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第三章・第十話 「空港」

 緑の言葉が途切れてから、誠は大分長い間黙っていた。

 ひどい衝撃を受けた気もしたし、心の何処かでは予測していたような気もした。

「金田さんは、誰かが綾さんのこと聞いても、知らないって言えって。あの夜のパーティーには来てたけど、無事に帰って、その後はゴールデンに来ていないってことにしろって。でも、誰も綾さんのこと、聞いた人いなかったよ。そういえば見ないねー、くらいで」

「そうか」

 やっと短い一言を絞り出した。

 警察に届けようと思わなかったのか、というような言葉は、この際意味がないだろう。そんな真っ当な考え方が出来る位なら、あんな事があった後、なおもゴールデンに出入りしている訳がない。

 塩田綾が海に落ちたのは緑のせいではないし、彼女を責めるのはお門違いだろう。

 責められる人間がいるとすれば、塩田綾に薬物を提供した人間、そんな場所に彼女が出入りする理由となった人間だ。

「桜井さん、泣いてるよ」

 自分も赤い目のまま緑が指摘した。涙を抑えるように、誠は指で眉間を押さえた。

 塩田綾の人生がひどく痛ましかった。

 どうしてそこまでナナウエを好きになったのだろう。どうして父親に援助を乞わなかったのだろう。誹られても貶されても、命を縮めるよりは良かったのではないか。

 彼女は自分を心配する人間がいることに気付かなかった。たった一言でも、あの学校の事務員や、浅井友子、それに自分の妹に相談していれば、こんな寂しい最期は迎えずに済んだ筈だ。

 今となっては全てが遅い。

 誠は、塩田綾に会えなかった。

「日本に帰ったらさ」

 遣る瀬ない気分で誠は緑に話しかけた。

「伯母さんの所で暮らして、何でもいいから地道に暮らせば? お洒落かどうかなんて、どうでもいいじゃないか。緑さんを利用せずに、大事にしてくれる人を探しなよ」

 塩田綾に言いたかった事を、緑に言っている自覚はあった。

 本人とはとうとう会えなかったけれど、誠は塩田綾を知っていた。彼女の学校も、過去も、家族も、コンドミニアムの部屋も、友人も、そして愛した男も。

 塩田綾が生命を落としたような事が、緑に起こらないようにと説教めいた事を言うのは、自分への慰めに他ならなかった。

「あのね、綾さんのことがあってから、ずっと忘れたいと思ってたの。だから、ずいぶん薬やったりお酒飲んだりしてさ、でも、先週やっぱりおんなじようなパーティーを船でやったのね。急にもっとすごく怖くなっちゃって。桜井さんが『まずいと思える内が花だ』って言ったでしょ。あたしもいつか、綾さんみたいに死んじゃうかなって思って」

 初めて会った時、薬物とアルコールで緑が恐ろしく出来上がっていたのを誠は思い出した。あれも綾の事があった故だった訳だ。

 頷いて見せながら、誠は再び塩田綾を思った。薬物とアルコールを大量に摂取していたのなら、水に落ちても泳げなかったに違いない。長時間苦しまなかったと思いたかった。

 わずかな沈黙の後、緑はふいに顔を歪めて泣き出した。

「なんでかなぁ? なんでこうなっちゃうかなぁ?」

 先程よりも大量の涙に、より一層化粧が崩れる。誠はベッドサイドにあったティッシュを取って手渡した。

「あたし、絶対いいことあると思ってハワイに来たの。綾さんもきっとそうだよ。なのに、なんでこんなことになっちゃったんだろ?」

 誠は答えを持たなかった。場所がどこであろうと、思った通りに生きて行ける人間と、そうでない人間がいるのだ。

 それを今の緑に言っても仕方がない。真面目に学校に行かなかったからだとか、違法な薬物に手を出したり、売春紛いの事をしたからだと説教するのは、もっと仕方がない。

 黙ってさらにティッシュを数枚取り、手を伸ばして緑の顔を拭ってやった。ファンデーションの下から現れた肌は、ひどく荒れていた。

「ハワイが嫌いになった?」

 我ながら驚いた事に、誠の口から飛び出したその質問は、事ある毎に地元の人間から聞かれたそれだった。彼らはいつもその後に、嫌いにならないでくれと付け足した。

 緑はしゃくり上げながら首を振った。

「好きだけど、こんなに好きなのに、あたしもうここにはいられない」

「また来られるよ」

 出来る限り真摯に言うと、緑は泣き止む事こそしなかったが、涙を流しながら微笑もうとした。何度もそうだよね、また来られるよね、と繰り返し自分に言い聞かせるように囁いた。

