第二章・第三話 「変化」
「会ったばっかりの頃も、綾さんはすごく親切だったんですけど、時々困りました。宿題を手伝ってあげただけなのに、ブランド物のお財布を買おうとしたり、外食するにも、何百ドルもするレストランに連れて行ってくれたりしたんです。お金を使う感覚が全然違ってて……。
綾さんがよくナイトクラブに一緒に行ってた人達は、お金出して貰うの、気にしない人達みたいでしたけど。
でも一月に、すごく久しぶりに電話をくれて、入学祝いをくれるって。高い物じゃないから、って言うから、素直に受け取る気になったんです。会った時、前よりもずっと静かな感じでした。プレゼントもハワイアンのCDで、知ってます?」
浅井友子の挙げたアーティストの名前を誠は知らなかったが、トレイシーは軽く頷いた。
「そうだ忘れてましたけど、綾さん、その時、車持ってなかったんですよ。彼氏が迎えに来てました」
さり気なく付け足した言葉に、誠は漸く当初の予定の質問を思い出した。わざわざ会ったのは、写真を見てボーイフレンドの確認も頼むつもりもあった。
「それはこの人じゃありませんでしたか?」
素早く写真を出して見せたが、彼女は弱々しい笑みを浮かべて首を振った。
「ごめんなさい。私、その彼には会っていないんです。ただ、十二月に学校がクリスマス休みに入る前に、彼氏が出来たとは聞いていたんです。本当に嬉しそうでした。サーファーだって言ってたから、ハワイアンのCDも、彼の影響かなと思って。CDを貰った時は、迎えが来ると聞いただけで、私は彼に会わずに帰りました」
「そうですか、他に塩田さんが彼について、何か言っていた事はありませんか?」
眉間に皺を寄せ、宙を睨んで浅井友子は暫く黙った。
トレイシーが素早く誠に「車の事も聞かなきゃ」と耳打ちする。ややあって、浅井友子は視線を戻して苦笑した。
「あの、綾さんがね、すごく大事なことみたいに言ったんですよ。『彼って、実は鮫なの』って。でも、参考にはならないですよね?」
正直言って落胆した。付き合っている者の事で「鮫」などという単語を使う場合、ベッドの上の話ではないのか。違ったとしても、サーファーという事を考えて、せいぜいサーフィンが上手いという意味だろう。
もっとも、浅井友子のような年若い友人にそんな自慢をする位だから、塩田綾は余程そのボーイフレンドとの関係に夢中だったと見える。
気を取り直して誠は質問を変えた。
「話を変えますけど、一月のその日だけ、自分の車で来ていなかったのとは違うんですか?」
答えは即座に帰って来た。
「違います。だって綾さん、『車はもうないの』って言ってました。どうしたのか聞いたんですけど、答えてくれませんでした」
誠は胃の辺りに嫌な物を覚えた。トラブルの予感がする。
始終自分の車で移動することに馴れてしまうと、そう簡単に車を手放したりはしない筈だ。事故でも起こしたのかもしれない。誠は頭の中で素早く仮説を立ててみた。
塩田綾が、自動車事故を起こす。彼女は当然加害者だ。相手とは警察に通報せずに示談にしようと交渉し、一旦は成立するが後でこじれる。
車は処分し、被害者と連絡を取りたくない一心で、一時的に姿を眩ましているのかもしれない。誠は塩田綾の留守番電話と、郵便受けを調べなかった事を後悔した。
いずれにせよ、浅井友子から聞くべき事は聞き終わった。三人共、それ程進まなかったが、食事も終えたため、誠はもう一度彼女に礼を言った。
カフェテリアの外に出ると、柔らかい風が吹いていた。
「あんまりお役に立てなかったみたいですけど」と言ってから浅井友子は、眩しそうな顔で、歩道の先にあるシャワーツリーを指さした。咲き零れるという表現がぴったりだ。
「綾さんが、あんな花みたいになりたいって言った事があります。明るくて元気で、楽しそうな感じでしょう? お花屋さんで売ってる、高いバラみたいな人がそんな事を言うなんて」
「自分を変えたかったんでしょうね」
再び誠の頭を、塩田文美からのメールが過ぎる。浅井友子は遠いどこかを見て笑った。
「私が、あの花は躍ってるみたいって言ったら、綾さんは、あれは唄ってるんだって、言ってました。人目を気にせずに、気持ち良く唄っているようにしか見えないって」
