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第三章・第三話 「有名人」

 返事が遅れてすまん。塩田院長のお嬢さんの件だが、本当に迷惑をかけている。お前に愚痴を言うのはおかしいが、俺は少々呆れてきた。この前メールをもらってから、何度か院長先生とその話をしたが、「何とかならないか」の一点張りだ。

 院長先生は、お嬢さんにはかなり立腹している。心配しているから怒っているんじゃない。自分を煩わせていることに立腹している。彼がどういう人間か分かっていたつもりだが、呆れる。

 しかし、俺が呆れてばかりいても始まらない。段々に警察と領事館に届けを出すように説得するつもりだ。その届け出はお前に頼まなくちゃならんだろうが、それ迄に、もしお嬢さんが見付からないならそれで仕方ない。

 万が一何か情報が入ったら知らせてくれ。 最後に、美穂が送って欲しい物はないかと聞いている。今回、迷惑を掛けているのは、あいつも承知だから、何でも遠慮なく言ってくれ。


 珍しく自分の感情を露わにした書きぶりだ。

 兄も一杯やりながら、腹立ち紛れに書いて寄越したのではないかと誠は思った。塩田綾の父親は、塩田文美のメールにあった通り、なかなか分からない人物のようだ。

 しかし、塩田綾が不倫をして病院に勤めていられなくなったという過去を、兄は知らない。家族は必死で隠したのだろう。念書まで書かせたという相手の妻と、綾の父親の間で取引があったのかもしれない。

 ベランダに出て、煙草を吸った。何故か今日、由美の言った言葉が甦った。「功徳は積んどこ」というそれは、エコーがかかったように頭の中で反響し、煙草を消して室内に戻る時も、誠は「功徳、功徳」と呟いていた。


 いくら若かろうが、ナイト・シフトに続いてのモーニング・シフトというのは疲れるものだ。第一、ジェームスが言う程には、自分は若くないと思う。

 そんな事をぶつぶつ言いながら誠はマットレスを畳んだ。睡眠足りて元気一杯、誠を叩き起こしたジェームスはやたらと爽やかな顔をしている。白い歯を零しながら、誠のトーストを焼いてくれた。

 濃いコーヒーのお陰で、少しすっきりした気分で出勤したのだが、店に着いて、ミーティングでフロア担当の割り振りを言い渡されると、再びげんなりした気分に戻された。

 二階の担当は良かったが、人の売り上げをさらうのが得意な雪子も一緒なのだ。

 仕方ない。今日の売り上げは諦めて、同じフロアのショーンと無駄話でもするしかないと誠は腹を括った。

 とはいえ客が入店すれば、接客せざるを得ず、客が意思決定した瞬間を狙って雪子に滑り込まれるという、不愉快な目に遭った。

 ショーンなどは英語で「在庫を確認しますので」と言っている間に、一足早くストックルームから商品を持って来た雪子に、セールを掠められて硬直していた。

 三回も立て続けにセールを盗まれ、ついに頭に来たショーンが雪子に「話がある」と言ったのは、十二時近かった。二人の間に不穏な空気が立ち込め、ショーンが声を少し高めにした時、階段を上がって来る足音が聞こえた。

 同時に雪子はもう、階段の上がり口まで移動していた。

 大声で何か話しながらフロアに入って来た、三人の中年日本人男性を見て、誠は、おやと思った。その中の一人に見覚えがあったからだ。続いて上がって来たのは、今日は一階担当の君代で、手にパッケージから出していない商品を持っていた。

 一階で商品を決めた客が、二階で引き続き買い物をする場合、最初に接客したセールスは客に付いて行く事になっていて、その後のセールも当然最初のセールスの売り上げになる。

 ところが君代は、手にした商品を雪子に手渡した。

「あらっ、いいの?」

 二オクターブも高い声を出した雪子に、君代はにっこり微笑んだ。

「いいんですよ。私、今日は風邪気味で、あんまりやる気ないんです」

 いそいそと三人の客に近付く雪子を横目で見やり、君代は誠の方へやって来ると、袖を引っ張ってフロアの仕切りの影へ連れ込んだ。

「まこちゃん、あの客、誰だか知ってる? あれ俳優よ」

 見覚えがあった筈だ。言われると彼の名前も思い出した。性格俳優などと呼ばれてドラマに多く出ていたと思う。納得顔の誠に、君代は小さい、しかし厳しい声で言った。

「あいつ、性格最悪よ。客としても最低の部類ね。近付いちゃ駄目、雪子さんに接客させておくのよ。ショーンにも言っておいて」

 君代が客をあいつ呼ばわりするのは、実に珍しい。よほど一階で嫌な目に遭わされたのだろう。言うだけ言うと、君代は身を翻して階段を駆け下りて行った。

 それからおよそ三十分の間、誠は他の無難な客を相手にしつつ、雪子が冷や汗を掻く様子を見て溜飲を下げた。

 彼らは商品を次々に手にとっては放り出し、決めたかと思えば、気が変わったと言い出した。ストックルームから商品を取って来る雪子に遅いと文句を付けたり、ディスカウントをせびったり、挙げ句の果てには「おばちゃんじゃ駄目だ。下から可愛い子呼んで来いよ」と言い出した。

