第三章・第二話 「新たな情報提供者」
夕食前にワイキキの町を歩き、ついでに買い物をする客で、店は盛況だった。モーニング・クルーがほっとした顔で食事から戻って来たナイト・クルーを迎える。
今日の担当は一階だった。洒落たキャリーバッグを買おうか買うまいかと迷っているカップルに、それらしく説明していると、突然大声が聞こえた。
日本語が不得手なジョンが困惑仕切った顔で誠を呼んだ。ショウ・ケースの前で、初老の日本人女性が仁王立ちになっている。嫌な予感で笑顔を少し強張らせながら、誠は日本語で客に話しかけた。
「あんた、日本語出来んの?」
日本語を使いながらも、手振り身振りを交えながら彼女が言うには、購入してから一度しか使用していないバッグが変色した。ついては同じ商品か、同額の物と交換して欲しいとの事だった。
誠はショウ・ケースの上に置かれたバッグに目をやった。どう贔屓目に見ても、かなり使い込まれている。変色したと彼女の主張する部分は革の縫合してある所で、そう言われてよくよく見れば、僅かに変色していないこともない程度だ。しかもバッグの型は定番ではなく、とっくに製造中止になっている四、五年前の物なのだ。
「モンスター・クレーマー」というヤツだろうかと思いつつ、誠はマネージャーのシルビアを呼んだ。
生憎とシルビアは日本語が出来ない。結局、客とマネージャーの間に入っての押し問答を、一時間以上通訳させられた。
不毛な平行線の通訳をしながら、もしも店で扱っているのが、五十ドル程度のバッグだったらこんな事は起きないのではないかと思ったが、クレーマーはどこにでもいるだろう。
散々汚い口を叩いた客が帰った後は、元気な接客を続けたお陰で、トランクを含む旅行鞄を幾つか売って一時間の無駄は取り戻すことが出来た。とはいえ、いつもの倍も疲れていた。
閉店作業をしながら、今晩ゴールデンへ行くにあたって、又ジョージに同行してもらうかどうか考えた。言えば彼は来てくれるだろうが、そう度々付き合わせるのも気が引ける。子供でもあるまいし、と思い一人で行く事にした。
店を出る直前に、マークが馴染みのゲイ・バーで一杯やろうと声をかけて来たが、断った。
ゴールデンの前の通りは路上駐車が許可されている。空いているスペースに車を停め、上着を脱いでトランクに放り込んだ。
ホテルのエントランスに入ると、頭上からかなりの音量の唄が流れて来た。バーで流している音楽に違いないが、この時間にこのボリュームでは、宿泊客から苦情が出ないのだろうか。
日本のバンドもしくは歌手だ。誠は聞き覚えがない。多分流行りの曲なのだろう。
階段を上り切って、バーに足を踏み入れたのと、由美から声がかかったのはほぼ同時だった。周囲の若者達が「友達?」と尋ねている。入り口に近い席に座っていた由美は、素早く誠の所までやって来て腕を取った。
「ごめん、せっかく来てくれたけど、今夜は駄目そう」
音楽のせいもあるのだが、耳に口を寄せて小さい声で言うので、誠も自然に小声になった。
「何で? 例の子、来てないの?」
「来てるんだけど、薬入ってるらしいし、それにすごく酔っちゃってて、話なんか出来ないよ。とりあえず、どの子かだけ教えてあげるから、何か飲んでてよ」
腕を引かれるままに、由美の座っていたテーブルに腰を下ろした。同じテーブルに座っていた一組の男女に由美の友人として紹介され、名前だけ簡単に名乗った。ふと気が付くと、少し離れた席からしきりと手を振っている男がいる。よく見ると、先日話をしたタカシだった。
注文したビールを飲みながら、由美と、その友人二人と他愛ない世間話を続けた。
二十分程経っただろうか、由美が誠の肘をつついた。
「今、こっちに向かって来る子。あんまり露骨に見ないでね」
言われた通りにさりげなく首を回すと、テーブルの間をよろよろとカウンターに向かって歩く女の子が見えた。
身長は百六十センチ弱だが、おそろしく痩せている。ジーンズ地のミニスカートから覗く足は、棒のようだ。シャギーの入ったストレートの長い髪は金髪に近い色に染めてある。
カウンターで飲み物を受け取った彼女に、由美が声をかけた。「緑ちゃーん」と呼んだ声はそれほど大きくなかったのに、呼ばれた方は、誠が飛び上がりそうになった程の声で返事をし、危ない足取りで近付いて来た。
「由美ちゃん、この人彼氏? カッコいいね。緑もカッコいい彼氏が欲しいよー」
小さめの顔にぱっちりした目、顎のラインもすっきりしていて、今風の顔とでも言うのだろうか。化粧は濃いが、もし瞳の動きが正常で、きちんと呂律も回っていたら可愛いと思ったかもしれない。
緑は最初に由美に凭れ掛かり、ついで誠の方に倒れそうになった。体をぐらぐらさせながら「あー、気持ちいい」と言っている。なるほど、とてもまともに話は出来まい。
由美と一緒に緑を元いた席までエスコートし、席を立ったついでに、誠はそのまま帰る事にした。
「綾さんの件じゃなくても、ここに遊びに来てね」
バーを出る際に由美はそう言って手を振った。
アパート迄のたった十分の間、ハンドルを握りながら誠は又もや、塩田綾について性懲りもない憶測を巡らせた。彼女は「前の彼氏」とよりが戻ったと金田氏に告げた。という事は、とにかくナナウエと接触があったのには違いない。
もっとも、塩田綾が金田氏に真実を告げていたと仮定しての事だが。逆に嘘だとするならば、理由は何だろう。ゴールデンに出入りしたくなくなるような事が起きたか、或いはもっとうがって、金田氏から遠ざかりたかったという見方も出来るかもしれない。
頭の中を整理する意味で、誠は仮説に番号を付けた。まず一番は、塩田綾が真実を告げており、ナナウエとの接触の上で姿を眩ました。
二番は、よりが戻ったというのは嘘で、ゴールデンに立ち入りたくなくなった。理由は日本人仲間との間にトラブルか何かが起きた。もしくは、ゴールデンではなく金田氏から遠ざかろうとした。
三番は、一旦ナナウエとはよりが戻ったものの、再び別れた。ゴールデンに出入りしないのは、別な理由による。考えられるのはこの位だろう。そして、緑はおそらくそれに関わる何かを知っているらしい。
これは断言出来ない。素面の時に聞いてみたら、実は他愛もない誤解だったという可能性も高い。
誤解の可能性について考えると、急に疲れが出た。仮説の三番目のケースであれば、今までの努力は無駄になる。アパートの駐車場に車を入れ、エレベーターを待つ間も壁に寄り掛かってしまった。
ジェームスはとっくに白河夜船の時間だ。大きな音を立てないように気を使いながら、キッチンへ行って水を飲む。冷蔵庫の扉には例によってジェームスからのメッセージが貼ってあった。
「明日、君はモーニング・シフトなのでさっさと寝るように」
短いメッセージに、誠は舌打ちした。明日が、正確には今日だが、モーニング・シフトだという事をすっかり忘れていた。
シャワーを使って寝間着のTシャツとショートパンツに着替え、マットレスを敷いた。念のために携帯を確認すると、兄からのメールが入っていた。