二ヶ月少しとはいえ、思い出は沢山あるのだろう。トレイシーが頷いたのを見て、少し頬を染めた浅井友子は、初めて誠の目を真っ直ぐ見て言った。
「綾さんに会ったら、私が会いたがってたって伝えてくれますか?」
別れ際、バックパックを胸に抱えるようにして浅井友子は頭を下げた。
同じ駐車場に車を停めたというトレイシーと構内を歩きながら、誠はさっきの仮説について考えたが、すぐに矛盾に気が付いた。
仮に塩田綾が、事故の被害者を避けているのだとしても、家族に連絡位は取るだろう。事故の事など言わずに、適当な理由を付けて送金だけ頼めばいい。
「それで、これからどうするの?」
浅井友子の話を聞いて、トレイシーはトレイシーなりに何か考えがある筈だが、口に出さない所を見ると、誠と同じく確信が持てないのだろう。
具体的にどうするという案は何もなかった。彼女の学校で会った女の子が言っていた、ナイトクラブに行ってみる位だろうか。
もうこの辺りでいいだろうという気持ちと、やはり捜さなくてはという義務感が半々だ。ぼそぼそとそういう気持ちを口にすると、トレイシーは対照的にはっきりと提案を出した。
期間を決めて、市内の有名なナイトクラブを廻ってみる。それで何も手掛かりがなければ一切手を引くと兄に告げてはどうかと言うのだ。悪くない案だと思った。
「今晩から始めなよ。金曜だから丁度いいよ」
付き合うから、仕事が終わる頃に店に来て、とトレイシーは付け加えた。彼女も話を聞いて釣り込まれているようだ。
駐車場でトレイシーと別れた後は、する事が無くなってしまった。時間は充分あるから、先日のようにビーチへ行く事も出来るが、何となく気が向かなかった。
とりあえずアパートへ戻ると、管理人が書留めを預かっていると言う。薄いがしっかりした封筒の中身は、小為替と委任状の原本だった。
小為替の額面には千ドルとある。兄が自腹を切ったのに違いないが、院長先生から経費が支払われる際に、兄のところで千ドル分差し引いてもらうよう頼もうと思った。
それを決めると本当にすることがなくなったので、あろうことか掃除をした。
重たいカウチをずらして掃除機を掛けたり、バスルームの床をモップで擦ってみたりした。ジェームスが帰って来たら、誠が発狂したと騒ぐだろう。
そのジェームスは八時近くになって帰って来た。予測通りに大騒ぎをし、ついには「悩みがあるならいいカウンセラーを紹介する」とまで言ったので、さすがに誠も日頃の行いを反省した。
塩田綾を捜すためにナイトクラブへ行く件について、ジェームスは賛成も反対もしなかった。
「何か厄介事が起きた時に、日本人はすぐ弁護士を雇う事を考えないんだろうか?」
彼女が何かのトラブルを抱えているかもしれない話をすると、ジェームスは不思議そうに尋ねた。
「弁護士を頼む種類の物じゃないかもしれないし、日本人がイメージする弁護士てのはアメリカと違うかもな。日本では弁護士の地位は、多分もっと高いよ。それにアメリカ人ほど訴訟好きじゃない」
実際に日本の弁護士について、よく知っている訳ではない。しかし、アメリカの方が人口の比率から言っても、圧倒的に弁護士の数は多いだろう。
「訴訟まで行かないケースも多い。俺達は便利屋だよ。安い料金で済む事もあるし、自分で苦しみながらトラブルに対処するよりも、プロを雇って任せた方がずっと楽な筈だ」
「アヤ・シオタを見付けたら、そう言っておくよ」
トレイシーとは、十一時半過ぎに落ち合い、午前三時位までワイキキ内のクラブを数軒廻った。
留学生らしい日本人を見付ける度に声を掛け、写真を見せて尋ねたが、はかばかしい答えは一つも帰って来なかった。
大音量で音楽が掛かっているクラブの中で、ナンパでもないのに面識のない人間と話すのは疲れる。終いには、誠もトレイシーも喉が痛くなってしまった。そもそもナイトクラブで人捜しをするなんて、笊で水を掬うような行為ではないのか。
豪快な空振りに誠は虚しさを覚えたが、あと数回はナイトクラブ巡りをしようと渋々思った。
日付は変わっていたけれど、浅井友子の話も含めて、収穫が少ない一日だった。