第三章・第四話 「待ち合わせ」
教えられた道順を、誠は海側へ向かって歩きながら、俺は馬鹿な事をしているのかもしれない、と考えた。
兄がメールでああ言って来た以上、塩田綾の捜索は打ち切ってもいいのだろうし、緑を追いかけ回す必要があるのだろか。カラカウア・アベニューを渡り、レストランが近付いた頃、誠は自分への言い訳を思い付いた。わざわざ出て来たから、空手で帰るのが嫌なだけだ。
レストランは小振りの気取らない雰囲気の店構えだった。通りから店内が見渡せる。緑は入り口から遠くない席に、友人らしい女の子と向かい合って座っていた。通りの方を向いているが、無論、瞳は友人の方に注がれている。
少し考えて、誠は店の入り口に立った。木製の代があり、メニューが広げられて載っていた。そのメニューの脇に、店の名前と電話番号などを記したカードが何枚かある。カードを一枚取って、テーブルに案内するためにやって来たウェイトレスに、愛想笑いをした。
「いや、俺は彼女達の連れなんだけど、ちょっとペン貸して貰えます?」
彼女がシャツの胸ポケットから出したペンを受け取り、誠はカードの裏に、自分の名前と電話番号を書いた。由美には教えなかったが、仕方ない。ウェイトレスに礼を言ってペンを返し、誠は緑に近付いた。
「食事中すみませんけど、緑さんじゃないですか?」
驚いて顔を上げた緑に、誠は笑顔を浮かべたままで構わず続けた。
「この間、ゴールデンでお会いしましたよね。覚えていませんか? 残念だな、本当に残念だ。せっかくお知り合いになれたのに。これ、僕の連絡先です。お暇な時に食事でもどうですか?」
意外だったが、緑は別に嫌そうな顔もせず、「ごめんね、覚えてないの」と笑顔まで見せ、対面に座っていた女の子は冗談ぽく「どうせ、また酔ってたんでしょ」と笑った。ただのナンパだと思われないように、誠はカードを手渡す時に腰を折って、緑に顔を近付けた。
「塩田綾さん、御存知ですよね? 話が聞きたいんです」
低い声で早口に言ったのだが、きちんと聞こえたようだ。緑は笑顔のまま硬直し、フォークを取り落とした。「いつでも、お時間のある時に」と誠が微笑みながら付け加えると、わずかに唇を震わせた。
「今日は……、今夜はパーティーあるから」
すぐにと言った訳ではないのに、大した動揺振りだ。緑の反応には誠も内心大いに驚いていた。しかし顔には出さないように努め、笑顔のまま「じゃ、連絡下さいね」と、会話を締め括ってレストランを後にした。
車へ戻る道々、緑から連絡が来るのは、五分五分の確率だと考えた。
動揺するような話題だからこそ、話したいという場合もあればその逆もある。誠が緑にその話題をぶつけた事で、誰が緑の名前を誠に伝えたか、彼女がゴールデンの常連を詮索しない事を祈った。
由美に迷惑がかかるのは心苦しい。彼女はゴールデンに出入り禁止になる事を恐れていた。
パーティーがあると言っていたため、当然その夜は、緑からの連絡は期待出来なかった。
翌日の金曜、誠はやや期待して、クロージング・シフトの仕事中もこまめに携帯電話をチェックしていたが、緑からの電話はなかった。
どうやら彼女は、塩田綾についての話はしたくないようだと誠は踏んだ。
土曜日は休みだった。前の晩、随分夜更かしをし、ついでに体力も使ったというのに、ジェームスは件の「我が儘」な依頼人に呼び出され、朝八時にはアパートを飛び出して行った。誠はそのまま眠り続け、目が覚めると十二時を回っていた。
出掛ける際に、ジェームスは何時に用事が済むか言っていった筈だが、さっぱり覚えていない。彼の携帯電話に電話したが、まだ依頼人と面談中と見えて出なかった。電話をくれるようにと伝言を残した。
キッチンへ行ってコーヒーをいれ、リビングルームのカウチで煙草と共に楽しむ。ジェームスが帰ってくれば、サーフィンに行くと言い出すか、掃除をしようと言い出すに違いない。
掃除は避けたい気分だったので、先手を打って映画にでも誘おうかと作戦を考えていた所へ電話が鳴った。
