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第一章・第二話 「ショップ」

 しばらくカラカウア・アベニューを走って左折し、もう一度左折して駐車場に停める。

 車をロックして、誠は空を仰いだ。蒸し暑い。

 日本の蒸し暑さとは比較にもならないけれど、三年もいるとハワイの快適さの方に体が馴れてくる。

 冷房の効いた店内に入るまでの辛抱だと、店へ急いだ。店の従業員出入り口の正面には、短い階段があって、シフト前のセールスや休憩を取る者の憩いの場になっている。

 誠が階段まで辿り着くと、先にトレイシーが来てアイス・ラテを飲んでいた。トレイシーは日系二世の女の子だ。誠と同じ二十四歳なのも手伝って、仲良くしている。

「はい、あんたの分。今日も忙しいかな?」

 足元で汗をかいていた、小さいアイスコーヒーを差し出して、トレイシーが挨拶代わりに言った。誠はありがたく受け取り、財布から紙幣を引き抜いた。

「週明けまではな。何てったってゴールデン・ウィークだからさ」

 日本人観光客を目当てとする業界は日本のカレンダーにも敏感だ。ブランド店や旅行業者にとって「ゴールデン・ウィーク」は一種の行事だ。

「忙しいのはいいの。誰と同じフロアになるかってのが問題なの」

 毎週変わるスケジュールと同じく、この店では毎日担当フロアが変わる。

 一階はメンズと靴に香水、二階はレディスとアクセサリーという振り分けになっていて、日によって一階か二階に分けられる。

 同僚達のほとんどは気のいい連中だが、中には必要以上に成績に拘る者もいて、フロアであざとい真似をすることもよくある。そういう同僚と一緒になると、ストレスが溜まるとトレイシーは言っているのだ。

「まあね。話を変えるけど、今日、珍しく兄貴から電話があったんだよ」

 トレイシーは勿論、誠の性向を快く受け入れている。頭の上がらない兄がいる事も、話してあった。

「へぇ、本当に珍しいね。お兄さん何て?」

「それが、妙な事を頼まれちまって」

 依頼の内容は複雑ではない。誠が説明をするとトレイシーは眉を顰めた。

「一か月っていうのは、普通じゃないわ」

 そうだろう、と誠が口に出す前に、通路を来る足音がして、アビーと君代が連れ立って現れた。

「出来る事があったら言ってね。まず、ジェームスにアドバイスをもらったらいいよ」

 小さい声で早口にそう言うと、トレイシーは今来た二人と話し始めた。どこそこの店がバーゲンを始めるようだから一緒に行こうよ、といった女の子同士の話だ。

 急に従業員入り口のドアが、内側から乱暴に開いた。

 まだタイムカードを押すのには時間があると思っていたのに、ドアから顔を覗かせたマネージャーのポールが、中に入るように言う。

 店内がとんでもなく混雑しているらしい。普段は朝と夜のそれぞれのシフトが始まる前にミーティングがあるのだが、今日はそれどころではないようだ。

 店の中は確かに大変な賑わいだった。欲しい商品は決まっているのに、店員を上手く掴まえられずに困っている客が大勢いる。大慌てで二階のロッカールームに入り、自分用の小さいロッカーに携帯電話や鍵を入れてフロアに出た。

 すかさず客に呼び止められる。日本人の中年男性だった。

 昨日はゴルフにでも行ったのだろう。両腕は日焼けで真っ赤になっているが、左手だけがおかしいくらい真っ白だ。彼は革のハンドバッグを指差した。

「これ、色はこれだけ?」 

 人気のモデルだ。フロアにはピンクとシルバーの二色しか展示されていないが、黒と水色もある。本来ならキャッシャーのブースへ行って、自分の担当フロアを確認するのが先なのだけれど、客を待たせる訳にもいかない。

「他に黒と水色がございます。御覧になりますか」

「黒と水色か、このバッグは人気があるんでしょ?」

「はい、それはもう。色も形も可愛いですし、シンプルなデザインですから、どんなお洋服にも合わせ易いんですよ。お土産ですか?」

 本来なら聞くまでもない質問だ。中年男性がハンドバッグを自分用に買う訳がない。ただこの後「お幾つ位の方で?」「身長は?」などというセールス・トークにつなげる為には必要なのだ。

