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第三章・第十三話 「雨」

 前日ほどではなかったものの、やはり甘い見通しだった。

 目覚ましが鳴る前に、誠は魘されて二回も起きた。一度目はよく覚えていないが、二度目の悪夢で誠はナナウエを滅茶苦茶に殴っていた。

 場所はワイキキ・ビーチで、脇に塩田綾と緑がいて「止めて、止めて」と泣き叫んでいたけれど、誠は耳を貸さなかった。ナナウエが一向に反撃に出ないのに業を煮やし、誠は彼を殴り倒して馬乗りになり、首を絞め始めた。

 それでもナナウエは大して苦しそうな顔すらしない。思い切って首を捻じ切ると、血ではなく真っ赤な砂が傷口からこぼれた。

 目が覚めたその時は、殴った衝撃も、首を絞めた感触も両手に残っていて、全身に鳥肌が立った。

 アラームの音で起きた時も、びっしょりと寝汗を掻いていた。シャワーを使って汗は流したものの、昨晩の悪夢はまだ体中にこびり付いている気がする。

 キッチンへ行くと、冷蔵庫の扉にジェームスからの怒りのメッセージが貼り付けてあった。

「俺の特製パスタを無視するとはいい度胸だ。今晩帰った時に、まだ残っていたら風呂掃除を五年やって貰う」

 おやおやと思いながら冷蔵庫の扉を開けると、目立つ場所に彼の得意なベーコンと野菜のパスタがラップを掛けられてある。御丁寧に「私を食べて」という可愛らしいカードも添えてあり、誠の罪悪感を煽った。昨夜帰宅して、水割りの氷のために冷凍庫は開けたが、冷蔵庫は開けなかった。

 食欲はないと思っていたが、昨晩仕事の後に何も食べなかったせいか、食べ始めるとあっという間に平らげた。皿をシンクに放り込み、ジェームスへのメッセージを書く。

「パスタは美味かった。仕事前にガーリックの入ったパスタを食べるほど愛しているので、風呂掃除は勘弁してくれ。相談したい事があるので、今夜は夜更かししてくれると有り難い。仕事が終わったらすぐ帰る」

 ほんの僅かだが気分が軽くなった。何があっても、自分は生きているのだ。接客の際に口臭がしないよう、念入りに歯を磨き、口腔洗浄剤で何度も口を濯いでをしてアパートを出た。


 店の裏手にある駐車場で車から降りると、ひどく蒸し暑い気がした。

 今日のクロージング・クルーはマーク、ジョン、トレイシーに雪子だった。誠はトレイシーと一緒のフロアになることを期待していたのだが、上と下に分けられてしまった。こうなると話は出来ない。それに昨日の売り上げは限りなくゼロに近かったから、今日はもう少し真面目に仕事をするべきだろう。

 数時間真面目に接客に励み、モーニング・クルーが帰る前に、クロージング・クルーと揃って食事に行った。

 食事を終えて店に帰ると、キャッシャーのアンジェラが誠に電話があったと告げた。

「名前は聞いた?」

「聞いたけど、言わなかった。アクセントあったから、日本人だと思うよ。今日、働いているかって聞くから、クロージングですとだけ言っておいたけど」

 側で会話を聞いていたポールが、断定的に「客だな」と言った。

「きっと前に来て、誠の接客が気に入ったんだろう」

 名札こそ付けてはいないが、聞かれれば名刺を渡す事になっているし、特にハワイ在住の客にはそうするように心懸けている。実際、いつも誠から買ってくれるお得意も何人かいるので、その一人かもしれないと思った。前日の分の売り上げを稼ぐチャンスかもしれない。

 顔見知りの客が来るのではないかと、誠は新たな客が二階に来る度に注意を払っていたが、電話の主は一向に現れなかった。それでも客足はほどほどに良く、二日分とはいかないまでも、誠はそれなりの売り上げを挙げた。

