなの酷いよ」
何度も瞬きしながらトレイシーが言った。トレイシーは生前の塩田綾に会った事があるのだ。客とセールスというだけの関係だが、印象に残るような客だっただけに、思い入れがあるのかもしれなかった。
「確かにそうだけど、誠が殺されても困るよな」
トレイシーとは逆の意見を言って、ジョージは困ったような顔をして見せた。
「そうだろ? アラモアナでその緑って子をピックアップする時に、顔を見られたのがまずかったよな。その前に何度もゴールデンに行ってたし。奴らは、誠がドラッグや売春紛いや、それに人死にが出てる事を緑から聞いたと思ってる。それを黙っていろって事なんだが、実際に口封じをするつもりはないと思いたいな、俺としては」
急に寒気がした。誠を囲んだ連中は素手だったから、第一の目的は痛めつける事だったに違いないが、アクシデントで誠が死んだとしても、それはそれで構わなかっただろう。
ほんの短時間だったから良かったものの、容赦ない蹴りを思い出して傷が疼いた。
「誠、休暇取って、日本に少し帰るっていうのはどう?」
急にトレイシーの顔も青くなった。




