第三章・第十一話 「思案」
足元が揺れている。黒い水にわずかに白い軌跡が曳かれて行く。
周囲を見回す前に、誠は目の前の手すりに気付いた。そうか船の上なんだ、と手すりに手を掛けてみようとしたのに、手が手すりの下を潜り抜けてしまった。途端にバランスが崩れ、誠は水面目がけて投げ出された。
落ちて行く間、ほんの一秒か二秒の間に、背後から楽しげな笑い声が聞こえた。
誰か気付いてくれ、このままじゃ俺は死んじまう。こんな所で死にたくないのに。誰か。思いながら水に落ちた。
悲鳴を上げて誠は飛び起きた。
肩で息をしていると、ジェームスがバスルームから飛び出して来た。
「どうしたんだ。歯ブラシを呑み込みそうになっちまったぞ」
口の端から歯磨き粉の泡を垂らしているジェームスの顔を見て、誠は大きく息を吐いた。やっと現実に戻って来られたような気がした。
「悪い。変な夢を見たんだ。俺、今日はクロージング・シフトだからもうちょっと寝るよ」
何か言いたそうにしながらジェームスはバスルームに戻り、誠は再び横になった。
ジェームスがセットしてくれたアラームが鳴る迄に、それから二度ほど誠は魘されて起きた。
真っ暗な海に落ちて行く綾の姿も見たし、彼女が遠ざかる船を追って、動かない体で必死に泳ごうとするのも見た。アラームで目覚めた時には、眠る前よりも疲労感が激しかった。
シャワーを使い、トーストとコーヒーの朝食兼昼食を用意する。あまりにだるいので、ふと今日は仕事を休もうかという考えが頭を過ぎったが、休んで家にいても仕方がないと打ち消した。
もっと、益体も無いことを考えそうだ。仕事に行って、体を動かしていた方が良いかもしれない。
まともに頭を使って、考えなければならない事がある。塩田綾の家族には何と報告するか、ゴールデンの事を警察に通報するかの二点だ。
食欲はなかったが、コーヒーでトーストを流し込み、ついでに胃薬も呑んだ。クリーニングから戻っている新しいシャツを着ると、少し気分が引き立った。それでもカウチに座り込んでいると、仕事に行きたくなくなりそうで、誠は早めにアパートを出た。
今日も上天気だ。ラジオからファルセットの声が流れる。
ハワイアンの歌詞なので何と唄っているのかは分からないが、陽気に美しく伸びる旋律からすると、明るい内容なのだろう。
ワイキキに入ると、道の両側のシャワーツリーの花が目に付いた。塩田綾が、ああいう風になりたいと浅井友子に言い、愛する男と一緒だとそうなれると言ったシャワーツリーだ。明るい黄色とピンクが一つの房に混じって風に揺れているのが、堪らなく目に沁みた。
二十五マイルで車を走らせながら、誠はしみじみとここは美しい土地だと感じた。同時にこの土地で命を失った塩田綾の事が甦って、重い痼りが胸の中に湧いた。
仕事前のミーティングで、ポールに目の下に隈が出来ている事をからかわれたが、誠は気の利いた言葉を返せなかった。今日はスティーブと一緒に一階担当だ。昨夜のように忙しくならなければ、塩田綾の件を考える時間はありそうだった。
疲れているからと言い訳して、多くない客の殆どをスティーブに捌いて貰った。
日本語の出来ないスティーブは、いつも成績が良くない。「俺は今晩はどうでもいいから」と誠が宣言すると、いそいそと接客に当たってくれ、誠は時々、客の質問等を通訳してやれば良かった。
フロアにぼんやりと立ち、スティーブが客に新しいデザインの靴を勧めるのを眺めながら、誠は懸案事項を考え始めた。
まずは塩田綾の家族への報告だが、それを頭の中に引っ張り出した途端に浮かんだ一語は、「とてもじゃないが言えない」だった。お嬢さんはアルコールと薬物のせいで海に落ちて亡くなったようです、などと言える訳がない。
