第二章・第十話 「情報提供」
考えたのは一瞬だった。
兄は、塩田綾の父親からのコメントは触れていなかったし、もう捜索を打ち切っていいとは書いていなかった。ここで新しい手掛かりが掴めるなら、出来ることはしておいた方がいいだろう。
社員割引の枠は決まっているが、今年に入ってからほとんど使っていない。
「いいですよ」
今、話すのかと思いきや、由美は誠の勤務時間は何時までかと聞き、二ブロック程離れたコーヒーショップの名前を出した。そこで会おうと言う。
「そんなに込み入った話ですか?」
「ううん、でも今、時間ないの。下にいるおじさんとちょっと付き合わなきゃ。あ、お財布もそのおじさんが払うから、下に持っていって」
言われるままに、誠は商品を持って彼女と一緒に階下へ下りた。一階ではトレイシーが、日本人の中年男性に新しいブリーフケースを見せていた。
「決まったのか?」
彼は由美の姿を認めると、極めて鷹揚そうに尋ねた。
「うん、前から欲しかったやつなの。もう、すごい嬉しい」
誠はトレイシーに商品を渡し、由美に軽く頭を下げて二階へ上がった。本来、こうして二人のセールスが別々に接客した場合、それとなく客に頼んでレシートを二枚にして貰うか、或いは片方がそのセールを自分のものにして、後で他の売り上げを相手に回すという事をするのだが、誠は何も言わなかった。
由美とあの日本人男性の関係は、薄々察しがつき、塩田綾とナナウエを思い出して、複雑な気分になった。
とはいっても、仕事に手が着かなくなるような事はない。ぽつぽつとやって来る客を同じフロアのスタッフと交替で接客し、出勤して来たナイト・シフトの連中と世間話などをしている内に、退社時間となった。
五月は一年の内でも日が暮れるのが遅い。
ハワイでは冬でも、日没は日本より遅い。その代わり夏でも日の出が遅い。六時を回ったというのに、まだ太陽は傾いたばかりに見える。夕食前のそぞろ歩きを楽しむ人々で、カラカウア・アベニューは賑わっている。
由美は先に来て、フラペチーノを飲んでいた。誠は急いで自分の飲み物を買い、彼女の前に腰を下ろした。
店で会った時と、彼女は着ている服が違う。今は薄手のワンピースを着ていた。
「早かったんだね」
「うん、あたし、人待たせるのイヤなの」
待つのが嫌なタイプに見えたが、そうではないらしい。誠は早速本題に入った。由美が提供すると言った情報とは何だ。
「ゴールデンってホテル知ってる?」
「知ってるよ」
ゴールデンはワイキキの中では中流、サイズも大きくはないホテルだ。誠の店では、客の宿泊先を尋ねる。万が一のレシートの渡し間違い等の為だ。
以前、レシートを失くしたが返品したいと言ってきた男に、ホテルの名前を尋ねた。購入した本人であることを確かめるためだったが、男は返答に窮して逃げ出した。男が持って来たのは、購入した客から置き引きした商品だった。
商品を客に返して大いに感謝された事もあり、ホテルを尋ねるのは、必ずしなくてはならない事とされている。お陰で、オアフ島の殆どのホテル名を覚えた。
ゴールデンは、誰もが泊まりたい憧れのホテルではないが、それなりにレストランなども入り、場所も悪くない筈だ。
「あそこのオーナーって日本人なの。面白い人で、若い子集めて騒ぐのが好きなのね」
由美は説明し始めた。
誘われるのは主に日本人留学生で、女の子に限らず、人を集めてパーティーなどを開いているらしい。馴染みの学生達は、いつもゴールデンの二階にあるバーに溜まっている。ナイトクラブで時々顔を合わせる学生に誘われて、由美が出入りするようになったのはごく最近の事だが、すぐにオーナーにも気に入られ、彼のクルーザーにも乗せて貰った。
「でね、この間、前にクルーザーで撮ったビデオを見せてもらったの。そしたら、綾さん、写ってたのよ。綾さんがゴールデンに出入りしてたなんて知らなかったもん。でもね、今は来てないよ」
「由美さん、頻繁に行ってるんだね」