 接客中に、時折塩田綾の件が頭を掠めたが、全ては今晩ジェームスに相談してからの事だと、努めて考えないようにした。

 十時近くなって雨が降り出した。こうなると客足はぴたりと止まる。

 アラモアナやロイヤルハワイアンのようなショッピングセンターは、雨になると忙しくなるそうだが、一戸建ての店は雨に弱い。傘を差して店から店へ移動するのは、誰にとっても億劫だ。いきおい買い物客は、移動が楽な大型ショッピングセンターに集中する。

 せめてもの救いは、店が最も忙しい八時からの二時間、雨が降らなかった事だ。

 閑散としてしまったフロアで、警備員のジョシュアが「今日は蒸し暑かったからねぇ、降るなと思ってたんだ」と、誰にともなく言った。

 帰り際トレイシーが食事でもと声をかけて来たが、ジェームスに起きていてくれるよう頼んだ手前があった。また今度と断って、他のメンバーと一緒に店を出た。雨はまだ降っているが、駐車場までは五分もかからない。走って行けばそれ程濡れずに済むと、皆小走りになった。

 店の脇の通路を抜けて細い路地に差し掛かった時、急に誠は名前を呼ばれた。

「桜井さん、桜井さんでしょう?」

 驚いて足を止め、声のした方を振り向くと、近くの街灯の下に傘を差した男が立っていた。傘と雨のお陰でよく見えないが、眼鏡をかけていて中肉中背の日本人だ。

 誠は同僚達に「濡れるから早く行きなよ」と手を振り、男に向き直った。

「私に用ですか?」

「すみません、待ち伏せみたいな事をして。僕、塩田綾って人を捜しているんですけど、あなたも捜していると聞いたもんで」

 雨が額から流れて来るのを手で拭って、誠は首を傾げた。成果が上がらないのに苛立って、塩田綾の父親が別の人物に依頼したのだろうか。

「時間はかかりません。ちょっと会ってほしい人がいるんですよ」

 彼は早口で言うと、体の向きを変えて歩き出した。すぐ近くにある小振りのホテルに近付いて行く。誠はやむを得ず従ったが、同時に訝しくも思った。彼は名乗りもしないし、傘で顔を隠すようにしている。

 ホテルのエントランス前を通過し、裏手の空き地へ入って行く。空き地に足を踏み入れかけて嫌な予感がした。

 暗くて建物の影に男が身を潜めていた事に誠は気が付かなかった。

 肩を掴まれたと思った次の瞬間には、腹に強烈なパンチが食い込み倒れかかった。どこにいたのか三、四人の男達に囲まれ、あっという間に誠は泥の上を這いずり回る羽目になった。

 蹴られて、踏まれながら、体のどこを庇うという事も出来ない。男達はいずれも日本人ではない。英語で口々に罵り、ゴールデンに近寄るなという意味の事を言った。

 遠くで人の声がしたような気がした。誠は彼らの靴の下で体を丸めるだけで、助けを呼ぶ事も出来ない。

 こめかみの辺りを強か蹴り付けられて、誠は死を意識した。

 急に男達の攻撃が止まり、同時に気配が遠ざかった。

「こっちだよ、オフィサー。おい、死んでねぇだろうな」

 誰かが走って来て声を上げ、誠を抱き起こした。オフィサーと言ったからには警察官も一緒なのだろう。ありがたい、助かったと思いながら、誠は目が開かなかった。泥のせいだ。

「こんなにされちまって。ちっとは反撃したのかよ?」

 この声には聞き覚えがある。乱暴な言い回しも。

 救いの主は誠を引き摺ってアスファルトの路肩に座らせ、湿った布で顔を拭いてくれた。多分雨に濡れた彼のTシャツか何かだろう。誠も顔を上に向け、出来るだけ雨に当てて泥を落とすようにした。体中の骨が折れたのではないのかと思うほど、全身が痛い。

 ようやく痛む目を開いた時、誠は真剣に視神経がおかしくなったのだと思った。

 目の前にいたのはナナウエだった。


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