 何より言葉遣いが横柄なのに、誠も驚いた。何か言われる度に雪子は赤くなったり青くなったりしている。

 有名ブランドともなると、当然有名人もやって来る。ましてハワイは日米の芸能人、スポーツ選手がよく訪れる。誠の勤める店では、客が誰でも特別な待遇はしない事になっているが、中にはそれを求める俳優や歌手もいる。

 あるハリウッド女優が来店した際、自分が店内にいる間は他の客を入れるなと言い出して、マネージャーを苦笑させたことがある。

 もっともそういった有名人は一握りで、人気商売という事もあってか、気持ちの良い客であるのが大半だ。バッグや靴を買って、本当に嬉しそうな顔をしているのを見ると、思わずファンになりそうになる。今日の雪子の客は、大はずれの部類だ。

 店では最後にレシートを渡す際、ホテル名を聞く事になっている。雪子が俳優にホテル名を尋ねると、彼は「何で? 夜這いは迷惑だよ」と雪子をからかってから、ゴールデンという名を口にした。

 彼らが出て行った後、ほんの少しの間フロアに佇んでいた雪子は、目をしばたかせながら一階に降りて行った。きっと君代に愚痴を聞いてもらいに行ったに違いない。誠はショーン目を見交わしてちょっと笑い合い、それから何となく落ち着かない気分になった。

 ゴールデンの名前を聞いたからだ。由美は有名人と知り合う機会も多いと言っていたが、今の俳優のように横柄な人間と知り合っても、不愉快な思いをするだけではないか。無論、そうでない人が多いのだろうけれども。

 午後になってランチ休憩を挟んだ後も、塩田綾や由美の事が頭の隅にずっと引っかかったままだった。仕事が手に着かない程ではないが、日本人の女の子が入って来るとはっとした。


 終業時間が来ると、誠は急いでアパートへ帰って着替えをした。何となくゴールデンへ行ってみようという気になったためだ。運が良ければ、素面の緑に会えるかもしれない。

 前回と同じようにホテルの近くに路上駐車し、エントランスを潜った。

 馴れた足取りでバーに入る。時刻は午後七時近くになっていたが、店内は閑散としていた。観光客と思しき日本人客が二組ほどいる。すっかりあてが外れて気落ちした誠は、そのまま帰ろうかと思ったが、気を取り直してカウンターに座った。

 バーテンダーは、気の良さそうな白人の若い男だった。ベストに蝶ネクタイではなく、アロハシャツにククイナッツのレイをかけている。

「何にします?」と聞いてきた口調に、気が付いたが何も言わなかった。彼も多分、誠と同じ、いや、より正確にはマークと同じ人種だろう。誠がボストン産のビールを頼むと「ああ、僕もそれは好き」と言ったその話し方で確信した。

 彼が誠をゲイだと見破ったかどうかは定かではなかったが、手が空くと話しかけて来た。

「誰か待ってるんですか? 入り口を気にしてるようだけど」

 どうも我知らず、何度も振り返っていたようだ。誠は苦笑した。

「待ち合わせじゃないんだけど、会えたらいいと思ってね。緑って若い日本人の子、知ってる?」

 バーテンダーは急に白けた顔付きになった。緑が好きでないのか、彼女の名前を出した誠に興味を失ったのかどちらだろう。だが、すぐに商業的な笑顔を取り戻した。若いに似合わず、チップを貰う仕事をしているだけあって、笑顔を作るのは上手い。

「知ってますよ。彼女、ここの常連ですから。さっき女友達と待ち合わせて食事に行ったみたいですよ。知ってます? 近所のイタリアン・レストランだけど」

 彼の挙げた名前には聞き覚えがなかった。バーテンダーは簡単に道順を教えてくれた。

「ここでも、食事は出来るでしょう? この間食事したけど、美味しかったな」

 礼のつもりもあって誠がそう言うと、彼は肩を竦めた。

「パスタはね、ここのは不味いってあのお嬢さん方は言ってますよ」

 食事が終わっても、ここへ又やって来るとは限らないし、待ち続けるのも苦痛だ。食事中の緑に話しかけるかどうかは別として、そのイタリアン・レストランを覗いてみる事にしようと、誠は席を立った。「後であのビールでも飲んでくれ」と、多めのチップを彼に渡す事も忘れなかった。


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