 ところがこの客には必要なかった。

「うん、そう。じゃあね、全部一個ずつ頂戴」

 内心快哉を叫びながら、誠はにっこり微笑んだ。料金の高いゴールデン・ウィークにハワイに来るだけあって、この時期は即決で大きい金額を使う客が多い。

「一色ずつ、合計四つで宜しいですか?」

 念のため確認すると、客は軽く「うん」と頷いた。値段はディスプレイの前に表示してある。一つ七百ドル。四つで二千八百ドルだ。そういう額の金をさらっと使える人間は、あまりいないのだろうが、あまりいない人間がよく来るのがブランド店だ。

「かさばるの嫌だから、包装は小さめにね」

 恭しくカードを受け取って、誠は商品のプライスカードとクレジットカードをキャッシュ・ラップと呼ばれるブースに持って行った。

 中では会計専門のキャッシャー、アンジェラがおそろしい勢いでコンピューターのキィを叩いている。

 プライスカードの列に大汗を掻いているアンジェラを邪魔しないように、キャッシュ・ラップを出る時、入って来ようとしたジョージとぶつかりそうになった。

 ジョージも誠と同じセールスだ。日本人と白人のハーフで、誠より二つ年上の彼ともよく飲みに行く。今日は誠と同じシフトの筈だから、今出勤したのだとすれば遅刻した訳だ。

「よう兄弟、調子はどうだい?」

 Eh, bro. How's it ? 本土から来たアメリカ人の客相手には、アクセントのない英語を使うくせに、同僚や友人と話す時のジョージはかなり地元のアクセントがきつい。ジョージの右手を叩くように握って、誠も挨拶を返した。

「絶好調だ。あんた、今来たのかい?」

「馬鹿言え、俺は遅刻なんかしねぇ。下で客に捕まってたのさ。あの野郎、あれこれ試着した上で『考えておく』と来たぜ。今日俺は二階担当だってのに、とんだ時間の無駄だった」

 セールスの仕事が長く、少々の事では笑顔を崩さないジョージは、実は口が悪い。客が帰った後なら何を言おうが勝手というのが彼の持論で、しかも彼の喋り方は憎めなくて、誠はしょっちゅう笑わされている。

 半年前にこの会社に勤め始めた際、ジョージと口論になった事があった。

 誠が同性愛者だと知ったジョージが「俺の尻を狙うのはやめてくれ」と、からかったのが原因だった。

「うぬぼれが過ぎないか? それともあんたは、好みじゃない女の子にも一々そうやって、下らない断りを入れてるのかな?」

 憤然と言い返したのが、却って良かったようだ。不特定多数を相手にしない所にも、ジョージは好感を持ったらしく、以来親しく付き合うようになった。

「あんた達、お喋りしてないで仕事しなさいよ」

 ブースの中から飛んで来たアンジェラの声に首を竦め、誠とジョージはフロアに散った。


 五時からが夕食休憩だった。

 近所のハンバーガーショップで、トレイシーの言葉に従って誠はジェームスに電話をした。

 事務所は一応五時で閉まる事になっているが、その時間に退勤できたためしはない。彼は弁護士だ。離婚と家庭問題を専門に扱う法律事務所に勤めている。

 事務所の番号ではなく、携帯電話にかけると奇跡的に繋がった。

「どうした? 何かあった?」

 声が緊張しているのは、日頃誠が仕事中に電話する事がないせいだろう。兄からの電話を受けた誠と、同じリアクションだ。

 簡単に兄からの頼まれ事について説明し、助言を求めると、彼はまず Power of Attorney がなければ話にならないと言う。

 誠が兄と話しながら思い浮かべた、公証人の前でサインする正式な委任状だ。

「それにしたって本人の代理じゃなくて、家族の代理だから効力は限られるけどね」

「アメリカの書類だから、日本じゃ難しいんじゃないのか?」

「大使館や領事館で公証してくれるだろう。調べて教えてやればいいさ」

 政府の公館が、そういうサービスをしているとは知らなかった。誠は礼を言って電話を切り、携帯電話からインターネットで検索してみた。確かに、東京にある在日本アメリカ大使館や、地方のアメリカ総領事館で、そういったサービスを提供しているようだ。

 親切な事に、ダウンロード用のフォームまである。誠は早速その旨を簡単に兄にメールした。兄の住む町から、在大阪アメリカ総領事館まではそれほどの距離ではない。


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