第二章・第七話 「ランチ」
金曜の夜という事もあって、ジェームスは起きて誠の帰りを待っていたが、リビングルームのテーブルにはレストランのテイクアウトの容器が並び、カウチにはファイルが何冊も開きっ放しになっていた。
「ひどいな、これ。仕事は書斎でやれよ」
一度仕事の資料をひもとくと、他の事が一切気にならなくなるのは、ジェームスの悪い癖だ。
「ああ、ごめんよ。こんなに散らかすつもりはなかったんだが」
資料と共にジェームスを書斎に追いやり、残ったテイクアウトの料理を胃袋に詰め込む。
携帯電話で確認すると、兄からのメールは来ていない。
何となく所在なさを感じながら、誠はシャワーを使い、テレビを眺めた。ベッドに潜り込んだのは三時を回っていたが、ジェームスはまだ仕事をしていた。
目覚ましの音が聞こえた時には、何かの冗談だと思った。唸り声を上げて毛布を頭から被ろうとして、ジェームスに揺さ振られた。
「さあ、サーフィンに行こう」
「あんた一人で行ってくれ。俺はまだ眠い」
「何だって? 君、昨晩聞いた時、行くって言ったじゃないか」
ジェームスは、半ば眠っている誠に尋ねたに違いない。そんな時は、何を聞かれたって「うん」と答えるだけなのに。
「ありゃ、嘘だ。行かない」
「何? 偽証したな。偽証罪は風呂掃除一年だぞ」
何時に寝たのか知らないが、ジェームスは恐ろしく元気だ。誠はうんざりしながら、彼が掴んでいる毛布を引っ張った。
「分かった。行くけど、後から行く。俺はサーフィンしないからね」
渋々ベッドルームから出て行くジェームスに時間を聞くと、八時だと言う。誠は黙って枕を抱え込んだ。
次に目が覚めると十一時だった。ジェームスはまだ帰っていない。
誠は寝間着のTシャツのまま、下半身だけショートパンツに着替えた。あまり遅く行くと、本当に風呂掃除を言い付けられる。頭が働いていないままで、煙草と財布に携帯電話だけでアパートを出た。
ジェームスのいる場所は分かっていた。アラモアナ・ビーチパークの東側に、マジック・アイランドと呼ばれる小さな半島がある。そこから遠くない沖に、サーフィンのポイントがあるのだ。
アパートの前の道から、誠は車をベレタニア・ストリートに入れた。ラジオをハワイアン・ミュージックだけを流すステーションに合わせる。休みのリラックスした気分には、もってこいだ。
マジック・アイランドの中は、ジョギングを楽しむ人や、芝生の上でピクニックを楽しむ人々で賑わっている。誠は半島のさらに東端へ歩いた。
先にあるポイントで腕を競っているサーファー達が、水鳥のように見える。堤防の端まで行って、誠は目を凝らした。ジェームスは赤いショート・ボードを使っている筈だが、よく見えない。
運良くジェームスが誠を見付ければ上がってくるだろうし、そうでなければ堤防の内側にある砂浜でごろごろしていればいい。ボードもない誠には、ポイントに近付く事も出来ない。
ぼんやりサーファー達を眺めていて、誠は中に一際上手い男がいるのを見付けた。
波が崩れ始めるピークと呼ばれる場所を巧みに捉え、器用に滑り出して行く。ショート・ボードで波の腹を上下に滑るその様は、音のない音楽を聴いているような気すらしてくる。
しばらくそうして、彼の巧みなボード捌きに見惚れていた。
数回波を捉えた後、彼は岸に向かってボードを漕ぎ始めた。誠は見るともなしに見ていたのだが、近付くに従って眉間に皺を寄せた。
元々視力はあまり良い方ではないが、かなりのスピードで水上を滑って来るのはナナウエだった。奇妙な偶然に、誠は唖然とした。
いつかローランドと一緒にバーで会った男が言っていた通り、背中の中央に大きな刺青がある。
波が打ち寄せて、下手をするとボードを岩にぶつけそうな浅瀬で、ナナウエは器用に足のストラップを外し、ボードを抱えて上がって来た。
知らん顔をしようかとも思ったが、ナナウエの方で誠に近付いて来た。
「おいおい、これも偶然だってのか?」
口調はきついが、目つきは先日ほど険しくない。
「当たり前だろ。俺はルームメイトの付き合いで来ただけだ。まあ、あんたのサーフィンが大したもんだったから、つい見惚れてたのは認めるけどね」
彼が塩田綾の居所を知らない以上、誠としては彼に偶然会おうが会うまいがどうでもいい、とも付け足した。
「そうかい、そんならいいとするか。俺がサーフィン上手いって言ったな。教えてやってもいいぜ」
ナナウエの申し出に、誠は口を開きそうになった。
二日前に出会った時は、敵意とはいかない迄も不愉快さを隠そうともしなかったくせに、今日はサーフィンを教えてもいいと言う。
「生憎だけど俺は根性なしで、とてもサーフィンなんか出来ない。ルームメイトにも匙を投げられたんだ」
