第三章・第七話 「遂行」
昨夜、計画を立てた後、緑に釘を刺した。
「言っておくけど、どこかで塩田さんを見かけた、なんていう話はナシだよ」
強めの口調で言ったのに対し、緑はきっぱりと答えた。
「それはないよ。これ以上、綾さん、捜さなくて済むようになる」
誠の顔を見てではなく、暗い海を向いて言ったのが気になったが、格別意味はないのだろうと思いたい。
ランチの折にも、その後の休憩でも、大量にコーヒーを流し込む事で、誠は何とかミスもなく仕事を終えた。夕食を食べに行こうというジョージの誘いを断り、アパートへ帰る。
ユニフォームを脱ぐと、シャワーも使わずにベッドに潜り込んだ。ジェームスが帰って来て起こされたが、半分眠ったような状態で受け答えして、そのまま眠りこけた。
短い夢を幾つか見た。
その中で、誠は日本にいたり、ハワイで学生だったりした。写真でしか知らない塩田綾がいて、緑や由美も誠のクラスメイトらしかった。誠は彼らと笑い合っていたけれど、心の中はどこか別の場所へ行って、誰かと会わなくてはならない焦りで一杯だった。
朝まで眠るつもりだったのに、ジェームスが誠を揺さ振る。
「何だよ、夕食はいらないって言ったじゃないか」
「じゃあ、朝食はどうするんだい? 一体、何時間眠れば足りるんだ?」
言われて目を開けると、室内がすっかり明るくなっている。ジェームスはシャツにネクタイを締めている。今日は法廷に出るらしい。
「朝、起こせって、君が言ったんだぞ。今日はナイト・シフトじゃないのかい?」
体を起こし、顔を擦りながら、誠はやる事があるんだと答えた。
「あの彼女の関連かい? いいけど、トラブルだけは避けてくれよ。俺はスーパーマンみたいには助けに行けないからね」
もう時間だと、わざと大きく音を立てて誠の唇を吸い、ジェームスは足音も高く部屋を出て行った。続いて玄関のドアが開閉する音が聞こえた。ベッドの脇の置き時計は、八時少し過ぎを示している。
今日は仕事の前に、緑に付き合ってしなければならない事がいくつかある。頭の中で手順を反芻した。大した手間ではないが、面倒臭いことは面倒臭い。
さっさと終わらせて緑から塩田綾の話を聞き、一切を終わりにしたかった。
シャワーを使い、朝食を済ませてから、インターネットでいくつか情報を確認し、九時四十分になった所で誠は立ち上がった。緑との約束は十時だ。
アパートの前の道路から、車をダウンタウン方向に流れるベレタニア・ストリートに入れる。ほんの数分で着くアラモアナ・ショッピングセンターで、緑を拾う手はずになっている。
ケエアモク・ストリートからカピオラニ・ブールバードを渡って、ショッピングセンターの二階へ繋がる陸橋を上がり、駐車場内をダウンタウン側へ向かう。開店して間もない時間帯なのに、既に駐車場は混み始めていた。
誠はゆっくり車を進め、突き当たりに近い辺りで左折した。ショッピングセンターの西端、ダウンタウン寄りには全米でも有名なデパートが入っている。そのデパートの二階出入り口付近に車を停めた。他の店に行くのにはそれほど便利な場所ではないので、周囲はがらがらだ。
緑がまだ来ていない事を確認して、携帯で日本行きの航空券を扱っているチケットエージェンシーを検索し始めたときに、悲鳴にも似た緑の声が聞こえた。
慌てて顔を上げると、緑が重いガラス扉を押して、デパートから出て来る所だった。今日も踵の高いサンダルを履いているが、物ともせずに誠の車めがけて走って来る。
誠は車のエンジンを掛けた。緑が勢い良くドアに取り付いた反動で、バッグが車に当たって鈍い音を立てる。
「出して、車。早く」
助手席に滑り込むのと、そう叫ぶのと同時だった。緑の出て来たドアから、日本人の男女が二人飛び出して、こちらに向かって来ようとしている。辺りに停車している車が少ないのをいい事に、誠は白線を無視して車を進めた。
ストップ・サインにも構わず、一気に海側のアラモアナ・ブールバードへ降りるスロープを走り抜けた。
アラモアナ・ブールバードに入り、最初の角を右折する。ショッピングセンターの西側を通るピイコイ・ストリートに入ったが、ショッピング・センターに戻るつもりはなかった。そのまま山側へ車を走らせた。
「ああ、もうどきどきしちゃった」
まだ荒い呼吸のまま、緑が口を開いた。
「店の中、走り抜けたから、ディスプレイやショウ・ケースにもぶつかっちゃった」
案外明るい顔で笑う緑に、誠の方が眉間に皺を寄せた。