そもそも、お亡くなりに、と言うのだけでも大変な事だ。当たりの柔らかい言い方などあり得ないし、死亡の事実を伝えれば、理由は当然追求される。
ここで懸案事項の二つ目が出てくる。緑の話を元に警察に届け出れば、一応の捜査はしてくれるかもしれない。しかし、証拠は何もないのだ。全ては緑の証言次第になるだろう。
日本に戻った緑には負担だろうし、もしも証言を嫌がったら、あるいは彼女が証言してもゴールデン側が否認したら、事態はややこしい事になる。
ゴールデンの金田氏はいくらでも言い抜け出来るだろう。第一、塩田綾の遺体だって発見されていない。いや、もしかしたら発見されて身元不明として処理されているのかもしれないが、いつどこから海に入ったのかは特定出来まい。
金田氏の船に指紋や何かがあることだって、以前のものだと言われてしまえばそれまでだ。
すっかり煮詰まった所で、誠は新たな説を頭の中で出してみた。何も言わない、というのはどうだろうか。幸い、兄はもう捜さなくてもよい、というような事を書いて来た。
その言葉通り、誠は何もしていなかった事にする。塩田綾さんはハワイで行方不明になり、数年して家族も諦めるという筋書きだ。
誠は首を振った。それも出来ない。塩田綾の死に至る状況を想像しただけで胸が痛む。知らん顔で口を拭い、トラブルを避けるのは卑怯だ。とはいえ、どうしたものか。
解決方法が見付からないまま、誠はフロアに突っ立って考え事を続けた。スティーブが「腹具合でも悪いのか?」と声をかけて来た。どうもそんな顔をしていたらしい。
終業時間が近付いても、良い考えはさっぱり浮かばなかった。
考えるに従って、腹の中に澱のような物が溜まっていくのだけを感じた。このままでは本当に腹具合が悪くなりそうだ。誰かにこのどろどろした物をぶつけてやりたい。
仕事が終わると、誠は車をアラモアナ方面に向けた。
会えない確率の方が高い。しかし、塩田綾の話を聞かせて、悪態を吐いてやれるのは一人しか思い付かない。ゴールデンの関係者には別な形でのアプローチをするべきだろう。
車を公営駐車場に停め、誠は鼻息も荒くバーの入り口を潜った。以前ナナウエとの食事を中座したバーだ。彼がいなくとも、最近来ているかどうかは聞けるだろう。バーはかなり混雑していた。人種は雑多だが、皆地元の人間のようだ。女性客が数える程しかいない。
誠はサーファーか、あるいはライフガードと思しき男達が四、五人で固まっているのを見付けて近付いた。
「ちょっと、すみません」
一斉にこっちを向いた男達に一瞬圧倒されながら、こういう時に地元のアクセントが上手に操れたらどんなにいいかと思う。
「ナナウエって男を探してるんですけど、知りませんか?」
ロングヘアのサーファーで、右腕に女性の顔、背中に鮫の口の刺青があってと誠が続ける言葉を遮って、一人が「やぁ」と声を上げた。
「あんた、ローランドの甥っ子だろ、な? こないだも、そいつの事探してたんじゃねぇかったかい?」
言われてよくよく顔を見ると、なるほど会った事があるようだ。そうなんですと愛想笑いを投げると、別の男が口を開いた。最初の男はフィリピーノに見える中年だったが、今度は白人の若い男だ。
「俺、知ってる。あいつ、いっつも他人の波、横取りしやがるんだ。ここに来る前、ワイキキで見かけたぜ」
彼が挙げたのは、ナナウエと一番最初に会ったバーだった。ローランドに着いて来て貰って、サーファーの集まるバーを巡った時だ。まだいるかどうかは分からないけど、と言う白人の男に礼を言い、誠はバーを出て小走りに車に戻った。
交通量の減ったカラカウア・アベニューを一気に走り抜け、動物園脇の駐車場に車を停める。メーターにコインを放り込んでバーに向かった。付近にアパートなどもあるせいか、前に来た時に比べてかかっている音楽は控え目だった。
ナナウエがいた。