第三章・第一話 「翻弄」
翌日の水曜日はナイト・シフトだった。前夜はナナウエの事を思い出して不愉快になり、眠りが浅かった。
三時の出勤で、さすがに睡眠不足ということはなかったが、だるさを抱えて店に出た。同じシフトのクルーが、トレイシー、マーク、ジョージに君代という実に気楽なメンバーなのが幸いだった。
ミーティングが終わってフロアに出ると、モーニング・シフトのジャネットが紙切れを手に近付いて来た。
「お客さんから電話があったよ。これ、コールバック・ナンバー」
そう聞いて、誠は首を傾げた。確かにお得意の客には自分の名刺を渡してあるけれど、電話があることはめったにない。記してある名前を見て、やっと分かった。誠にゴールデンの事を教えてくれた由美だった。
スーパーバイザーのティムに断りを入れて、電話を掛ける。二回の呼び出し音の後、由美の明るい声が聞こえた。用件を尋ねる誠に、彼女は甘えた声を出した。
「この間の約束、社員割引使わせて欲しいの。今日、行っていい?」
よほどご執心な商品があるらしい。誠は少し微笑ましい気持ちになった。
「いいよ。いいけど、勤務中はまずいから、休憩の時に来てもらえると有り難いんだけど」
何時でも構わないと言う由美と、時間を約束した。切る間際に彼女は、早口で商品番号と色を叫ぶように言った。
「欲しいのはそれだから、よろしくね」
人を待たせるのは好きじゃない、と由美が言ったのは嘘ではなかったようだ。約束の時間の十分前に、彼女は店に現れた。今日はヒップ・ハングのジーンズに、短いTシャツを合わせている。誠を待つ間、目的の商品とは違う物を次々と手に取って、ためつすがめつしていた。
ブランド物の好きな女の子達は、買う買わないに関わりなく商品に触れたがる。無論、触れるだけではなく、手に持ったり肩から掛けてみたりして鏡の前に立つ。それが堪らなく楽しいらしい。
時間が来たので、誠は休憩に入った。予めティムに伝えてあったので、手回しよく由美の希望の物を購入出来た。特殊加工で革に型押ししてある、シルバーのハンドバッグだ。正規の価格は八百二十ドル。三十五パーセントの社員割引でも五百三十三ドル。それに州税が入った額を、由美は現金で払った。
商品が入った袋を渡すと、本当に嬉しそうに笑った。
「ねぇ、ご飯の時間なんでしょ? 奢るし、一緒に食べようよ」
腕を引っ張る由美は、無邪気そのものだ。塩田綾に関する話も聞けるだろう。誠は頷いた。
「奢らなくていいけど、行こう」
近所のハンバーガーショップでトレイを挟んで向かい合うと、由美は改めて誠に礼を言った。
「ありがとうね。このバッグ、ずっと欲しかったの。前ほら、お財布買ってくれたおじさんからお小遣いもらったから、やっと買えた」
前回彼女か店に来た時、連れの男との間にそういう雰囲気があったと思ったのは、気のせいではなかったようだ。あまりにも無邪気に言う彼女に、誠は苦笑した。
「そんなに欲しかったの?」
「そうよ、馬鹿にするかもしれないけど、でもこういうものには魔力があるの。一度頭に引っかかったら、買わなきゃいけない気になるの。誠さんは、『オヤジと寝てまで』って思う?」
彼女の言う「魔力」とやらを持つ商品を売っている身としては、何とも言えない。誠はあやふやに笑ってフレンチフライを口に運んだ。
「いつもおじさんと付き合ってる訳じゃないよ。本当、こういうのは初めてでさ、でも薬も入ってたし、まあいいかって思ってさ」
ナナウエといい、由美といい、告白週間かなと、誠は頭の中で呟いた。咀嚼したフレンチフライを飲み込んで、優しげな顔を作った。
「本人がいいなら、俺がどう思うかは問題じゃないでしょ。でも酒や薬が入るとコンドームや色々付けるの面倒臭いって思いがちだから、そっちの方を気を付けないと。妊娠より悪い事もあるし」
こういう事を口に出すと、自分の過去も甦る。
幸い痛い目には遭わなかったが、ジェームスと出会う以前、東京で、あるいはホノルルで、酔った勢いで知らない相手とベッドを共にしたことがある。朝になってコンドームを使わなかった事を後悔し、相手がHIVや他の性病の保菌者でない事を祈ったものだ。女性ならもっと心配する事もあるだろう。
相手の素性、薬物の量次第では命がけのアフェアになってしまう。
由美の顔から一瞬笑顔が消えて、真顔になった。
「嫌な経験あるの? そういう事言う人、あんまりいないよ」
「誰でも言うよ、こんなこと」
「あたしの周りにはいない。……薬はあんまりやらない方がいいかもね」
そうだね、と誠が相槌を打ち、少しの間二人は黙々と食べる事に集中した。ハンバーガーを食べ終え、唇に残ったケチャップをナプキンで拭うと、由美が口を開いた。
「綾さんの事、何か分かった?」
昨日のナナウエとの遭遇が頭の中に甦り、誠は思わず眉間に皺を寄せてしまった。
「金田さんに会ったよ。塩田さんは元の彼氏とよりを戻したってさ。でも、その彼氏にはシラを切られた」
肩を竦めながら言うと、由美はソーダを啜り、一瞬虚空を見るようにしてから声を低めた。
「実はさ、あたしも気になってたから、あの後も何人かに綾さんのこと聞いたんだよね」
姿勢も低くし、顔をテーブルに突き出すようにして由美は喋る。誠も釣り込まれて、顔を近付けた。
「そしたらさ、皆、知らないって言ったけど、一人いやな顔した子がいたんだ。いやなって言うより、青くなったって感じかな。何か知ってると思うの。でもその子、金田さんのお気に入りだから、無理に聞き出そうとしたら、ゴールデンに出入り禁止になっちゃう。あたしは出来ないけど、何だったら誠さん聞いてみてよ」
手掛かりが途切れたと思うと、予想しない形で別のそれが現れる。引き摺られているような、翻弄されているような感覚を味わいながら、誠は曖昧に頷いた。
「じゃあ、今日、仕事が終わったらゴールデンに来て。分かるでしょ、二階のバー。あたしもそこにいるから、どの子かこっそり教えてあげる。今日ならパーティーもないし、皆あそこで溜まってると思うの」
てきぱきと決めてしまって、由美は晴れやかな顔をして微笑んだ。
悪人でない事は分かるのだが、どうも誠には彼女のような人間は今一つ理解しかねる。取引めいた事をしてみたり、金銭の為に誰かと寝たりしながらも、塩田綾の事を気に掛けている。
「親切なんだね」
皮肉っぽくならないように気を付けながら、言ってみた。驚く程大きな声で、由美は「そりゃそうよ」と反応した。
「あたしだって、何かあって家族に連絡しなくなったら、誰かに捜して欲しいもん。誠さんみたいに格好いい人だったら言うことないけど、そうじゃなくても心配して欲しいじゃない? 万が一の時のために、クドクは積んどこって感じ」
「クドク」が功徳だと分かるまで、数秒かかった。由美の口から「功徳」などという言葉が出るとは思わなかったせいだ。意外性に富む女の子だ。自分がストレートでも交際したいとは思わないだろうが、憎めない。
十二時少し前にはゴールデンに行けるだろうと由美に告げ、誠は店に戻った。