肩に掛かった髪を払って、由美はにっこり笑った。
「うん、毎日。オーナーさんね、金田さんっていうんだけど、色んな有名人や偉い人と知り合いなんだよ。お金持ちの人もよく来るから、紹介してくれるの。コネを作っておけば、就職にも便利じゃない?」
彼女の「情報」はそれだけだった。塩田綾はゴールデンのオーナーと親しくなっていた。しかしそれも今現在の話ではない。誠はいささか失望したが、約束通り由美に、社員割引は使わせると告げた。
「店に電話して」
「携帯の番号とか、教えてくれないの?」
由美は軽く首を傾けて、誠の顔を覗き込んだ。自分がどうしたら愛らしく見えるか分かっている仕草だ。誠も例のセールス・スマイルで答えた。
「俺、彼女と住んでるんだ。彼女、日本語分かんないから、俺が日本人の女の子と仲良くするのを嫌がるんだよ」
白けるだろうと思ったが、由美は逆に驚きの声を上げた。
「そうなんだ、すごい真面目だね。彼女、大事にしてるじゃん。いいなぁ。分かった、お店にかけるね」
別れ際、由美はこれからあのおじさんと食事なんだと告げ、さらに付け足しのように言った。
「誠さん、ゴールデンのバーにも来なよ。何だったらオーナーにも紹介してあげる。金田さん、不細工な男は嫌いだけど、誠さんなら絶対、オーケイだから」
ひらひらと手を振って去って行く由美を見送って、誠は苦笑した。危なっかしいのか、ちゃっかりしているのか分からない。
彼女の口振りでは、塩田綾もよくホテルに出入りしていたようだが、彼女が有名人とのコネに惹かれた口だとは思えない。ナナウエと別れて寂しかったせいではないか。
アパートへ戻ったのは、七時過ぎだった。当然ジェームスはまだ帰っていない。誠は書斎に入り、メールをチェックした。兄からのメールはない。
思い立って誠は、塩田文美にメールを書いた。
まだ綾には会えていない事などを書き、ナナウエの事は「親しくお付き合いしていた友達もいたようですが」とぼかしにもなっていない表現をした。「大分お金を遣ってしまっていたようです」という一文に、文美が反応してくれる事を願った。
金が無くなったのなら、父親に請求している筈だとか、或いは実際にそういう事があったとか、教えてくれれば何か手掛かりになるかもしれない。
誠は塩田綾のコンドミニアムに入った時の様子を思い出した。確かに彼女の持っていた筈の、ブランド物のバッグや靴は見当たらなかった。しかし、電気も電話も通じていたから、一文なしになっていた訳ではない。
もしかすると、ゴールデンに出入りしていて新しいボーイフレンドでも見付けたのかもしれない。どういう相手かはさておいて、そのボーイフレンドの家に入り浸りになっているとも考えられる。捜索を続行する上で、次なる場所はゴールデンしかない。
翌日も誠はモーニング・シフトだった。
昨日と同じく、ジョージも同じシフトでおまけにフロアも一緒だった事から、接客の合間を縫って、誠はこれまでの経過を彼にして聞かせた。以前付き合って貰った手前、何となく経過を報告しておく気になったのだ。
自分も時々日本の女の子を引っ掛ける癖に、ジョージはナナウエの話を聞いていきり立った。
「何だよ。そんな奴、ぶっ飛ばしてやれば良かったじゃないか」
雲突くような白人の父親の遺伝子を受け継ぎ、日本人の母親の勧めで柔道をやっていたジョージなら、あるいはナナウエを「ぶっ飛ばす」事も可能かもしれない。誠は肩を竦めた。
「自分だって時々、日本人相手に一晩限りしてるじゃないか」
「俺は物なんかねだったことはない。金目当ての付き合いなんて、反吐が出る。とにかく、ゴールデンのバーに行ってみようぜ」
勢いが付くと止まらないというか、義侠心に溢れているというか、ジョージは誠を頼りない弟位に思っているから、これは正直言って有り難い。
ローランドにしてもそうだったが、性別嗜好、肌の色を問わず、親しくなった相手には優しくしてしまう人間が、ハワイには多い。仕様がないと思っても、突き放せないのだろう。