 聞くべき事を聞いた後は、アパートへ帰るつもりでいたのだが、このまま緑を放って帰る事も出来ず、誠は緑の思い出話に付き合った。

 見晴らしのいい展望台や、よく行ったコーヒーショップ、レストラン、日本にはないブティック、緑の話は尽きなかった。一つの場所を挙げる度、彼女は涙ぐんだが、それでもこのままハワイに残るとは言い出さなかった。

 緑の為に昼間中奔走し、夜は仕事でかなり疲れていた筈なのに、眠気は差して来なかった。塩田綾の話で神経がすっかり逆立ってしまったせいだ。緑を空港に送って行かなければならなかったから、途中でウイスキーをコーラに変えて、彼女の話を聞き続けた。


 時刻が五時を過ぎた頃になって、誠は緑の話を遮った。フライトは八時だ。遅くとも、六時前には空港へ到着していなくてはならない。支度をすると言い置いて緑はバスルームに消え、誠はその間に、部屋に備え付けの湯沸かし器を使ってコーヒーを入れた。

 二十分ほど経って出て来た緑は、別人かと思う位印象が変わっていた。

 化粧品がないせいで、顔は眉を描いただけだし、昨日スーパーマーケットで購入したTシャツは、セクシーとは言い難かった。数時間前に彼女の涙を拭ってやった時も思ったことだが、肌の色つやは良くない。

「このTシャツ、ださい。でも帰るだけだから、いいか」

 Tシャツの裾を引っ張り、唇を歪めて緑は笑った。それは確かにどこかで見た表情だったが、誠は思い出せなかった。

 コーヒーを飲み終わって、二人は部屋を出た。緑の荷物は昨日から持っているバッグだけだ。貴重品と、昨日買った伯母さんへのお土産のチョコレートが入っている。

 ホノルルの日没は一年を通して日本より遙かに遅いが、同時に日の出も遅い。五時を過ぎても辺りはまだ暗かった。空港へ向かうフリーウェイは渋滞もなくスムーズで、帰国する観光客を乗せたバスが目に付いた。

 搭乗チケットがない誠は、航空会社のカウンターまでしか入れない。緑とは出発ロビーに面する道路で別れなくてはならなかった。

 助手席から降り立った彼女に、車の中からさよならと言うのは薄情に思えて、誠は空港警備員の渋い顔を見ない振りで車から降りた。

「伯母さんの家に着いたら、電話してもいい?」

「うん、気を付けて」

 空港という場所は、何だってこんなに扇情的なのだろう。緑は既に感極まった様子だったし、誠もつい言うべき言葉をあれこれと探してしまった。けれども相手は店の客ではない。

 心にもない事は言ってはいけないと思う内に、何も言えなくなってしまった。

「最後に見送ってくれる人が、桜井さんみたいにかっこいい人で良かった」

 涙目になった緑に、無言のまま誠は手を差し出した。アメリカ人は、強い友情を示すのに同性、異性の境無く抱擁するが、抱擁したい程、緑に友情を感じてはいない。握手というのが今は、最も誠実な形だろうと思った。

 握った手を離すと緑は、身を翻して小走りに航空会社のカウンターへ行ってしまった。

 今度こそ文句を言いそうな空港警備員と目が合って、誠は別れの余韻もなく車へ戻って走り出した。

 フリーウェイをホノルルの街へ、つまり東に向けて走って行く間に前方の空が明るくなって来るのが見え、同時にひどい疲労感と虚脱感に襲われた。塩田綾の死が冷たく心に横たわり、緑にも自分は、要らぬおせっかいをしたのではないかと気落ちした。

 沈んだ気分のままアパートへ帰り、ユニフォームを脱ぎ捨て、下着姿のままカウチに横たわった。わざわざマットレスを敷く気にもなれず、毛布だけを掛けた。

 頭が沢山の事で混乱しているような、逆に空っぽになったような気分をしばらく味わった後に、意識を失った。


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