第三章・第十四話 「ダメージ」
何だってあんたがここにいるんだ、と言おうとして誠は、言葉の代わりに泥を口から吐き出した。
口の中がじゃりじゃりして、ひどく気持ちが悪い。泥に混じって血の味もする。感覚は無いが、歯が折れたのでない事を祈った。
「俺もお前が出て来るのを待ってたんだ。変なのに誘われて、のこのこ暗いとこへ着いて行くなんて、馬鹿じゃないのか」
独り言のように言って、ナナウエは誠の腕の下に肩を差し入れた。
「わざわざ巡回中のお巡りに声をかけてやったんだ。感謝しろよ」
支えられてホテルの軒下まで移動する間、誠は情けない程に悲鳴を上げた。乾いたコンクリートの石段に腰を下ろした時、乗り捨てられてある警察のカートが目に入った。
ナナウエが頼んだという警官の物だろう。人一人が乗るにはやや大ぶりのカートで、三輪のタイヤが付いている。サイズの割にはスピードも出るし、歩道にも乗り上げられるので、細い道や一方通行の多いワイキキには打ってつけのカートだ。
乗っていた警官はどうしたのかと思っている間に、小走りに戻って来た。無線で怒鳴りつけるようにして何か連絡している。その警官に脇から何かを告げると、ナナウエはどこかへ行ってしまった。
両足を投げ出すようにして座ったまま、誠は両手で頭を押さえた。散々蹴られたお陰で、呼吸をする毎に恐ろしく痛む。誰かと殴り合いになった事はあったが、複数からこれ程一方的にやられたのは初めてだ。連絡を終えたらしい警官が近付いて来た。
「こりゃまた、ひどくやられたもんだ、な。話せますか?」
アジア系の警官は地元アクセントの強い英語で話しかけて来た。返事をしようとすると、喉の奥から情けないほど掠れた音が出た。どれ程かは分からないが、鼻血も出ているようだ。それが口の中に流れ込んで、血と泥の混じった味がする。吐きそうだ。
「救急車は今、手配したからね」
この親切は嬉しくもあったし、嬉しくない部分もあった。アメリカでは救急車は有料だ。具体的にいくら掛かるかは知らないが、かなり高額だと聞いたことがあるし、さて自分の会社の医療保険で救急車代が出るかどうか分からない。
体中が痛かったが、それでも今すぐ死ぬとは思われなかったので、辞退したい気もした。
警官がさらに質問をしようとした時、ナナウエが戻って来た。手にミネラルウォーターのペットボトルを抱えている。キャップを捻って開け、誠に手渡した。
「口を濯げよ。それじゃ喋れねぇだろ」
冷たい水が傷だらけの口中に沁みたが、泥を吐き出せるのは何よりも有り難かった。何度も何度も口を濯ぎ、うがいをして、ついでに水を飲むと、大きな溜息が出た。痛みは一向に薄れないが、多少正気に返ったような気がする。
泥々になった上着の内ポケットに手を入れて携帯電話を出した。有り難いことに壊れていない。訝しげな顔をしているナナウエに渡す。
「2番。オート・ダイアル。俺のルームメイト」
切れ切れに言うと、ナナウエは困った顔をしながら電話し始めた。同じく困惑顔をしている警官の後ろから、救急車のオレンジの光が近付いてくるのが見えた。誠は朦朧とする頭で警官に事の次第を説明しなくては、ともう一度口を開いたが、上手く言葉が出て来なかった。
駆け付けた救急隊員にストレッチャーに乗せられた時に、ナナウエが何か言ったが、誠は聞き取れなかった。
ストレッチャーが救急車に固定された途端に気を失ってしまい、目が覚めたのは治療室のベッドの上だった。あれこれ調べられ、レントゲンを撮ったり、何やらスキャンに掛けられた末、肋骨二本に罅が入っているだけで、あとは打撲と筋を痛めたものと診断された。歯も欠けたが、それは歯医者に行くよう言われた。
これも保険制度の問題で、余程の怪我でない限り、病院では患者を入院させない。駆けつけたジェームスに抱えられてアパートへ戻り、体をすっかり拭いて貰ってベッドに横たえられると、僅かだが頭が働き出した。
「立件は難しいだろうねぇ」
病院の緊急外来、ERのベッドで行われた聴取で、最初に誠を助けてくれた警官と、後からやって来た警官達が、声を揃えて言ったのが頭に甦った。
誠が犯人達はゴールデンの名前を口にしたと主張した時だ。
そのホテルのオーナーとトラブルのような事があって、誰かに頼んで自分を痛めつけたんでしょう。必要なら詳しい事を話します、と痛みに耐えながら、何とか言葉を搾り出した誠に対して、彼らはいささか申し訳なさそうに言った。
警官がナナウエと共に駆け付けた時、犯人達は雨に紛れて三々五々逃げ散ってしまって捕まらなかったし、ナナウエも彼らがゴールデン云々と言うのを聞いた訳ではない。居合わせた警官だって聞いていないのだから、それを押してナナウエが「聞いた」と言えば偽証になる。
とりあえずは被害届を出すように、との事だった。
警官達は決して不親切ではなかったが、飛んで来たジェームスの取り乱し振りを見て、誰かが「実は、ヘイト・クライムじゃないのか?」と小声で言った。
呑気な響きの声を発した主を、誠は睨み付けてやりたいと思ったけれど、目眩がして焦点が合わなかった。
ヘイト・クライム。ある特定の人間を嫌悪する事による犯罪を指して呼ばれるそれは、未だに起こるアフリカ系アメリカ人への私刑なども含まれるし、昨今では犠牲者がゲイである事も珍しくない。
悪意はなかったのだろうが、ゲイだから私刑にでも遭ったのだろうという安易な発想に誠は腹が立った。
思い出して不愉快な唸り声を出すと、ジェームスがベッドルームへ駆け込んで来る音がした。今や誠の両目は腫れてしまって開けるのが辛いほどだ。
「どうしたんだ? 痛むのか」
「違うよ、何でもない」
No, Nothing. と答えたつもりが「ドー、ダッジング」と自分の耳には聞こえた。鼻血のお陰で鼻が詰まっている。それでもジェームスは了解したようだ。
「そうか、そんならいいけど、随分、腫れたな」と言いながら、ベッドルームから出て行ったと思うと、しばらくして氷の入ったビニール袋を持って来て、誠の顔に当ててくれた。
これは気持ちがいい。
「誠、聞こえてるか?」
唸り声で返事をすると、ジェームスはいつになくしんみりした声で語り掛けた。
「頼むから死なないでくれ」
そんな傷じゃない、と抗議の声を上げようとすると、ジェームスの指が唇に触れた。黙っていろという事か。
「あのナナウエって彼が、今度の事は例の失踪した彼女絡みだと言っていた。迂闊な真似はしないでくれ。人間は、多分君が思っている以上に簡単に人を傷付けるんだ。理由なんて下らない事がほとんどなんだ。昔、俺の友達が同性愛嫌悪症の奴らに私刑されて死んだ話をしただろう。君が誰かに傷付けられるなんて、耐えられない」
声が濡れている。そう言えば、いつも冷静なジェームスがあれ程取り乱したのは初めてだと思う。
指が誠の右手に触れた。誠はその指を掴んで出来る限り強く握った。
強烈な痛み止めのお陰で眠気はすぐにやって来たが、それでもあちこち痛むのと、鼻づまりと熱のお陰で、安眠には遠かった。