白けた風に言う誠に、そうか、と言った後、ナナウエは様々な質問を投げて、誠を面食らわせた。学生ではないのか、どういう身分でアメリカに滞在しているのか、日本に帰る予定はあるのか、といった事だ。
一体全体、何故彼がそんな事を聞きたがるのだろう。誠は一々質問に答えながら、野生の動物を連想した。
見知らぬ相手に遭遇した時、最初は警戒心を剥き出しにして見せるが、少しすると寄って来て匂いを嗅ぐ等の調査をする。それにしても彼は「日本人が嫌い」だと、誠に向かって二日前に断言したのではなかったか。呆れている誠に、彼は駄目を押した。
「飯でも食いに行くか? 奢るぜ」
答えに迷って口ごもっている所へ、後ろから聞き慣れた声が掛かった。誠が堤防でナナウエと無駄話をしている間に、ジェームスが水から上がって来ていた。
「誠、来たのか。友達かい?」
誠の説明を遮るようにして、ジェームスは早口で続けた。
「忘れてたんだが、これからクライアントと会う約束があったんだ、すぐ帰らなきゃならない。君は友達と食事でもして、ビーチでのんびりすればいい」
更に誠の耳元に口を近付け、小声で「浮気するなよ」と囁くと、せかせかと公設シャワーの方へ歩いて行く。途中で一度振り返った。
「偽証罪だとか言うなよ。どうせ俺が風呂を洗うんだから」
予想外の展開に、誠は毒気を抜かれてナナウエの方を向いた。彼は唇の端を曲げて、皮肉っぽい笑いを浮かべた。
「お前の名前はマコトってのか。まあいい、丁度良かったじゃないか」
何がまあいいのかは聞く気も起きなかった。
ナナウエが近所に良い店があると言ったのは、ローランドと行った一軒目のバーだった。まず運ばれて来たビールを一気に半分ほど空けて、ナナウエが言った。
「お前、ゲイだろう。あの男、俺をちょいと睨んで行ったぞ」
その口調が僅かだが優越感を含んでいたので、誠は席を立ちたくなった。
異性愛者である事は、同性愛者よりも優れていると信じて疑わない人間の何と多い事か。誠にとっては、人種問題と同次元の事なのだが、人種差別に反対を唱える人間でも、同性愛者を平気で差別する人間もいる。
いずれにしろ、自分を疑う余地を持たない相手に議論を吹っかけるのは、徒労に過ぎない。
「そうだよ、気持ち悪いだろう。飯なんか食ってないで帰るか?」
ナナウエは肩を竦めて、軽薄そうな笑いを浮かべた。
「怒るなよ、聞いただけだ。別にゲイだっていいさ。一人で飯を食うのは最悪だからな」
どうもこの男は分からない。誠は続いて来たチーズバーガーを頬張りながら考えた。
この男はどんな風に塩田綾と付き合っていたのだろう。不愉快そうな顔をしたけれど、誠が尋ねるとナナウエは少しずつ塩田綾の事について話し始めた。
出会ったのは、去年の十月の終わり頃だそうだ。
ナナウエがよく行くサーフ・ショップでは、ハワイアン柄をプリントした服やバッグ、サーファーに人気の時計等も扱っている。塩田綾は友人へのプレゼントを探しに来ていて、彼に声を掛けられた。
日本人の女の子と付き合い馴れたナナウエにとっては、美人の綾は「ちょっとした幸運」だったが、綾はナナウエに夢中になったらしい。ナナウエが欲しがる物を迷わず与えた。
四か月程、贅沢三昧の付き合いをし、いい加減、塩田綾の顔色が冴えなくなってきたのを感じたナナウエは、彼女と別れた。塩田綾は別れたがらなかったそうだが、貰った携帯電話を返し、綾の知らない友人宅に転がり込んでそれっきりだと言う。
「彼女は大金を持ってたそうだけど」
塩田綾がいい顔をしなくなったのは、ナナウエが金銭目当てだという事を感じ取ったに違いないが、それで別れたがらなかったのが、腑に落ちない。
上手い鎌の掛け方ではなかったが、ナナウエは乗った。
「いくら持ってたって、お前、派手にやったからな。あの、モーターサイクルもそうだし、サーフ・ボードもいくつか。ああ、ラスベガスでは凄くすっちまった」
まさかあのバイクまで、彼女の買ってやった物だとは思わなかった。ラスベガスでは幾ら遣ったのか知らないが、塩田綾が日本から持って来た金を使い果たしていた可能性もある。十万ドルとして、それを四か月で使うのに一月に二万五千の計算だ。
ナナウエは平気な顔で、指に着いたケチャップを舐めている。
「彼女、車を手放したらしいな。何でだ?」
車の件を思い出したのは上出来だ。
「ああ、そりゃ俺のダチが事故って壊したのよ。綾はしょうがねぇって言ってたぜ」
廃車にする程の事故ならば、かなり大きな事故だったに違いないが、ナナウエは涼しい顔をしている。
「いつもそんな事して生活してるのか? そりゃ、笑いが止まんねぇな」
押さえたつもりが、語気が荒くなった。