てっきりジェームスだと思い込み、表示も見ずに出ると、掠れた日本語が「もしもし」と言った。
「桜井誠さん?」
掠れた声のせいで、一瞬誰だか判別出来なかったが、分かった。緑だ。
「緑さんでしょう。塩田さんの……」
「あのさ、今晩十一時頃に『ブルー・カレント』に来てよ。友達といるから、『踊らない?』って声かけて」
誠の言葉を遮って、緑は面倒臭そうに言う。
「今、時間ないのよ」
「分かりました。十一時に『ブルー・カレント』ですね」
確認の言葉も終わるか終わらないかの内に、電話は切れた。誠は頭の中で緑の口調を反芻した。苛立っているような、投げ遣りな風にも聞こえた。
「ブルー・カレント」は、ダウンタウンにほど近い場所にあるナイトクラブだ。呼び出しておいて、いきなり怖い兄さんをけしかけるんじゃないだろうな、という不安が過ぎったがすぐに打ち消した。
例えバウンサーに幾らか握らせたって、人の多い週末のナイトクラブでそんな事は不可能だ。緑には、誠に会う事を知られたくない相手がいるのだろう。それこそ面倒な話だが、話題を振ったのはこっちだし、行かない訳にはいかない。
再び電話が鳴った。今度こそジェームスだった。「 Why don't we go to 」と言いかけた誠を遮ってジェームスは早口で、かつ高らかに宣言した。
「これから昼飯を買って帰る。そしたら掃除と洗濯。出掛けるのはその後。君の考えてる事なんか、お見通しだ」
これだから休みが週末になるのは、あまり有り難くもない。
二十分程でジェームスは帰って来た。ジェームスの買って来たチャイニーズ・プレートランチを食べながら、今夜の待ち合わせについて話すと、彼は鼻を鳴らした。
「俺は日本人の女の子が考える事なんて想像もつかないけど、あんまり穏やかじゃないな」
今までは経過を話しても、そうかいとしか言わなかったジェームスが珍しく自分も行ってもいいと申し出た。彼も緑の提案に不自然さを感じているようだ。誠は柔らかく断って、何かあれば電話をすると約束した。
食後はジェームスが宣言した通りに掃除と洗濯を二時間もかけて行い、映画へ行き、帰りに日用品と食料品の買い出しをして、アパートに戻って来ると、もう八時過ぎになっていた。久しぶりに二人で、新婚の夫婦のような休日を過ごしてしまった。
十時を大分過ぎた頃になって、誠は出掛ける支度を始めた。支度と言っても大したものではない。着る服こそ違っても、仕事に行く時と似たようなものだ。
「ブルー・カレント」は、誠が最初に由美に出会ったナイトクラブと同じ敷地にある。他にもレストランやバーが軒を連ねているので、週末はかなりの賑わいだ。誠はまず駐車場が空いているかと心配し、ついで「ブルー・カレント」に入るのに並んで待たなくてはならないかと心配した。
六階建ての立体駐車場はほぼ満車状態で、誠は駐車スペースを見付けるのに二十分も駐車場の中を彷徨った。しかし、「ブルー・カレント」には十分程列に並んだだけで、あっさり中に入る事が出来た。
入ったはいいが、誠は途端にうんざりした。狭いナイトクラブではない上、おそろしく混んでいる。緑から話があった時には、なんとか見付かるだろうと高を括っていたのだが、実際来てみると非常に手間の掛かる作業だと気が付いた。
一々謝りつつ人を掻き分けてテーブル席を一つ一つ覗く。緑はテーブル席にいるとは言っていなかったが、そこの方が見付け易いという事位は考えているだろう。いや、考えていて欲しかった。
元々人混みは得意ではない。雑踏に身を置く方が安心する、というような都会派だったら、そもそもハワイなんかには長く住まない。そんな事を考えながら緑を捜していると、すぐに人いきれで汗が滲んだ。
漸く緑を見付けたのは、約束の時間を二十分も過ぎた頃だった。
奥まったテーブル席に座りながら、それでも緑は通路を向いて座っていた。連れは二人。どちらも緑と同じ年頃の女の子だ。一つ呼吸を整えて、誠は彼女達のテーブルに歩み寄った。
「ねぇ、踊らない?」