「あの二人は何だい? 追いかけっこなんて穏やかじゃないぞ」
キング・ストリートとヤング・ストリートを越えた所で、誠は左折し、ベレタニア・ストリートに入った。ダウンタウンへ向かうのは予定通りだ。
「金田さんがさ、何か気付いたかもしれないの。夕べのパーティー、パスしたせいかもしれない。今朝、買い物に行くって言ったら、あの二人がついて来るって言い出してさ。絶対、金田さんに何か言われてるって。そんでぴったり着いて離れないし、約束の時間は近くなってくるし。あたし、トイレに行くって言って、まこうと思ったの。でもあの女の方、ミカさんていうんだけど、一緒に来ようとしたのね。だからもう、走っちゃった」
屈託無く笑う緑に、誠はああそう、としか言いようがなかった。当初の予定では、航空券を買って、仮旅券を発行して貰ったら、彼女は自分のアパートに戻る事になっていたのだ。しかし、アパートに戻っても、ゴールデンの誰かがやって来るのは目に見えているようだ。
左手に州議会議事堂が見えて来た。ダウンタウンの入り口だ。
議事堂の庭は美しい芝生が植えられて、スプリンクラーが涼しげに散水している。道の脇に植えられた、シャワーツリーの花を横目で見ながら、誠は溜息を吐いた。どうも緑と一緒だと、溜息ばかり吐いている。
「一昨日のことはさ、クラブで会った男と踊ってるうちにその気になって、車の中でエッチしちゃったってことにしてあるんだけど、今日は、ちょっとまずいよね」
わざわざ監視者を付ける所からすると、緑はゴールデン、或いは金田氏の、よほどの秘密を知っているようだ。とはいえ彼らは一体どういうつもりなのだろう。監禁でもしない限り、緑は当然、外部と連絡が取れる。そこまで考えて、誠は嫌な物を感じた。
もしも今まで、彼らが緑は裏切るまいと考えて、念のための監視者だったとすれば、先程の行動で裏切ったと判断されるのではないか。
とすれば、セオリーからいっても、次なる手は口封じだろう。
「もうアパートにも、ゴールデンにも帰らない方がいいかもしれないな」
出来る限り穏やかに誠は言った。言いながら、今夜一晩緑が泊まれる場所を考えた。領事館で仮旅券を発行して貰ったその足で空港へ行くのは難しい。日本行きの便は午前中に殆ど出てしまう。
「そうだね。なんかさ、昨日くらいから金田さんやミカさんの目つきがきつくなっててさ。あたし、怖くなっちゃった。捕まったら薬漬けにされちゃうかもしれない。携帯だって取り上げられちゃったんだよ」
表示を確認して、誠はハンドルを右に切り、ヌウアヌ・アベニューに入った。山側へ向けて進んで行く。
「今日、すぐには日本に行けないよね。桜井さん、今晩泊めてくれる?」
車はヴィンヤード・ブールバードを通り過ぎ、Hー1フリーウェイの上の高架を越えた。少し考えて誠は言った。
「俺のアパートは彼女がいるから駄目だな。ホテル取ってあげるよ。ワイキキの外で、違う名前なら多分、大丈夫だろう」
領事館に行く前にしておかなくてはならない事がある。誠は近くにある小さなショッピングセンターの駐車場に車を入れた。
仮旅券の申請には本人の写真や、帰国のための航空券の予約確認書が必要だ。ショッピングセンターに入っているコピーセンターで緑が写真を撮っている間に、誠はチケットエージェンシーで片道の航空券を予約して、Eチケットの番号をもらった。
日本総領事館は決して近代的なビルディングではない。古いコロニアル・スタイルの建物で、却って味もあるし、それだけ古くから多くの日本人に必要とされて来たという事だ。
領事館の脇の道の路上に車を停めて、重々しく歴史を感じさせる、旧漢字の表示を左側に見ながら敷地内に入ると、腰に銃を差した警備員がすっと寄って来る。
「ご用件は?」と言う言葉は丁寧だが、態度は硬い。誠が笑顔で「仮旅券の申請です」と答えると、体を開くようにして後ろに下がり、日本語で「ドウゾ」と言いながら通してくれた。
仮旅券の発行にはそれ程時間が掛からなかった。「失くした事に気が付かなかったが、急いで日本に帰らなければならない用事がある」と泣きを入れた緑に、窓口の職員は丁寧に応対してくれた。
ゴールデンの人間に取り上げられずに緑が持って来た、日本の運転免許証も役に立った。パスポートの紛失届けを出し、仮旅券となる「帰国のための渡航書」を作ってもらった。日本へ帰国する際の一回限り有効だ。
「今度からは気を付けて下さいね」
という職員の声に送られて建物を出た。時計は十一時少し前を指している。